邪魔をしないで
Not to Disturb
ミュリエル・スパーク / Muriel Spark
深町真理子訳、早川書房
金持ちを相手にする場合、ジャーナリストがおもに興味を持つのは、内証のうわさ話なんだ。近代国家においては、いわゆる大衆雑誌が使用人控え室にとってかわったのさ。そういう意味で、われわれの特権的立場は古今に比類がない。家事使用人という職業は、将来性のあるものだ。
変! なんてヘンな小説なんだ。
でも、
上手い! なんてウマい小説なんだ。
ミュリエル・スパークの小説を読みなおして、
心の底からそう思った。
常軌を逸した小説である。そもそも通常の意味で「小説」と読んでいいのか疑問がわく。一切の状況や説明を極限にまで切り詰めた文体は、一切の感情移入、一切の小説の「体温」が排されている。まるでウェーベルンの冷酷な音楽のよう。
いちおうストーリーらしきものを書いてみると……
スイスの湖畔に建つある男爵の屋敷。ここにいる大勢の使用人たち(一癖も二癖もある人物たち)は、主人である男爵と男爵夫人、それに二人の共通の愛人でもある青年秘書との「惨劇」をいまかいまかと待ちわびている。
彼らは、男爵が放った「邪魔をするな」という命令に確実に従う。そして最後には「惨劇」が予定された通りに(文中にある言葉を使うと、太陽系の軌道のように精確に)「実行」される。
なんとなくルース・レンデルの『ロウフィールド館の惨劇』やマーガレット・ミラーの『ミランダ殺し』を思わす。使用人が天下を取るという意味合いではレンデルに近いが、全編これブラック・ユーモア、サタイアという点ではミラーの作品との近似が感じられる。
しかしこのスパークの小説には、もう一つ重要なポイントがある。それはこの作品が「現在形」で書かれてあるということだ。これにより、小説を読んでいる「読者」のみならず、小説の「登場人物」までが「作者」スパークに降り回されている──感じがする。
彼らには、「男爵夫妻惨劇のシナリオ」が与えれていて、それに従って行動(演技)しているはずなのだ(それが小説の登場人物の「仕事」だろう)。
しかしスパークは、現在形で書くことによって、登場人物の「仕事」の最中に「シナリオ」の一部を変え、登場人物を翻弄させる。
まるで「使用人たち」の本当の「主人」は「男爵」ではなくて、「作者スパーク」であることを「読者」に悪戯っぽくウィンクして示しているかのように……。
なんだかポスト・モダンやメタなんとかといった「前衛小説」の技法を思わせるところも確かにある。しかし、スパークの小説は、そんな頭でっかちのインテリっぽい小説とは全く違う。文章は平易、長さも200ページ足らず。全然難解な話ではない。なにより無類に面白い。
彼女の小説は、まるで手品をを見ているような、まるで心地よい魔法にかかったような、鮮やかなショック=感激を与えてくれる。