BEYOND THIS POINT ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


「最初の恋、最後の儀式」 イアン・マキューアン


まず解説がとてもいい。作者のデビュー短編集に相応しく、訳者のあとがきに彼の作家になるまでのエピソードが触れられていて、この解説部分も興味深く読める。イアン・マキューアンはイギリス最初の創作課の学生だったという。
Do Different

「立体幾何学」。ユーモアの通じない、頭のカタい御仁や PTA のおばさんはおことわり!というばかりに、まず競売で買った「ホルマリン漬けのペニス」についてドライに語られる。口調はドライだが、描写は執拗で、ときにグロテスクであるため、脱落する人もでるだろう。しかしその後の展開は、まさに奇想天外なストーリーで読者をグイグイ引っ張り、ラストの鮮やかな幕切れまで一気に読ませる。まるで手品を見ているようだ。

「自家調達」。男性にとってはちょっとビターなストーリーかもしれない。この主人公のように妹をレイプまがいに犯さなくてもだ。マスターベーションを覚えた少年は、次に童貞を意識し、それを克服すること(童貞を捨てること)に思考の限りを尽くす(かなり饒舌だ)。イタイところを突いているのは、妹との性行為の及んだとき、主人公が思うのは、SEX をしている自分の姿、「輝かしい姿勢」をしている自分の姿を友人、知人に見せ付けたいという虚栄心が、本来の快楽の前に働くという点だ。この心理のメカニズムは当たっていると思う。

「蝶々」は孤独な青年が少女に猥褻行為をし、殺す、という残忍で、読み手にショックを与ずにはおけない作品である。にもかかわらず、一人称で語られる口調はどこまでも冷静で、メランコリックでもある。精緻な心理分析は青年の孤独と閉塞感に深くメスを入れ、扇情的なクライム・ストーリーやポルノグラフィーと一線を引いている。少女を誘い、薄暗いトンネルの中で彼が行う射精世界一哀しいエクスタシーだろう。ルース・レンデルの「カーテンが降りて」という短編と同じような哀切を感じる。

「最初の恋、最後の儀式」。怠惰な夏を過ごす若者たちのところへ、突然の侵入者(鼠)が現れ、一瞬のうちに SEX と死のグロテスクさを思い知らされる。鰻と子供を孕んだまま死んだ大鼠は、毒々しい性欲と不毛の性の象徴だろう。とくに鼠を殺すシーンは、露悪的とも言える不愉快な表現、ムカツクような描写のオンパレードで、相当なダメージを受ける。まるで人でも殺したような後味の悪い気分にさせてくれる。

他に「夏が終わるとき」「劇場の大将」「押入れ男は語る」「装い」収録


BGM:エルヴィス・プレスリー 「ラブ・ミー・テンダー」  



「人形とキャレラ」 エド・マクベイン


人形を抱き、語りかける少女アンナ。彼女は脅えている。隣室では彼女の母親でファション・モデルのティンカ・ザックスが何者かに襲われているのだ。
すざましいシーンで幕を開ける87分署シリーズ。実際の捜査活動ばかりでなく、キャレラをはじめ、決して天才でも聖人でのない刑事たちの愚直ともいえる生きザマがリアルに描かれ、読み応えがある。例えば、今回の事件の捜査中にキャレラが犯人に襲われ、彼と思われる焼死体が発見された。そのとき
テディ・キャレラは、声に出せない悲鳴をのどに込み上げた。彼の死を報告する刑事の唇の動きを複雑な気持で汲み取った。
マイヤー・マイヤーはふらりと公園に出かけ、ベンチに座り、亡き友のために声をしのばせて泣いた
コットン・ホース刑事は映画を見にいった。ハデな西部劇だった。見終わったあともキャレラの死を忘れることは出来なかった。
普段からキャレラの闘志を憎んでいたアンディー・パーカーだったが、キャレラの死の報告を受けてからは酒を飲みつづけ、その晩は売春婦と寝た。彼は女にグチを言うだけだった。「腕ききの刑事だったのに、よ」
最後にキャレラに腹立ちまざりの暴言を吐いた、クリング刑事は、なにがなんでも真相をつきとめてみせると決心した。
泣かせる。あざといくらいだ。「ピアノを弾くのは少年時代からの夢だったんだよ、これから一生懸命ならおうと思うんだ」とテディがピアノにもたれて夫のことを思うシーンもジーンとくる。マクベインの作品はリリックなんだなとつくづく思う。
事件はディンカ・ザックスの暗い一面が明らかになり、急展開する。「犯人はディンカからふたつの生命をうばったわけだ、ひとつは本人が終止符を打とうとしていた人生、ひとつは本人があらたに踏みだそうとしていた人生だ」
それにしてもキャレラ、カッコ良すぎるぜ!



BGM:フレデリック・ショパン作曲 ノクターン第2番  




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