シティ・オブ・グラス
City of Glass
ポール・オースター / Paul Auster
山本楡美子、郷原宏訳、角川書店
ニューヨーク三部作の第一作目。ミステリー(ハードボイルド)の形式を借り、ミステリー小説について言及し、「ミステリー」について書いた形而上学的ミステリー。といってもその実体は「青少年のための古典文学入門」だったりする……ようだ。
(いちおう)主人公のダニエル・クィンは作家で、ウィリアム・ウィルソンというペンネームを用い私立探偵マックス・ワークが活躍する探偵小説を書いている。ある日クィンのもとにポール・オースター宛の電話が掛かってくる。電話の主はピーター・スティルマンという若者で、自分は父親(同姓同名のピーター・スティルマン教授)に命を狙われているので守って欲しいという依頼だった。
かくしてクィンは探偵ポール・オースターとして行動を開始する。
ウィリアム・ウィルソンという名前によってまずこの物語は「分身」と「アイデンティティ」の問題を孕んでいるな、と容易に想像がつく。さらに聖書のバベルの塔の挿話やミルトンの『失楽園』(これらはスティルマン教授が書いた論文の中で紹介される)、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』など言語学や現代思想好みの文学作品が論じられ、言語とは何か、名前とは何か、という少々退屈ながらも、この小説全体の仕掛けとして重要な伏線が張られる。
ここで最も重要なエピソードはドン・キホーテの話題だろう。ダニエル・クィンはドン・キホーテと同じ「D・Q」のイニシャルを持つ人物である。そして、このオースターの小説自体もセルバンテスの「テクスト」に倣って、作者ポール・オースターがのほほんと登場するなどどこか小説として「逸脱」が見うけられる。
何よりクィンは、ドン・キホーテが「騎士道物語」を読み過ぎて「騎士」になったように、彼は「探偵小説」を読むことによって「探偵」になったのだ。
…クィンは推理小説の熱狂的な読者だった。ほとんどの作品はつまらないもので、鑑賞に耐えるものではないことを知っていた。しかし、それでもそれは彼の心をとらえる形式だった。(中略)気分が乗ったときには十冊から十二冊ぐらい立てつづけに読んでも苦にならない。それは一種の空腹感、特別料理に対する渇望感に似ていた。そして彼は満腹になるまで食べるのを止めなかった。
─ p.10
そして、『ドン・キホーテ』自体が「騎士道物語」の解釈になっているように、『シティ・オブ・グラス』自体も「推理小説」の一つの解釈になっている。
こうした本について彼が気に入っているのは、その完全性と経済性だった。良質なミステリーには無駄がなく、意味のない文章や言葉がない。たとえ意味がなくとも、いずれは意味を持つ可能性がある──つまりそれは同じことだ。本の世界は命を持ち、可能性と秘密と矛盾をあわせ持っている。見られたり語られたりするものすべてが、どんなささいなことや、つまらないことでも、ストーリーの結末に関連してくるので、何ひとつ見過ごすわけにはいかない。すべてが不可欠なものになる。つまり、小説の中心が、事件の進行とともに移行する。だから、いたるところに中心があり、結末に至るまで円周は描けないのだ。
─ p.11
まさにこの文章の通りに、ストーリーは展開していく。すべてのエピソードは何かしら関係付けられ、結末に向かって小説の中心が移行していく。そして、結末に至り、この小説の円周がおおよそ描かれたところで、読み手はそこに、すべてを飲みこむ底無しのブラック・ホールが出現していることを発見する。この小説で構築された世界は、結末で見事に破壊されてしまう。
個人的には麻耶雄嵩の作品に近い読後感、あの崩壊感のようなものを味わった。