BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


モデラート・カンタービレ
Moderato Cantabile (1958)

マルグリット・デュラス / Marguerite Duras
田中倫郎訳、河出文庫



男は死んだ女のそばに座り、その髪を撫で、彼女に向かってほほ笑みかけた。(中略)マグネシウムの微光によって見たところでは、女はまだ若く、彼女の口からは細長い血の筋がいく筋か流れており、女に口づけした男の顔にも血がついていた。
群集の中の一人が、「気味が悪い」と言って立ち去った。
-- p.21

セリ・ノワール叢書ならぬ、深夜叢書(Editions de Minuit)から刊行されたマルグリット・デュラスの代表作。フランスの小説らしい、エレガントな「姦通」を扱ったもので、内に秘めた「欲望」が次第に「意識化」していく過程を静かな筆致で描いてゆく。そして他のデュラス作品同様、映像を喚起するような、流れの良い文章である。
実際映画化されていて(『雨のしのび逢い』バカじゃない、この邦題!)、主演はジャンヌ・モロー。映画は見ていないが、まさにヒロインのアンヌ・デパレートにうってつけの配役だと思う。

孤独を秘めた女と男が、偶然目撃した「別の男女の痴情殺人事件」を触媒に、接近する。二人は、殺人事件について、カフェで話し合う。
どうして男は女を殺したのか……女は男に殺されたい欲望を持っていたからだ……それは、意識的なものか、それとも無意識的なものか……二人は了解しあっていたのか……二人は幸福だったのか……。

痴情=情熱(パッション Passsion )は、そのまま、キリストの殉教(受難= Passsion )劇をイメージさせる。アンヌとショーヴァンは、その殺人事件(パッション)を自分たちに擬え、組み立ててゆく。当然、彼らのベクトルは、殺人事件同様、受難劇同様、「死」に向かってゆく。
アンヌ・デパレートはその一分を待った。そして椅子から立ち上がろうとした。ようやくの思いで彼女は立ち上がった。ショーバンは他所を見ていた。男たちはなお、この姦婦に眼を向けるのを避けた。彼女は立っていた。
「あなたは死んだ方がよかったんだ」とショーヴァンが言った。
「もう死んでるわ」とアンヌ・デパレートは言った。
-- p.144

モデラート・カンタービレ ─ 普通の速さで、歌うように。




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夏の夜の10時半
Dix heures et demie du soir en été (1960)

マルグリット・デュラス / Marguerite Duras
田中倫郎訳、河出文庫



この町が、監獄のように抽象的存在となる。もはや麦の匂もしない。雨は激しすぎた。時間は遅すぎる。もはや夜のことを語ることもならない。だが、それなら、いったい何を語ればいいのか?
-- p.72

本当に、いったい何を語ればいいのだろうか。デュラスの小説を読んで、ストーリーを紹介すること、感想を書くこと、小説の「しくみ」を殊勝にも述べること……それらの行為は、すべて、「野暮」の一言で片付けられてしまうだろう。
しかしその「野暮」はすでに上記の『モデラート・カンタービレ』で犯している。今更格好つけても手遅れだ。虚心坦懐な姿勢で望むしかない。デュラスの文章は──セリフは、感覚によって、あるいは生理の状況によって保証される特殊性「どうしようもなさ」を孕んでいるのだから。

<ストーリー>
不思議な人間関係、すなわち妻マリアと夫ピエール、ピエールの愛人クレール──三人は決して険悪な雰囲気ではない──それにマリアとピエールの娘ジュディットは、激しい雨のため、スペインのある村に滞在する。その村では、ロドリゴ・パエストラという男が、姦通をした年若い妻とその愛人を銃で撃ち殺し、逃亡していた。平穏な村はその話題で持ちきりだった。

不思議な邂逅。夫ピエールとクレールの情事を想像し苦悶しているマリアは、殺人犯ロドリゴ・パエストラに遭遇する。夜の十時半である。夏。彼女はロドリゴの逃亡を手助けようとする……。
マリアの前にひろがっているこの時間を何と名づけたらいいのか? 希望のうちに予感されるこの確実性は何に由来するのか? 吸いこむ空気がまあたらしく感じられるのはなぜか? 窮極的には対象なき愛のもたらすこの狂熱、この炸裂は何なのか?
-- p.150

<感想>
とにかく、文章/セリフの素晴らしさに痺れた。三人称であるがマリアの視点で描写される。しかも現在形。よって、淡々と描かれる、彼らの、身体の動き、心の動きが、まるで映像を見ているかのように喚起される。
流れるようなイメージの連鎖に感覚が刺激され、音楽的な言葉の連呼/連打(「ロドリゴ・パエストラ」)に、どうしようもなく身悶えさせられた。




