ぼくの剣
LES ÉPÉES (1948)
ロジェ・ニミエ / Roger Nimier
田代葆訳、国書刊行会
今になってみると、美しき心というやつをもったぼくが、死か、でなければ強制収容所に向けて旅立ってゆく人々に対して、一度たりとも同情心をもちあわせなかったことに、自分でもびっくりする。そのことは、明らかに、人がヒューマニズム、と名づけている人間にたいする特殊電気との接触不良が原因。その欠落はぼくにこう考えさせる、ある一人の見知らぬ人間が銃殺されでもすると、そいつが自然に殉教者に転じうるのは、めちゃくちゃな話だ、と。
-- p.71
国書刊行会「1945:もうひとつのフランス」シリーズの一冊。個人的にわりと気に入っているシリーズで、他にドリュ・ラ・ロシェルの『ジル』を読んだことがある。このシリーズの特徴はもちろん、第二次大戦中、実際に親独派だった作家や登場人物が親ナチであったりするものを集めてわけで、言わば、文学的な側面よりも政治的な側面でセレクトされている。政治的と言えば、福田和也氏が月報を書いているのも、何となく……である。
このロジェ・ニミエの『ぼくの剣』は1948年、著者23歳のときに書かれた。1948年という時期(それとも英米と比べればと言うべきか)を考えればかなり過激である。ドリュ・ラ・ロシェルの『ジル』が親ナチのファシスト青年を主人公にしながらも、どこか生ぬるく、エゴイスティックでナルシスティックな側面ばかりが目立つ、よくある「インテリ(モラトリアム)青年の恋愛小説」風なのに対し、ニミエの小説は、アイロニーと暴力が前面に出た「真のアンチ・ヒーロー」ものである。
なにより小説の冒頭からしてエグい。『ぼくの剣』は主人公フランソワ・サンデールのマスターベーションのシーンから始まる。彼はマレーネ・デードリッヒの写真に精液をぶちまけるのだ。
サンデールは、その後、レジスタンスや親独義勇隊(ラ・ミリス)を行き来し、1945年フランス解放の年に殺人──ユダヤ人射殺──を行う、「サンデールのバカタレ!」と叫びながら。(訳者の解説によると、この殺人の前後でサンデールの自我の世界=自分史が始まり、「彼の剣」が振り下ろされ、1945年の「フランス解放の日」に最も馬鹿げた<殺人>を行ったということだ)
気になるのはその文体で、最初の章以外、サンデールの一人称で語られる。どことなくジム・トンプスンの登場人物を思わす語り口である。クソや馬鹿、売春婦、ブスといった罵倒語も頻繁に登場する。しかもときどき発する妙に高踏ぶった「議論のふっかけ」も『内なる殺人者』のルー・フォードあたりにに近いものがある。
さらに主人公の女性嫌悪も、ジム・トンプスンあたりのノワール小説に匹敵する徹底さで、登場する女性の「形容詞」もブスでデブで淫蕩で裏切り者でスパイで……と枚挙に暇がない。このあたりの女性観は英米のハードボイルド小説にも通じる「メンタリティ」であろう。(また、メンタリティの問題で言えば、ペタン元帥を「おやじ」と呼び慕うシーンなど、日本の任侠ものにも近いような感じがした)
もちろんこの小説では単なるメンタリティの問題を超えた「仕掛け」があるわけで、それは主人公サンデールと姉クロードの近親相姦にある。ギリシア神話のアシル(アキレウス)とプリゼイス(プリーセーイス)を擬えた「遊び」を行う彼ら姉弟。
しかし「共犯」関係にあったクロードが、サンデールを「裏切った」ときに、「復讐」が行われる。殺人。あっさりと、他の女に対するときのように、冷酷に。
「彼女はうまい具合に片づいた。」これがこの小説最後の言葉である。(ただし、実際の殺人は「文学的」というかかなり抽象的でわかりにくいのも事実だ)
ロジェ・ニミエの名は、多分ルイ・マルの映画『死刑台のエレベーター』の脚本家として知られているに過ぎないだろう。実際ロジェ・ニミエの名を Google で調べたら、ほとんど『死刑台のエレベーター』とセットになっていた(そういえば、ルイ・マルの『ルシアンの青春』も親独ファシスト青年の物語であった)。
批評家、小説家、シナリオ・ライター、そしてボクサー(!)であったニミエの活動については、この
『ぼくの剣』と『青い騎兵隊』(複数の人物のモノローグによって成り立っている。まるでブレッド・イーストン・エリスの『ルールズ・オブ・アトラクション』を思わせる新しさだ)巻末にある田代葆氏による『ロジェ・ニミエを読む』という大部の解説がすばらしく充実している。この37歳で死んだ才能についてもっと良く知りたくなった。