BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


白墨の男
L' HOMME DE CRAIE (1980)

カトリーヌ・アルレー / Catherine Arley
安堂信訳、創元推理文庫



「私は凍ったぶどうが好き
 何の味もしないから
 椿の花も好き
 何の香りもしないから
 金持ちの男たちが好き
 何の心もないから」
「でも、私はあなたが好き
 なぜならあなたは命だから」

p.85

アルレー流ロード・ノヴェル/On The Road。パリからニースまで、アウディは走る。二人の自殺志願者を乗せて。
中年の女性作家イリスは人生に疲れて死を思い、ヒッチハイカーの医学生アルフレッド(ドゥドゥー)は人生に何も期待していない。二人は偶然出会い、そして三日後に死ぬことを計画する。「最後のバラ色の三日間。あとはみなさん、さようなら!」

猶予は三日。しかしこの三日間に人生の大事件は起こる。途中彼らは銀行強盗に出くわし、壮絶なカーチェイスを繰り広げ、熱い戦いに挑む。まったく冒険小説並みの迫力ある展開に心踊らされる。
そして、4ページにも渡る、これまた熱いシーン。つまりラヴ・シーン。さすがフランスものだけあって、
つづけざまに三回、一度も離れずに、彼らは一つになった。イリスの火で鍛えられた若い神のトレドの剣がマルク王の剣となったのはずっと後のことだった。
p.133
官能シーンも、こんなふう。エレガントだけとかなり具体的、一切手を抜かない。

全体として、強烈なサスペンスの只中にあって、そのキレ味鋭い文章の中に、時折覗える作者の辛辣でありながら卓越した人生観にハッとさせらる。ここにはハードボイルド的な趣さえ感じとれる。ワイズ・クラックの宝庫とも言える。
急に彼女は特大のウィスキーがほしくなった。四十を過ぎた人間が、問題の解決を見つけるのはたいていグラスの底である。もっとも問題を沈められるくらいグラスが深いことが必要だ。
p.183

また、この作品が面白い趣向を持っているのは(というより一筋縄ではいかないのは)、「白墨の男」が、作家であるイリスの作品であるということ、つまりメタ・フィクションになっているということにある。アルレーは、作家イリスに自分の作風を「人生の断片って言ったところかな。心理を基盤にして、ちょっとエロティシズムもあって、サスペンスも少々、それをかき回して、新鮮なうちに召し上がってくださいってわけ」と語らせるが、これは当然アルレーの作風を(いささか自嘲気味に。なぜならイリスはたいして評価の良くない作家という設定だから)述べたものだろう。
白墨の男って、事件が起こった時地面に描かれる被害者の倒れたあとのしるしのことよ。この題は象徴なの。空虚な人影でしょ。小説家の技術ってこの空虚を何かで埋めることだから
p.177-178
作家イリスはアルレーの分身でもあるのだろう。とすると、この作品で語られるイリスの人生観は、アルレーのものとかなり一致するのかもしれない。イリスお気に入りセリーヌの小説やマーラーの音楽は、アルレーのお気に入りなのかもしれない。両者とも、人生に関しては、悲観的だ。
星座……山羊座。性格……躁鬱症。傾向……悲観的。物事を”正しく”従って”悪く”とる傾向……

カトリーヌ・アルレー身上書(小池真理子「人生にはむかいかけて カトリーヌ・アルレーの女たち」より、ミステリマガジン374)




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目には目を
Le Talion (1960)

カトリーヌ・アルレー / Catherine Arley
安堂信訳、創元推理文庫



平行して読んでいたピーター・ストラウヴと「比較」してしまうせいか、トニーノ・ベナキスタの『夜を喰らう』(ハヤカワ文庫)は、ストーリーも文章もどうも散漫で、ノレなかった。ストラウヴの圧倒的な筆力と物語の求心力とを比べるとどうしても喰い足りない。それで『夜を喰らう』を途中で放り出し、手に取ったのがアルレーのこの本だ。

アルレーはずっと以前に有名な『わらの女』を読んだことがある。確かに面白かった。
しかし、その後怒涛のごとく翻訳され紹介されたルース・レンデルとパトリシア・ハイスミスの衝撃的な「体験」で、女流サスペンスと言ったらレンデル、ハイスミスで、アルレーの存在はなんとなく忘れかけていた。

