BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


暗黒街のハリー
The Long Firm (1999)

ジェイク・アーノット / Jake Arnott
佐藤耕士訳、早川書房




結論から書いておこう。今のところ2001年度のマイベストは、このジェイク・アーノットの『暗黒街のハリー』かパトリシア・ハイスミス『世界の終わりの物語』になりそうだ。

そう書いた後でまず気になることを。訳者のあとがきには「主人公はゲイで拷問好きのギャングボス」と「ハリーに利用される初老のホモ議員」とある。この人は同性愛者を「ゲイ」と「ホモ」の二つの語彙で表現している。
この使い分けはいったい何なんだろう? 
多分ヒーローである主人公には一般的な「ゲイ」を用い、主人公に利用される情けない人物には侮蔑語の「ホモ」を使用していると思う。そしてこの小説全体では同性愛者を侮蔑的な「ホモ」と訳している。この訳者の「フィルター」によって、読書の集中力がいくぶん削がされてしまった感は拭えない(もちろん会話等で登場人物が侮蔑的な言葉を吐く場合とは意味合いが違う)。
「そうだな。昔だれかがロニークレイを、”でぶのオカマ”と呼んだことがある。ロニーはルガーでそいつの頭のてっぺんを吹き飛ばした。そいつがおれの考えるゲイ解放運動さ。もっとも正直な話、ほんとうにロニーの燗にさわったのは”オカマ”っていう言葉よりも”でぶの”って冠のほうじゃないかと思っているがな。体型の話はロニーには禁句だったのさ」
 ─ p.325
まあ、こんなことをくどくど書いてケツの穴が小さいと言われるのもなんだから、もうやめとくが(それにオレは太っちょロニーほど短気ではない)。

それでこの作品は、60年代から70年代にかけてのイギリス裏社会を舞台に、ゲイで拷問好きのギャング、ハリー・スタークスの活躍を「描いた」出色のクライム・ノヴェルである。
特徴的なのはその文体=スタイル。主人公ハリーを直接描くのではなく、5人の人物(レント・ボーイ、貴族院議員、ケチなギャング、落ちぶれた女優、犯罪社会学者)の視点を通して、それぞれの「ハリー」を描いてゆく趣向。つまり連作短編の形式を取り、複数の「ハリーの物語」と「ハリーの肖像」を描いてゆく。

それぞれのストーリーは、文体にしろ、内容にしろ、登場人物の個性そのまま、見事なまでに描き分けられ、それぞれのストーリーに相応しいクライマックスと鮮烈なサスペンスが各々用意されている。しかも全体を通してそれぞれのストーリーが緩やかな関係性を保ち、最後の物語で作品全体を締めくくる大きなクライマックスももちろん準備されている。

しかし、そこには「ハリー」という人物を複眼的に「脚色」する手段を手に入れるかわりに、それゆえ、「ハリー」という人物像の微妙なズレや曖昧さが必然的に生じてしまう。というより確信的に「ハリー」を「抽象化」しているようにも思える。

この小説には徹底的に視点にこだわり、その不自由さまでも「発見」したヘンリー・ジェイムズの影響もあるのではないか。ジェイムズが『ある婦人の肖像』を文字通り「描いた」ように、ジェイク・アーノットは『あるギャングの肖像』を印象派の流儀で描いた……そんな風に思える(ジェイムズ以外にも読みながらロレンス・ダレルの『アレキサンドル四重奏』を思い浮かべた。映画で言えばヴィスコンティの『ルードヴィッヒ二世』)。

それは作者は最初から「ハリー」に重きを置いているのではなく、60年代という「時代」に重点を置いているのではないのだろうか。架空のアンチ・ヒーロー(犯罪者で性倒錯者)を配置することによって、それと対になる実在の人物を「描いた」。そして最後のストーリーが論文形式になっていることが示唆しているように、イギリスの60年代社会を、社会学的に、フェミニズム批評的に、構造主義的に、ポスト・構造主義的に「再構築」しているのでは。
イギリスではこの作品を評して「ノスタルジア」という表現が目に付く。BBCでドラマ化されるというのもハードな暴力シーンよりも、この作品の持つある種のノスタルジーが買われたのかもしれない。