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ぼくの剣
LES ÉPÉES (1948)

ロジェ・ニミエ / Roger Nimier
田代葆訳、国書刊行会



今になってみると、美しき心というやつをもったぼくが、死か、でなければ強制収容所に向けて旅立ってゆく人々に対して、一度たりとも同情心をもちあわせなかったことに、自分でもびっくりする。そのことは、明らかに、人がヒューマニズム、と名づけている人間にたいする特殊電気との接触不良が原因。その欠落はぼくにこう考えさせる、ある一人の見知らぬ人間が銃殺されでもすると、そいつが自然に殉教者に転じうるのは、めちゃくちゃな話だ、と。
-- p.71

国書刊行会「1945:もうひとつのフランス」シリーズの一冊。個人的にわりと気に入っているシリーズで、他にドリュ・ラ・ロシェルの『ジル』を読んだことがある。このシリーズの特徴はもちろん、第二次大戦中、実際に親独派だった作家や登場人物が親ナチであったりするものを集めてわけで、言わば、文学的な側面よりも政治的な側面でセレクトされている。政治的と言えば、福田和也氏が月報を書いているのも、何となく……である。

このロジェ・ニミエの『ぼくの剣』は1948年、著者23歳のときに書かれた。1948年という時期(それとも英米と比べればと言うべきか)を考えればかなり過激である。ドリュ・ラ・ロシェルの『ジル』が親ナチのファシスト青年を主人公にしながらも、どこか生ぬるく、エゴイスティックでナルシスティックな側面ばかりが目立つ、よくある「インテリ(モラトリアム)青年の恋愛小説」風なのに対し、ニミエの小説は、アイロニーと暴力が前面に出た「真のアンチ・ヒーロー」ものである。

なにより小説の冒頭からしてエグい。『ぼくの剣』は主人公フランソワ・サンデールのマスターベーションのシーンから始まる。彼はマレーネ・デードリッヒの写真に精液をぶちまけるのだ。
サンデールは、その後、レジスタンスや親独義勇隊(ラ・ミリス)を行き来し、1945年フランス解放の年に殺人──ユダヤ人射殺──を行う、「サンデールのバカタレ!」と叫びながら。(訳者の解説によると、この殺人の前後でサンデールの自我の世界=自分史が始まり、「彼の剣」が振り下ろされ、1945年の「フランス解放の日」に最も馬鹿げた<殺人>を行ったということだ)

気になるのはその文体で、最初の章以外、サンデールの一人称で語られる。どことなくジム・トンプスンの登場人物を思わす語り口である。クソや馬鹿、売春婦、ブスといった罵倒語も頻繁に登場する。しかもときどき発する妙に高踏ぶった「議論のふっかけ」も『内なる殺人者』のルー・フォードあたりにに近いものがある。

さらに主人公の女性嫌悪も、ジム・トンプスンあたりのノワール小説に匹敵する徹底さで、登場する女性の「形容詞」もブスでデブで淫蕩で裏切り者でスパイで……と枚挙に暇がない。このあたりの女性観は英米のハードボイルド小説にも通じる「メンタリティ」であろう。(また、メンタリティの問題で言えば、ペタン元帥を「おやじ」と呼び慕うシーンなど、日本の任侠ものにも近いような感じがした)

もちろんこの小説では単なるメンタリティの問題を超えた「仕掛け」があるわけで、それは主人公サンデールと姉クロードの近親相姦にある。ギリシア神話のアシル(アキレウス)とプリゼイス(プリーセーイス)を擬えた「遊び」を行う彼ら姉弟。
しかし「共犯」関係にあったクロードが、サンデールを「裏切った」ときに、「復讐」が行われる。殺人。あっさりと、他の女に対するときのように、冷酷に。
「彼女はうまい具合に片づいた。」これがこの小説最後の言葉である。(ただし、実際の殺人は「文学的」というかかなり抽象的でわかりにくいのも事実だ)


ロジェ・ニミエの名は、多分ルイ・マルの映画『死刑台のエレベーター』の脚本家として知られているに過ぎないだろう。実際ロジェ・ニミエの名を Google で調べたら、ほとんど『死刑台のエレベーター』とセットになっていた(そういえば、ルイ・マルの『ルシアンの青春』も親独ファシスト青年の物語であった)。
批評家、小説家、シナリオ・ライター、そしてボクサー(!)であったニミエの活動については、この 『ぼくの剣』と『青い騎兵隊』(複数の人物のモノローグによって成り立っている。まるでブレッド・イーストン・エリスの『ルールズ・オブ・アトラクション』を思わせる新しさだ)巻末にある田代葆氏による『ロジェ・ニミエを読む』という大部の解説がすばらしく充実している。この37歳で死んだ才能についてもっと良く知りたくなった。