では、久しぶりに読んだ(しかも以前と比べて読書量もかなり増えているはずだ)、アルレーはどうだったか。
いやー、これが「お見それしました」としか言えないくらい素晴らしい出来だった。
登場人物は四人。ジャン、マルセル、マルト、アガットの四人だけだ。実にシンプルな心理劇で、全三章、構成も彼らの独白(つまり一人称)だけで成り立っている。

ストーリーはというと、 破産の窮地に立っている青年実業家ジャン。その妻のアガット。彼ら夫婦の前に現われた醜悪だが裕福な独身男のマルセル。アガットは、金のため、ジャンを殺し、マルセルを誑かし結婚する。やがてアガットはマルセルにもその危険な刃を向けようとする。しかしマルセルには彼をまるで自分の子供のように愛する姉のマルトがいた・・・・・・。

殺される男二人と、殺す女、そしてその女の天敵というべきもう一人の女。四人の思惑と策謀が複雑に絡み合い・・・・・・ではなくて、彼らの思惑が思いっきりストレートに赤裸々に、そして激しくぶつかり合い、まるでプロレスやボクシングの試合を見ているような熱いサスペンスに心踊らされる。
圧巻は、男二人が死んだ後の第三章。マルトVSアガットの女同士の「死闘」だ。マルト-アガット−マルト-アガットと視点が交互に交代し、いやがうえにもテンションが高まり、熱くならざるを得ない。最終的にどう決着がつくのか、まったく予断が許せない。まさに手に汗握るデス・マッチだ。

アルレーの文章は実に巧い。隙がない。すみずみまで計算されている。しかもさりげなく、無駄がない。これほどサスペンスの高まりをフィジカルに実感させてくれる書き手はいないだろう。心理描写も恐ろしいくらいに怜悧で容赦がない。
注目すべきはアガットという殺人者の造形。まったく無邪気な犯罪者である。マノン・レスコーやテレーズ・ラカンも真っ青の「悪女」である。というよりここまでいくとある種ブラック・ユーモアとさえ取れる。だから読みながら彼女の言動にニヤニヤしたり、舌を打ちたくなってしまう。
その「アガット語録」をいくつか。
あの人は、たしかに女を知らない。知っているのは姉さんだけ。あのプチブルのオールドミスだけ。あの女の洋服、既製品だわ。

うちのコックの言うとおり、「死んだ鶏からは卵はとれない。それより焼いて食べること」だわ。

こうしているいま、もう未亡人になっているかもしれないと思うと、妙な気持ちだわ。もうジャンに会えないのはつまらない。夫としては気持ちのよい人だった。でも、夫はけっきょく夫でしかない。妻の権利である豊かな生活を保証できなくなったら、とりかえたほうがいいのよ。

アルレーの作品はよく言われるように勧善懲悪が成立しない。 文体にもよるのだろうが、レンデル、ハイスミスあたりの重苦しい「狂気」とはまったく違う。とことんナチュラルな殺人者=ナチュラル・ボーン・キラーである。人間の本性を善と悪に、理性的に、そして倫理的に分類できない。『わらの女』でもそうだが、強い者(利口な者)が勝ち、弱い者(愚かな者)が負ける。そういった意味でアルレーの小説世界は実にハードである。暗黒小説=ノワールと言っても良いだろう。

アルレーの作品は、レンデル、ハイスミスが読める今だからこそ、その素晴らしさを「比較」でき、その凄さを実感できる。ノワール小説がブームだからこそ、その救いのない世界を堪能できる。遅れ馳せながら気になる作家がまた一人増えた。




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セバスチャン・ナイトの真実の生涯
The Real Life of Sebastian Knight (1941)

