BEYOND THIS POINT ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


ガラスの独房
THE GLASS CELL
パトリシア・ハイスミス / Patricia Highsmith
瓜生加寿子訳、扶桑社ミステリー


暗闇の中で顔をゆがめて、カーターは自分の良心を模索した。が、そこには、漠とした空間しか見えなかった。良心がすっぽり抜け落ちてしまったような感覚だ。自分にはもう、良心などこれっぽっちも残っていないのではないか。
無実の罪で投獄され、「囚人」として刑務所で過ごす建築技師フィリップ・カーター。看守によるリンチ、医師による大量のモルヒネ投与、囚人同士のトラブルを「経験」し、ごく普通の男だった彼が次第に変わっていく…。
そして、やっとのことで出所したカーターに待ち受けていたのは、彼の妻ヘーゼルと弁護士サリヴァンとの不倫の噂だった。カーターはそのとき、もう以前の彼ではなかった…。

のっけから暴力的なシーンで始まる。刑務所内のリンチ場面。そして囚人たちの暴動。その描写はリアルで圧倒的な迫力を持つ。ミッチェル・スミスの『ストーン・シティ』の向こうを張る出色の「プリズン・サスペンス」と言えるだろう。

特筆すべきは、この作品はミッチェル・スミスに先立つこと約20年前、1964年に発表され、しかも女性作家であるハイスミスの筆によるものであることだ。彼女がここまで凄絶な「刑務所の中の世界」=「男だけの世界」=「アンダー・ワールド」を描き切っていることに驚きすら感じる。
もちろんこの作品の展開は、覗き見的な暴力描写に終始するはずがなく、ハイスミス独特の冷徹な人間観察に痛烈に打ちのめされる。この作品のテーマは、ごく普通の人間(善良と言ってもよい)が、どうやったら平然と人を殺せるようになっていくのか、ということにある。

だが、よくあるサイコ・スリラーのように、明らかに異常な人物を「華々しく」登場させたり、心理学や精神分析を「まんま引用」して、脆弱なストーリーを煩く取り繕うことはしない。この作者はそんな「姑息」な手段など眼中にないようだ。
主人公カーターは、あくまでも静かに、人間性を変化させていく。まるでフランス語を習うように、淡々と、冷酷な殺人者としての精神構造を体得していくのだ。

その内面のメカニズムが最上のサスペンスになっている。その淡々とした心理描写が最高に息詰まるスリラーになっている。さすがハイスミスだ!




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生者たちのゲーム
A GAME FOR THE LIVING
パトリシア・ハイスミス / Patricia Highsmith
松本剛史訳、扶桑社ミステリー


メキシコを舞台に、1958年に書かれたハイスミスの比較的初期の作品。冒頭に殺人が起こり、最後に犯人が示されるという、一見、実にミステリーらしい構成を取る。
しかしそう感じるのは読み終わってからの結論であって、読んでいる最中には、いったいストーリーがどう展開していくのかが全くわからない。

つまりこの作品も他のハイスミス作品同様、ある種の居心地の悪さを感じながら、予断を許さないハイスミス独特のサスペンスに翻弄されることになる。

ストーリー
アメリカ生まれのテオドールとメキシコ人のラモンは、二人ともリーリアという女性を愛していた。リーリアも二人を愛していた。三人は友情と愛情で結ばれた「不思議な三角関係」を保っていた。
そんな中、リーリアが何者かに惨殺されてしまう。テオドールはラモンを疑い、ラモンはその罪を認める。しかしテオドールにはラモンの告白を全面的に信じることができない・・・。


この作品で最も違和感を覚えるのは、テオドール、ラモン、リーリアという三人の関係である。男二人に女一人。通常なら男同士の女性をめぐる争い、嫉妬、あるいは二人の男性を手玉にとる悪女といった設定を取るはずだ
しかしそうはならない。それどころかこの三人の関係こそ実に安定した調和の取れたものだった──そんなふうにハイスミスは、事あるごとに強調して描いている。しかもテオドールとラモンの間には、単なる友情を超えた同性愛的な雰囲気さえ漂う。

(もちろんこの作品が執筆された1950年代に限らず、現在においても、この作品に見られる貧富の差、人種、宗教の違いを超えた二人の男が接点を持つことは、通常ならほとんどないだろう。ラモンの度を越えた罪の意識、あるいは彼がドビュッシーの音楽を聴くという繊細な感受性を持っていることなどを考えると、同性愛的なモチーフがあることは、いくつかのシーンの描写によっても明らかだ。”ラモンはテオドールの肩に腕をまわし、自分の道化のマスクをテオドールの頬に押し付けキスの仕草をした”

だから、リーリアを失ったテオドールとラモンの関係は、支柱を失ったトライアングルのごとく不安定になり、生活観、宗教観、死生観の違いが(いまさらながら)明るみになり、二人は対立する。彼らは思索し、議論をするのだ。
そして思弁的なクライマックスともいえるミイラ(死者)のあるグアナファトの墓場で、彼ら(生者)は、この(文字通りの)ミステリー(ゲーム)を終結させる。そのとき、あまりにも暴力的なもう一つの死が突然訪れ(本当に恐ろしいまでの非情さだ)、そして、リーリア殺しの犯人が示されることになる。

