BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


A Swell-Looking Babe (1954)

ジム・トンプスン / Jim Thompson

VINTAGE CRIME / BLACK LIZARD




大学をドロップアウトし、無能な父親の世話をしながら、ホテル・マントンで夜勤のベルボーイの仕事に就いているダスティ・ロード(Dusty Rhodes)。彼はホテルの泊り客である謎の女マルシア・ヒリス(Marcia Hillis)に心を奪われた。しかし、彼女と関わりを持ったため、ダスティはホテルを根城にしているギャング、タグ・トロウブリッジ(Tug Trowbridge)のホテル襲撃計画に巻き込まれていくことになる……。

意外だったのが3人称の文体。まあ、大部分が主人公ダスティの視点で語られるのだが、部分的に別の人物の視点やモノローグが混じる。
普段一人称で書いている(と思われる、そんなに読んでません)作者がどうして3人称を採用したのか? それはやっぱり「ミステリー」にしたかったのではないか、というのが個人的な考えだ。他にあるだろうか?

始めのほうは、謎めいた女(典型的なファム・ファタール)の存在やギャングによるホテル襲撃など、いかにも犯罪小説風になっているのだが、後半になると意外な事実が次々と発覚し、登場人物をめぐるさまざまな謎=因縁が露呈していく。

ここで、破滅への一途を辿る主人公ダスティの様は非常に哀れであり、その作者の筆致にはサディスティックな感じさえする。負け犬をさらに追い詰めていく感じだ。ここには、スタイルや文体はまったく違うにもかかわらずなんとなくルース・レンデルの作品を思わせるところがある。

レンデルを引き合いに出したが、主人公のダスティには狂気や精神異常は感じられない。『内なる殺人者』のルー・フォードあたりとも全然違う。ただしここにはとびきりのタブー(好きなくとも発表時には)が潜んでいる。つまり近親相姦のモチーフだ。ダスティと彼の母親との関係が暗示され、マルシアに母親のイメージが重なる(マルシアはダスティよりずっと年上だ)。
ダスティは不安な面持ちでベッドに寝転んでいた。まだ考えごとをしていた。彼は少女たちに無関心だった、彼女たちでは満たされなかった、それは彼女(母親)が原因だったからなのか? そうだ、彼女だ。彼は今ではそのことを認めた。彼女が唯一の女性だったのだ。彼女と瓜ふたつ(counterpart)のマルシア・ヒリスと会うまでは、他に誰もいなかった。
--p.64
そしてここからダスティの(あるいは筆者の)強烈な女性観が吐露される。(あまりに凄絶な文章なので、ちょっと訳せません。とにかく"hate" の繰り返しが凄まじい)
...he realized now, he had always hated. Yes, hated. Hated, hated, hated! Hated when he had touched her, the woman who was all woman. Hated-hated him-if he even came near her. Hated and wanted him to die.
--p.122
この近親相姦のモチーフは、オイデプスの物語=ギリシア悲劇をなぞり、父親殺しに発展する。そういった意味ではプロットはとても緊密に出来ている。やはりこれは3人称のメリットだろう。そしてダスティはスフィンクスの質問(弁護士 Kossmeyer)に応えられず、谷底へ突き落とされることになる。
ラストの皮肉で悲劇的な運命。ダスティ・ロードは巧妙な罠に嵌った「哀しきギャロウグラス」でもあった。




INDEX / TOP PAGE



内なる殺人者 
The Killer Inside Me (1952)

ジム・トンプスン / Jim Thompson
村田勝彦訳、河出書房新社




宮脇孝雄の名著『書斎の旅人』の中でも指摘されているように、50年代中頃からアメリカでは優れたミステリーが数多く発表され、「本場」イギリスの地位を揺さぶるようになる。レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』、アイラ・レヴィン『死の接吻』、マーガレット・ミラー『狙った獣』、パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい(リプリー)』、エド・マクベイン『87分署シリーズ』等。

この一連の傑作群の中に、1952年に発表されたジム・トンプスン『内なる殺人者』を加えないわけにはいかない。このトンプスンの小説は、安物雑貨店のドストエフスキーというキャッチ・フレーズがまさにピッタリの暗黒小説(ノワール)で、ジャンルを超え、時代を突き抜けた傑作である。エンターテイメントとして「軽い」気持ちで手を出すと「火傷」する、凄絶な物語だ。
やはり、と言うか、発表当事は本国アメリカよりも、サルトル被れのフランスで熱烈に受け入れられた。

ストーリーは、主人公の保安官補ルー・フォードが、次々と殺人を犯していくというものだが、その彼の異常さ、残酷さは徹底して凄まじいものがある。もちろん現代作品に比べると、描写において、当時の「検閲」を遵守した「苦労」が感じられるが、それでもサディスティックなイメージ(素手で女を殺す、ボコボコに嬲る)には容赦がない。
また、『残酷な夜』もそうだが、彼の凶行を読者に(楽しそうに、嬉々として)語りかける、まるで共犯関係を強いるような一人称の「文体」には、独特の効果/読後感を与えてくれる。これも一種の「エクリチュールの勝利」だろう。
注目すべきは、この年代の作品としては、早くも心理学(精神病理)的なアプローチ(家政婦による性的トラウマ)がなされていることである。この主人公は人格の分裂とまではいかないが、自分の中に巣食う「内なる殺人者」の存在を自覚しているのだ(彼はフロイトやユング、クレペリン等を読んでいる)。