ウラジーミル・ナボコフ / Vladimir Nabokov
富士川義之訳、講談社文芸文庫



だがしかし、読者が心地よい物語のリアリティの雰囲気にすっかり酔いしれ、優雅にして壮麗なる作者の散文が高遠かつ意味深長な意図を暗示するかと思われたまさにその瞬間、ドアをノックする奇怪な音が聞え、探偵が登場するのである。ここからまた読者はふたたびパロディの沼地のなかをころげ回ることになるのだ。いい加減な男であるその探偵は、h音を落とすのだが、それは滑稽に聞えるように意図されている。と言うのも、それはシャーロック・ホームズの流行をパロディ化したものではなく、その流行に対する現代の反動をパロディ化したものであるからだ。
── p.135

多分、いや絶対に、ナボコフはクリスティの『そして誰もいなくなった』を読んでいたと思う。それはこの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』が、その展開や構成、仕掛け、「言葉の語呂合せ」に至るまで、『そして誰もいなくなった』を彷彿させる場面やクリスティ作品の持つミステリー・マインド=遊戯性に富んでいるだけでなく、小説内小説(メタ・フィクション)である『プリズムの刃先』がまさにクリスティ的作品(こちらは『オリエント急行殺人事件』を思わせる、ニヤっ)のパロディになっているからだ。

それにナボコフのような非英語圏生まれの外国人が「英語」を学び習得するために、クリスティあたりの「推理小説」を多読することは想像に難くない。
この作品はロシア生まれのナボコフが最初に「英語」で書いた作品である。

ストーリーは語り手「V」が、夭折した腹違いの兄である、ロシア生まれの架空の英国作家セバスチャン・ナイトの生涯を書き記そうと奔放する、というものである(僅かな手掛かりを元に、「セバスチャン・ナイト」を「捜索」する趣向は、私立探偵小説=ハードボイルド的でもある)。

題名の通りのシンプルなストーリーなのだが、作家である兄の書いた作品群がストーリーの流れに照応する。だけでなく、それがストーリー全体の「解答」にもなっている。
つまり、セバスチャンの書いた「小説」は、語り手「V」が書こうとしている伝記の「鏡像」から最後には、ナボコフ(彼のイニシャルも「V」)が書いた『真実の生涯』の「実像」に「レベル・アップ」する(さらにここにグットマン氏という人物が書いた『セバスチャン・ナイトの悲劇』という「虚像」も加わる)。

まさに前衛小説=メタフィクションの名に相応しい作品である。参考にメタフィクションの定義を書いておこう。
@たとえば、ひとつの小説内部にもうひとつの小説を物語るもうひとりの小説家が登場すること。Aたとえば、小説内部で文学史上の先行作品からの引用が織り成され、批判的再創造が行われること。Bたとえば、小説内の人物が実在の人物と時空を超えて対話したり、作者自身や読者自身と対決したりすること。Cたとえば、小説を書いている作者自身がもうひとりの登場人物として介入し、大冒険をくりひろげたり殺害の憂き目にあったりすること。Dそしてきわめつけは、たとえば、小説内部で当の小説自体はおろかメタフィクションをも一環とする現代文学理論・批判理論そのものを根底から洒落のめしてしまうこと。

 ── 巽孝之『メタフィクションの謀略』(ちくまライブラリー)より
  番号付与HODGE

@Aは自明で、BCも語り手「V」をV・ナボコフと仮定すれば、なんとか当てはまるだろう(そしてこれはこの作品発表以降の出来事だが、ナボコフの実弟が、同性愛者であったためにナチスに虐殺された事実を「僕たちは」知っている)。そしてDが「ミステリー」に関してのパロディであり「洒落」であり、ミステリファンには興味深いところだ。

さらにDに関してナボコフの書いたテクストでないテクスト=「小説外テクスト」から。訳者である富士川義之氏の巻末解説。富士川義之氏はもちろん小説『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』について書いているのだが、これが……まさに最高のミステリ理論/評論になっている……と思う……と読める。
そのような彼の意図の根底にあるのは、いわゆる事実とは関係のない「真実」に寄せる確固たる信念である。しかし彼は、その隠れた「真実」を第三者から得たあいまいで断片的な事実を積み重ねることを通じてしか探ることができない。彼が文学的探偵よろしく(この小説は探偵小説的な構造をなしている)、倦むことなく事実を収集し探索することに異様な熱意を示すのも、頼りない事実を通じてとつぜん「絶対的真実」が啓示的に明らかになる瞬間が訪れることを信じているからである。

