目には目を
Le Talion (1960)
カトリーヌ・アルレー / Catherine Arley
安堂信訳、創元推理文庫
平行して読んでいたピーター・ストラウヴと「比較」してしまうせいか、トニーノ・ベナキスタの『夜を喰らう』(ハヤカワ文庫)は、ストーリーも文章もどうも散漫で、ノレなかった。ストラウヴの圧倒的な筆力と物語の求心力とを比べるとどうしても喰い足りない。それで『夜を喰らう』を途中で放り出し、手に取ったのがアルレーのこの本だ。
アルレーはずっと以前に有名な『わらの女』を読んだことがある。確かに面白かった。
しかし、その後怒涛のごとく翻訳され紹介されたルース・レンデルとパトリシア・ハイスミスの衝撃的な「体験」で、女流サスペンスと言ったらレンデル、ハイスミスで、アルレーの存在はなんとなく忘れかけていた。
では、久しぶりに読んだ(しかも以前と比べて読書量もかなり増えているはずだ)、アルレーはどうだったか。
いやー、これが「お見それしました」としか言えないくらい素晴らしい出来だった。
登場人物は四人。ジャン、マルセル、マルト、アガットの四人だけだ。実にシンプルな心理劇で、全三章、構成も彼らの独白(つまり一人称)だけで成り立っている。
ストーリーはというと、
破産の窮地に立っている青年実業家ジャン。その妻のアガット。彼ら夫婦の前に現われた醜悪だが裕福な独身男のマルセル。アガットは、金のため、ジャンを殺し、マルセルを誑かし結婚する。やがてアガットはマルセルにもその危険な刃を向けようとする。しかしマルセルには彼をまるで自分の子供のように愛する姉のマルトがいた・・・・・・。
殺される男二人と、殺す女、そしてその女の天敵というべきもう一人の女。四人の思惑と策謀が複雑に絡み合い・・・・・・ではなくて、彼らの思惑が思いっきりストレートに赤裸々に、そして激しくぶつかり合い、まるでプロレスやボクシングの試合を見ているような熱いサスペンスに心踊らされる。
圧巻は、男二人が死んだ後の第三章。
マルトVSアガットの女同士の「死闘」だ。マルト-アガット−マルト-アガットと視点が交互に交代し、いやがうえにもテンションが高まり、熱くならざるを得ない。最終的にどう決着がつくのか、まったく予断が許せない。まさに手に汗握るデス・マッチだ。
アルレーの文章は実に巧い。隙がない。すみずみまで計算されている。しかもさりげなく、無駄がない。これほどサスペンスの高まりをフィジカルに実感させてくれる書き手はいないだろう。心理描写も恐ろしいくらいに怜悧で容赦がない。
注目すべきはアガットという殺人者の造形。まったく無邪気な犯罪者である。マノン・レスコーやテレーズ・ラカンも真っ青の「悪女」である。というよりここまでいくとある種ブラック・ユーモアとさえ取れる。だから読みながら彼女の言動にニヤニヤしたり、舌を打ちたくなってしまう。
その「アガット語録」をいくつか。
あの人は、たしかに女を知らない。知っているのは姉さんだけ。あのプチブルのオールドミスだけ。あの女の洋服、既製品だわ。
うちのコックの言うとおり、「死んだ鶏からは卵はとれない。それより焼いて食べること」だわ。
こうしているいま、もう未亡人になっているかもしれないと思うと、妙な気持ちだわ。もうジャンに会えないのはつまらない。夫としては気持ちのよい人だった。でも、夫はけっきょく夫でしかない。妻の権利である豊かな生活を保証できなくなったら、とりかえたほうがいいのよ。
アルレーの作品はよく言われるように勧善懲悪が成立しない。
文体にもよるのだろうが、レンデル、ハイスミスあたりの重苦しい「狂気」とはまったく違う。とことんナチュラルな殺人者=ナチュラル・ボーン・キラーである。人間の本性を善と悪に、理性的に、そして倫理的に分類できない。『わらの女』でもそうだが、強い者(利口な者)が勝ち、弱い者(愚かな者)が負ける。そういった意味でアルレーの小説世界は実にハードである。暗黒小説=ノワールと言っても良いだろう。
アルレーの作品は、レンデル、ハイスミスが読める今だからこそ、その素晴らしさを「比較」でき、その凄さを実感できる。ノワール小説がブームだからこそ、その救いのない世界を堪能できる。遅れ馳せながら気になる作家がまた一人増えた。