あと、深読みのために、いくつか気付いた点を挙げておく。
●フォークナーの『サンクチュアリ』との関連(「とうもろこしの穂先」という言葉、ルー・フォードは父親にパイプカットされていること、要するに不能)。
●被害者のほとんどがルー・フォードを「慕って」いたことから、彼には(まさに!)ドストエフスキー『悪霊』の悪魔的な主人公ニコライ・スタブローギンのキャラクターを感じさせること。




INDEX / TOP PAGE



ポップ1280
  POP.1280 (1964)

ジム・トンプスン / Jim Thompson
三川基好訳、扶桑社




笑えや笑え、はていかにして。
口で、鼻で、はたまた喉で、
五感すべてで、いざ笑わん。
されど、赤き心の底より笑わずば
笑うてなんの益やある。

──ペリエのバナヴェントゥーラ『新しき娯しみ、愉しき閑談』(1558)

ポール・バロルスキー『とめどなく笑う』(高山宏他訳、ありな書房)より

マーガレット・ミラーの『鉄の門』と『ミランダ殺し』、どっちが面白い? って訊かれて、応えを窮するように、ジム・トンプスンの『内なる殺人者』と『ポップ1280』どっちがいい? と訊かれても困る。まあオレの好みで言えば、通常、暗くて陰惨な方を選ぶ。すなわち『鉄の門』であり『内なる殺人者』のほうだ。
しかし気分によって、人によって、あるいは酒に酔っているとき(笑)なんかは、『ミランダ殺し』『ポップ1280』を「最高だせ、これー」なんて言ったりするかもしれない。

とにかく面白い。抜群のユーモアに何度となく笑ってしまった。ストーリーは、イカれた田舎町の保安官が次々と殺人を犯していくというものだが、似た設定の『内なる殺人者』と違って、語り口はやけにコミカルで、軽快だ。
主人公ニック・コーリーは、一見無能そうでいて、その実しっかりと「悦ばしき知識」を有している巧緻に長けたキャラクター。なかなかのハンサムでやたらと女にモテる。二股三股なんてあたりまえ。もちろん仕事は適当。
もっともこんな状況が長続きするわけではなく、身から出た錆というべきトラブルが次々と彼を見舞い、「出口なし」状態に追いこまれる。保安官選挙も迫ってくる。しかしそこは我らがヒーロー。アンチ・ヒーローぶりを存分に発揮、悪行と強運でなんとか切り抜ける。その様は、まったくブラックユーモアとしか言いようのない哄笑に包まれる。

そうした黒い笑いをこめて、作者トンプスンは彼独特の世界観をプレゼンしていくのだが、次第に、単なる哄笑では済まなくなってくる。その滑稽とも深遠ともつかぬ「神なき世界」に圧倒される。
誰もかれもがそうなんだよ。糞が飛んでくると、あわてて顔をそらすやつ。片方の手の親指をケツの穴につっこみ、もう片方を口につっこんで、てめえのちんぽこの上にすわりこんで、何ごともなくすみますようにと祈っているやつ。レモネードだと思って淫売のションベンを飲んでいるやつ。神の形に作られたとかいう忌々しい人間全部。まったく神様とやらがそんな姿をしてるんだったら、闇夜の晩なんかにお目にかかるのはご免こうむりたいぜ
--p.161
下品で猥雑なシーンの連続に、ケツとクソという言葉の連打音的痙攣に、そして凄絶な暴力の横行に、人口1280人のポッツヴィル全体が、一種の汚物溜であることを知らしめてくれる。のみならず、ニック・コーリーがキリストの属性とシンクロしたとき(痴愚神礼賛!)、そのときこそ、オレたち読者の住んでいるこの世界もまた、巨大な汚物溜であることを知らしめてくれる。そこに、素晴らしく豪快に響き渡るトンプスンの笑い声が聞えないだろうか。

汚物溜に生きているオレたちが、気取って、繕ってどうする? エレガントなノワール小説でエレガントなガス抜きか? 所詮、オレたちは始終ケツのにおいを嗅ぎ合っている犬と同類だ。その滑稽な自分たちを思い、おもいっきり笑い飛ばすしかないだろう。
この犬に倣い、諸君も事理に聡くなられ、これらの滋味に富んだ良書の良書たる所以を嗅ぎ分けて、その真価を悟り、これを味わい、この上ないものと思うべきであり、獲物を追うに当たっては軽捷、これに立ち向かうに際しては大胆になるべきである。
──フランソワ・ラブレー『ガルガンチュア物語』
ポール・バロルスキー『とめどなく笑う』より





INDEX / TOP PAGE