 ── 富士川義之、解説「同一性を求めて」

ある文芸作品=『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』について書かれた解説であるのもかかわらず、まるで瀬戸川猛資、笠井潔、法月綸太郎らの示唆に富んだ優れたミステリ小説理論を読んでいるような気がしてくるナボコフの作品。
ミステリとの親和性は、多いにありそうだ。




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青白い炎
Pale Fire (1962)

ウラジーミル・ナボコフ / Vladimir Nabokov
富士川義之訳、筑摩世界文学体系81



しかしすぐさま思いあたった、これこそが
真の核心であり、対位法的なテーマなのだということが。
まさにこれなのだ。テクストではなく構成(テクスチャー)なのだ。夢ではなく
あべこべの偶然の一致なのだ、
浅薄なノンセンスではなく、意味の織物(Web of sense)なのだということが。
そうなのだ! この世でのわたしは
ある種の連鎖(リンク)や米食い鳥的紐帯(ボーボーリンク)を、ある種の
相関的パターンを、ゲーム、すなわち
網状に張りめぐらされた職人芸的な芸術や、ゲームをする人たちが
見出すのとほぼ同じ喜びのなかに見出せるだけで十分だったのだ。
── p.232

まず、その奇抜な構成に面食らった。<前書き><青白い炎──四篇の詩章><注釈><索引>──ナボコフの小説『青白い炎』は、この四つの部分からなる。
つまり<前書き>でチャールズ・キンボート氏が書いているように、不慮の事故で死亡したジョン・フランシス・シェイド氏の遺作<青白い炎>を、友人であるキンボート氏が<注釈>し、<索引>を施すというものだ。無論、キンボート氏は「信頼できない語り手」であり、<青白い炎>の<注釈>から、幾重にも錯綜した「物語」が浮かびあがり、それぞれがパラレルに進行し、やがてサスペンスフルな「小説・青白い炎」に収斂していく。

正直に書いておくと、999行(意味深だなあ)からなる<青白い炎──四篇の詩章>の部分は、退屈……というか、T・S・エリオットの『荒地』みたいな何だか良くわからない断章のようで、多少難渋した(……というか、僕がこの”『荒地』のような”という文句を思い付いたのは、以下の文章から導かれたはずだ。ナボコフは本当に油断がならない)。
ある日のこと、わたしたちが「鏡言語」について話合っていたとき、"spider"(蜘蛛)を逆さ読みすれば"redips"(ふたたび浸すこと)に、"T.S.Eliot"は"toiletst"(トイレット)になると述べたのはこのわたし(呆気にとられたような詩人の表情を思いだす)であったことは絶対に確かなのだから。
── p.301
まあこの<青白い炎>は精密機械の「部品」のようなものなので、読み進んでいった。
……すると<注釈>部分で「機械」が動き出す。どうやらキンボードはイカレたストーカーらしい、どうやらキンボードは同性愛者らしい……なんていうのは序の口で、架空の王国「ゼンブラ」の物語が挿入され、そのゼンブラから亡命した国王を暗殺しようとしているジェイコブ・グレイダスなる人物がアメリカに降り立ち、さらに精神病院から脱走した人物がいる、と、<青白い炎>の<注釈>から様々な「物語」が創造され、増殖していき、フーガのように絡まっていく。

もちろんここで、(メタ)ミステリー的な面白さを書くのは容易い。事実、「結局、誰が殺されたのか」「結局、誰が殺したのか」、「結局、誰が誰なのか」というのは、この『青白い炎』の面白さの一つになっている。
「タナグラ」(Tanagra)の最後の音節と「塵」(dust)の最初の三文字は殺人者の名前(グレイダス)を形づくっており、……(略)
── p.319

(余談であるが、この作品にはこういった文字遊び(アナグラム)が頻発するため、アナグラムに関し、いろいろと鍛えられ、目敏くなった。たまたまこの本を読んでいたときに、テニスの全豪オープンがやっていて、僕はアンディ・ロディック選手(Andy Roddick)に萌えていたのだが、ふと”Roddick”に目を遣ると、これって Rod+Dick じゃないか! と僕の青白い炎は揺らめくことしきり。思わず笑った)