しかし、僕はこのラストにはハッピーエンドを感じる。テオドールとラモンに「新たな女性」が加わり、再び彼らの関係に「安定」が戻るようなイメージを読み取れるからだ。




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世界の終わりの物語
Tales of Natural and Unnatural Catastrophes

パトリシア・ハイスミス / Patricia Highsmith
渋谷比佐子訳、扶桑社



1987年に出版されたハイスミス最後の短編集。意外なことにアメリカ社会を舞台にした作品が目を惹く。ヨーロッパに住むアメリカ人として、レーガン/ブッシュ(保守反動)共和党政権に何かしら感じとっていたのかもしれない。
それはそれとして、どの作品も強烈な毒(悪意)を放つ作品ばかりである。(老婆心ながら)心して読むように!

『奇妙な墓地』
人体実験が行われているであろう、とある病院付近の墓地で不気味な巨大キノコが大発生する。ホラー、あるいはパニックものにストーリーが展開していくかと思いきや、ブラックな笑いで世評をあざ笑う。特に芸術家たちが、正体不明の奇妙なキノコにインスピレーションを得て「母性」という作品を作るあたりに、ハイスミス特有の強烈な悪意を感じる。
また『薔薇の騎士』というズボン役(女性が演じる男役)が登場するオペラから取った名前は、ハイスミスがレズビアンであることを考えると意味深だ。

『白鯨U あるいはミサイル・ホェール』
主役は雄のクジラ。寓話めいた話で、設定はともかく、この作品集では(あくまでもこの作品中では)、案外おとなしめのストーリーだ。しかし、クジラが「あの人間ども」と怒り心頭するあたりに作者の声がダブって聞こえないでもない。

『ホウセンカ作戦 あるいは”触れるべからず”』
杜撰な産業廃棄物処理の告発! というよりも、覚めた視線で、お役人仕事をおちょくっている感じのストーリー。相変わらずすさまじい毒舌だ。特に原発の職員たちが視察旅行と言う名の休暇をとって「あたしら、この先も放射能を浴びるんだもんね!」とTVに向かってはしゃいでいる姿の筆致には、もう何も言えない・・・。

『ナブチ、国連委員会を歓迎す』
まさに「書いてはいけない」作品だろう。開発途上国の「内情」をコミカルにそして辛辣に描いている。

『自由万歳! ホワイトハウスでピクニック』
僕はこの作品が一押し! 「経費削減とヒューマニズム」という大義名分のもとに、犯罪者と精神病院入院患者を「解放」した顛末気。軟弱な道徳観なんて、一瞬にして蹴散らされてしまう、とっても危険なストーリーだ。ハイスミスの毒が凝縮したような、本当にガツんとくる一編。
そうそう、読み終わってから気がついたんだけど、登場人物の一人で自分を「クレオパトラ」だと思いこんでいるミス・ティラーって、もしかしたらエリザベス・テイラーにひっかけているのかな。そうだとしたら、これも酷い話だ。

『<翡翠の塔>始末記』
ミミズが大量発生する映画『スワーム』あたりを思い出す昆虫パニックストーリー。この作品で大発生するのはゴキブリ。ゴキブリが苦手な人には”たまらない”作品だろうが、同じハイスミスの『かたつむり観察者』(「11の物語」)よりは、ムズムズ感が少ない感じだ。それはこの作品がどちらかというと、ゴキブリに翻弄される人間たちの愚かさを喜劇的に描くことに重点を置いているからだろう。

『<子宮貸します> 対 <強い正義>』
この作品も余程の勇気がない限り書けない作品。代理母の組合とそれに反対する宗教団体の争いを、あくまでもコミカルに描いた作品。やっぱりハイスミスは強かった! 『女嫌いのための少品集』と同様に、男には絶対書けない、書いてはいけないストーリーだ。

『見えない最後』
この作品も「書いてはいけない」部類に入る、この短編集随一の「大問題作」。長生きすることは良いことなのだろうか? という問題を、200歳の老女を「例」にハイスミスが鋭いメスを入れる。道徳家は絶対読んではいけない。

『ローマ教皇シクトゥス六世の赤い靴』
ローマ教皇を主役にしたスケールの大きい(?)異色作。他の作品と比べてかなり読後の印象が違う。「寛容なカトリック教徒」とはどういうものか、女性であり、同性愛者であるハイスミスのストレートな信条告白なのかもしれない。

『バック・ジョーンズ大統領の愛国心』
明らかに、ある時期のアメリカ政府を皮肉った作品だ。この作品はまさに「世界の終わり」を描いている。なんとなく、昔見たフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの「TWO TRIBES」というミュージック・ビデオを思い出す。




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