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殺しの挽歌
Le petit bleu de la côte Ouest

ジャン=パトリック・マンシェット / Jean-Patrick Manchette
平岡敦訳、学研



ことは音楽に限らない。映画も、本も、商品名もすべてが作品の世界にとって重要な要素になっているのだ。(中略)登場人物の心理描写、内面描写をぎりぎりまで削ぎ落とす代わりに、マンシェットは人を取り巻くモノによってその人物を描き出そうとする。いや、そのようにしか人間は描けないものだと、彼は考えているのかもしれない。

 マンシェット、あるいはロマン・ノワールの極北──訳者のあとがき

ロマン・ノワールの旗手ジャン=パトリック・マンシェット。由緒正しきガリマール社のセリ・ノワール叢書からデビュー(それ以前に別名で冒険小説を書いていたそうだ)。その突き放すようなクールな文体は、いっさいの感情移入を牽制し、バイオレントなシーンをスピーディーに活写していく。

この本の主人公はある大手企業のサラリーマン、ジョルジュ・ジェルフォー。彼は些細な出来事によって、二人の殺し屋に狙われるハメになる。ジェルフォーは仕事を捨て、家族を捨て、追っ手から逃れるべく彼の「日常生活の冒険」をスタートさせる。

何やら劇画風のタッチで、例えば『クライング・フリーマン』あたりのクライム・コミックを思わせる(主人公はそんなにかっこよくないが)。ちょっと展開が荒唐無稽なところもマンガ的か。(そういえばマンシェットはフランスの有名なマンガ家でイラストレーターでもあるメビウスのアニメ映画の脚本を担当したことがあるという)

彼の文章は、一見、シンプルで非常に具体的でありながら、どことなく完全に掴みきれないような感じがするのは、もしかして作者なりの映像=マンガを「文章化」しているのかな、と思った。

あと、この小説を読んでいてちょっとニヤリとさせられたのは作者の登場人物に対する残酷な仕打ち。例えばジェルフォーとセックスをする(即物的な表現だ)プチ・ブル娘に対する態度。娘はこう言う。
「十九歳のときに、外科医と結婚したの」とアルファンシーヌは独り事のように話し始めた。「その馬鹿、わたしに入れあげてた。共有財産制で結婚して、五年で別れたわ。おかげでたっぷり巻きあげてやった」
P149
そのあと主人公のジェルフォーはジョージ・オーウェルの名前を出す。すると娘の反応は
「あなたって面白い人ね!でもいったい誰なのよ、そのジョージ・オーウェルって?」
こうのたまう、愚かで思い上がった娘の運命は……。

一方、殺し屋の男二人組に向ける態度は幾分違う。
ややあって、二人の殺し屋が海辺にとめたランチアから出てきた。どちらも海パン姿で、贅肉ひとつない引き締まった体を見せていた。ボディービルをやりすぎた筋肉の塊とはわけが違う。互いの肉体に一瞬見とれながら、二人はジェルフォーのいる海に向かって歩き始めた。
P52
このあと、このコンビの片割れがジェルフォーに殺されるのだが、死んだ相棒を思う殺し屋の怒りと哀しみの描写が実にキマッている。この二人の殺し屋は(二人の関係も含めて)申し分もなくセクシーだ。テリー・ホワイトの描く殺し屋、男たちに通じるものがある。


と、ここまで書いて、スタイルシートのプロパティをちょっといじってから週末にでもアップしようと思っていたところに、重大ニュース(でもないか)が飛び込んできた。
ミステリマガジン2001年8月号。本書の訳者でもある平岡敦氏の「洋書案内」にマンシェットの記事が載っていた。なんでも「マンシェット読本」とでもいうべき本が出版されたそうなのだが、そこになんとマンシェットがマーガレット・ミラーの翻訳していたことが書いてあった。 ううむ、このフランスの鬼才は、アメリカの鬼才マーガレット・ミラーと関わりがあったんだ! 
この記事よって俄然マンシェットに関心がわいてきた。『殺伐の天使』、『眠りなき狙撃兵』の再読、そして昔ポケ・ミスで出ていた作品を読みたくなった。




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