ただ、あまりにも伏線──あるいは脱線、あるいは遊戯──が凄すぎて、この『青白い炎』を「要約すること」など不可能であるし(だって詩篇<青白い炎>が小説『青白い炎』の一つの要約であるわけだし)、「批評すること」は無意味に思え(<注釈>という必然的に脱線する運命にある批評が俎上に挙がっているわけだし)、「何が面白い」のかを「語ること」すら気恥ずかしい感じがする(だって僕はこの本を読んで、Rod/Dickが好きだと改めて書く嵌めになったし)。

そうだな、言い得て妙だと思うのは、この本の解説で博学なメアリー・マッカーシーが書いている「二人の敵対する狂人が、直角に交差した二つのチェスの盤上で──つまり三次元のチェス盤で──、同時に複数の試合を行っている」ということかな。まあ、これも一つの読みに過ぎないが。

あと、もう一つ余談。若島正氏が指摘したことで、ロス・マクドナルドは『青白い炎』を読んでいて、その形跡が『さむけ』に窺える、というのが気になる。『さむけ』にはたしかヴェルレーヌの詩も引用されていたし……。




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シークレット・ヒストリー
The Secret History (1992)

ドナ・タート / Donna Tartt
吉浦澄子訳、扶桑社ミステリー



美は恐怖である。美をなんと呼ぼうが、それを前にすればわれわれは震えおののく。
── p.76

ドストエフスキー的なストーリーを、ブレッド・イーストン・エリス的な風俗と登場人物で描く、アメリカン・クライム&パニッシュメント。エリスの作品に頻出し、登場人物を「律する」までに至る「ブランド(品)」は、ここではギリシア語と古典文学。バッコスの蛮行──宗教的エクスタシー──が、6人の学生を捉え、悲劇──ギリシア悲劇のように凄まじく暴力的でありながら美しく、気高く、エレガントな──を導く。

カリフォルニアから東部の大学に転入してきたリチャードは、学内でも特異な地位と影響力を示すジュリアン教授率いるギリシア語のゼミナール/グループのメンバーになることを「許される」。メンバーはリチャードを入れてたった6人。ヘンリー、フランシス、バニー、チャールズ、カミラ。彼らは全員エリート中のエリートで、リチャード以外、裕福な家庭の子女ばかりであった。

特異な講義。ジュリアン教授の授業では、現代の道徳と隔絶した古典時代の道徳、思想、精神が熱心に議論される。
エウリピデスは酒神バッコスの巫女メナードをこう表現している。頭をのけぞらし、喉を星に向けて『人間というより鹿であった』と。これこそ完璧な自由ではないか!
── p.75

しかし学生たちは「理論」だけに収まらず、バッコスの秘儀を現代に甦らせ、それを「実行」してしまった──完璧に実行してしまった。彼らはデュオニソス神を「目撃」してしまった。理性を失し、鹿になり、狂気を呼び寄せてしまう──彼らは人(農夫)を殺してしまったのだ。

この「秘儀」に加わらなかったのは二人、語り手のリチャードとバニー。ギリシア語のゼミに入ったものの、いまいち「グループ」に溶け込めなかったリチャードは、この秘密を共有することにより、ようやく彼らと親密になる──仲間の一員となる。一方バニーは、リチャードと取って代わられるように、グループから脱落していき、グループにとって「好のましからざる人物」になっていく。
「グループ」はバニーの排除、つまりバニー殺害/仲間殺しをせざるを得なくなる……。

ここまでが前半で、後半は「非理性的な殺人=農夫殺し」から「理性的な殺人=バニー(仲間)殺し」を犯してしまった学生たちの、グループとしての集合離散=自滅を丹念に濃密に描いていく。これが実に圧巻だ。

この作品を読み終わった途端、僕はすでにドナ・タートの信望者になっていた。『シークレット・ヒストリー』という小説に完全に心酔している。この作品は10年にあるかないかの傑作だと思う。そしてドナ・タートは『シークレット・ヒストリー』の発表後、10年の沈黙を破り第2作『The Little Friend』を刊行した。




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