と、ずいぶんと「逸脱」してしまったが、最初に書いたように、オレはこの作品を優れたクライム・ノヴェルとして買っている。ハリーに魅力を感じ、スケールの大きい物語にはまったく熱中した。個人的な感興としては高村薫の『わが手に拳銃を』に近いものを感じた。
これに比べると昨年話題になったニコラス・ブリンコウの『マンチェスター・フラッシュバック』がヌルく感じる。結局最後に女とよろしくやる『マンチェスター』のジェイクを配して、ソツなく無難にまとめているという気がする。なんか甘い。やっぱりキンタマが据わっているのは、ジェイクよりもハリーだろうな。


ジェイク・アーノット インタビュー(The Observer)
http://books.guardian.co.uk/Print/0,3858,4173564,00.html

Amazon.co.uk レビュー
http://www.amazon.co.uk/exec/obidos/tg/stores/detail/-/books/0340748788/reviews//o/qid=996679332/sr=2-2/ref=sr_sp_bow_1_2/202-1218851-3373453

The Advocate レビュー
http://www.advocate.com/html/books/795_longfrim.asp




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殺人症候群
The Walter Syndrome (1970)

リチャード・ニーリィ / Richard Neely
中村能三、森愼一訳、角川文庫




きみは一人の自由な人間としてではなく、狩りたてられ、窮地に追いやられた野獣として、街を歩かねばならない。そして、そのような野獣同様、きみを待っているのは、結局破滅のみである。
--p.144

ランバート・ポスト
彼、チャールズ・ウォルターが僕の前に現れたときから、僕の人生は変わった。彼は僕と違って快活で、仕事も有能。女受けも良い。彼と付き合い同居するようになって初めて僕は孤独でなくなった。僕はチャールズ・ウォルターからいつまでも離れたくなかった。

チャールズ・ウォルター
おれとランバート・ポストは正反対の性格だ。だが、一つだけ、あいつとおれに共通の認識があった。それに女に対する軽蔑と憎悪だ。
おっと、勘違いされては困る。おれとランバートはホモセクシュアルな関係ではない。たしかにおれたちが事件を起こす数年前、シカゴで同性愛の関係にあったリチャード・ロープとネイサン・レオポルド・ジュニアによる「理由なき殺人事件」があったが、おれとランバートにはれっきとした「理由」がある。それは復讐だ。だからおれは「死刑執行人」と名乗り、ランバートに恥をかかせた女どもを殺したのだ。世間にはよぼよぼの年寄りどもがつくった法律が適用しない人間だっていることなど、これっぽっちも頭に浮かびはしないだろう。自分だけの法律をつくり、それを実施する、優れた頭脳と個人的な力本説的思想をもった人間だっているのだ。ヒトラーやムッソリーニやフランコがいい例だ。

モーリー・ライアン
事件が起こったのは、今から30年以上も前、1938年のことだ。当時私は『ニューヨーク・ジャーナル』の事件記者をしていた。新聞界のキリスト──そんな風に呼ばれたこともあった。
そう、たしかにあの事件は「聖戦」だったかもしれない。われわれの信ずる神(論理/倫理)との戦い。「死刑執行人」は女たちを「救う」ために殺人を犯した。そして彼はそのことを伝えるために私の新聞社にコンタクトを取ってきた。「死刑執行人」は自分たちこそが救世主だと思っていたのだろう。彼はニーチェを読んでいた──あのレオポルトとロープの事件を思い出す。時代はすでに神なき時代に突入していた。ヨーロッパではファシズムが台頭していた。



ニーリィのこの小説は先験的に批評されることを拒否しきった天っ晴れなシロモノだからだ。面白いよと紹介することならできる。だがそこまでだ。何がどう面白いのか、はっきり明示することもできなれば、わかりやすく分析することもできないのだ。ネタを全部ばらさなければ、ね。

ミステリマガジン1993年12月号No.452 野崎六助「サイコドラマ・サイコパシー」より
やっと野崎六助著『異常心理小説大全』の『殺人症候群』を扱った章を読むことができました(ネタバレ警告があったので)。ちなみにこの文章の初掲載、ミステリマガジンでは、上記のようなことが書かれてありました。まったくその通り。言えるのは、「面白いよ」だけです。




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