BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


夢みる宝石
The Dreaming Jewels (1950)

シオドア・スタージョン / Theodore Sturgeon
永井淳訳、ハヤカワ文庫SF




 おれはほんの少しだけ人間だ。ホーティは全然人間じゃない。だが、ハバナは死ぬ直前にキドーの歌を聞きたがった。ホーティは彼の心を読んだ。彼は知った。時間がなかった。危険が迫っていた。ホーティは自分を犠牲にして、キドーの声で歌った。ハバナのために歌ってやった。時すでに遅く、Mが戻ってきた。彼をつかまえた。ホーティはハバナが安らかに死ねるように、歌をうたった。自分の身の危険を承知のうえでそうした。ホーティは愛、Mは憎しみだ。ホーティはおれ以上に人間だ。おれは恥ずかしい。あんたがそういうホーティを育てあげた。だから今度はおれがあんたを助ける。
 ─ p.230
最初は、クイアーな「読み」でいけると思った。「けがわらしい性癖」のため学校を放校され、義父の虐待から逃れるベく家出した少年ホーティ。彼は偶然知り合ったフリークたちのいるカーニヴァル(移動見世物)に入り、「少女」になりすます。
なんとなくトルーマン・カポーティを思わす、詩的で、幻想的で、多少センチメンタルな雰囲気。

しかしスタージョンの想像力は、こちらの「読み」を遥かに超えて「飛翔」しまくる。
宇宙から飛来した水晶が夢をみるとき、植物や動物や昆虫や、そして人間が生まれる……その多くは畸形である。水晶は生きている。
ここに、その水晶を利用して、人類に復讐しようとするマッド・サイエンティストでカーニヴァルの団長でもあるピエール・モネートルのグロテスクな世界観と、もう一人の醜悪な人間(法を護る判事という設定がブラックか)の悪行が露呈され、ある意味「子供向け」のイメージから遠く隔たった反ヒューマニズム的な嗜好と、艶かしくエロティックなシーンが「イメージ」される。
さらに「人間以上」に優しく美しい心を持った水晶人=フリークたちとのセンチメンタルな邂逅だけでなく、「人間」か「水晶人」であるかのアイデンティティの問題(後のディックの『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』思わせる)までも孕み、物語は異様な、不気味と言ってもよい感覚に打ちのめされる。

『一角獣・多角獣』を評した人物が「静かに発狂するのがよろしい」と放った「キャッチ・コピー」がこの作品でもものの見事に通用する。まるでロベルト・シューマンの音楽、例えば『クライスレリアーナ』や『謝肉祭』に通じる狂気と幻想の世界。

この小説は独特のリズムを持っている。そこから生まれる(故意なのかそれとも偶然なのか)リズムのズレも持っている。それは生理的な不快感を生じさせる。
スタージョンのこの「不穏な世界」は、拒絶されるか、熱狂的に受け入れられるか、二つに一つだろう。僕は熱狂的に受け入れる。




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ソロモン王の絨毯
King Solomon's Carpet (1991)

バーバラ・ヴァイン / Barbara Vine
羽田詩津子訳、角川文庫




「ルース・レンデル」から「バーバラ・ヴァイン」へと<主>が変わったとき、その物語の進行は、いくぶん穏やかに、そしてより自由に展開していく。ただしその分、いっそう巧妙に、より細心の注意を払って物語は「統御」されている。
例えば、レンデル名義の『ロウフィールド館の惨劇』や『わが目の悪魔』等が、その「作者」の手の内を堂々と明かしてからドラマを(半ば強引に)進めていくのに対し、ヴァイン名義の作品は、極端に言えば「何が起こっているのか」、その狙いが最後まで分からない(見えない、気づかせない)ものさえある。

この『ソロモン王の絨毯』は、<多数多様>な登場人物の視点をめまぐるしく変化させながら、物語を複雑に編み、登場人物たちを操り、偶然に偶然を重ね、しかし最後には、作者=ヴァインの一撃/詭計を鮮やかに、文字通り<炸裂>させる。実に周到に計略されたサスペンス小説である。
登場人物は一見自由に動きまわるように見えて、実は巧妙にその行動が管理されている。偶然に見えた出来事は、結局は必然でしかなかった。さらに最後まで読み終わった後、もう一度第一章、二章を読み返すとその衝撃はいっそう強烈なものになる。いかに作者がこれ見よがしに<鍵>を投げ出していたのか、それなのに、それに気づきさえもせず、いかにその術中に容易く嵌ってしまっていたのか、と愕然とさせられる。さすがはゴールド・ダガー賞を射とめた傑作である。

ストーリーは、地下鉄マニアのジャーヴィス(かなりエキセントリック)が、自殺した祖父が残してくれた学校(現在は廃校)に格安で人を住ませることを思いつき、そこに多様な人間が集まり、愛憎入り乱れたドラマを展開するというもの。「学校」というモラトリアムを象徴する空間に住まう人物たちは、やはりどこか大人になれない人間ばかり。彼らはその「コミューン」で互いに干渉と衝突を繰り返しながら、運命の姦計に陥ちてゆく。

しかしこの作品での主役はなんといっても「地下鉄」であろう(あるいは地下鉄という「機構」)。ロンドンの地下(Underground)に張り巡らされたクモの巣のようなネットワーク──人々を行きたい場所へと運んでくれる地下鉄=「ソロモン王の絨毯」こそが圧倒的な存在感を誇示している。
ヴァインは、ジャーヴィスが書いた地下鉄に関する本の断片を巧妙に散りばめながら、魑魅魍魎が蠢くロンドンのアンダーグラウンド/迷宮を冴えた筆致で描き切る……無論ヴァインのことだ、人々を行きたい場所へどこへでも連れていってくれるはずの地下鉄は、一方で、人々を思いもよらぬ「場所」=爆発的なカタストロフへと導き、連れ去ってしまう。その皮肉、その逆説! エピグラフで引用されたチェスタトーン『木曜日の男』の文章が見事に作品と響き合う。

いくつか気づいたことを書いておくと、謎の人物アクセルに好意を寄せるアリスがアクセルのために弾く『薔薇の騎士』の音楽。これってバーン・ジョーンズの絵画とともにかなり意味深でこの作品全体の謎/鍵にもなっている……のみならず「どんな夜も自分にとってこれほど長くない」というオペラのセリフは、この後発表される『長い夜の果てに』(No Night Is Too Long)にも繋がっているのでは、と読みながらその周到さに感じ入ってしまった。

とすれば、明示的に示されるピーターとジェイのゲイ・カップル、暗示的なダフネとセシリアのレズビアニズム(二人の「名前」からすると明示的か)に、他の登場人物に比して作者の優しさが感じられると思うのは僕だけではないだろう。
とくにパーティーで(多分HIVに感染しているであろう)ピーターに風邪が感染らないようにと気をもめるジェイの姿は感動的でもあったし、またさり気なく英国の同性愛に対する差別的な法律(同性愛は21歳以上で認められる)を揶揄している場面もある。


ただ翻訳に関してどうしても納得出来ないところがある。ページ332で「ホモ」という単語が使われているが、ヴァインの原文でも "Fag" とかそれに類した侮蔑的な言葉が使用されているのだろうか。ここは会話ではなく地の文なので余計気になる。たしかにアリスはちょっと自己中心的なところがあるが、この文の直前で「ゲイが問題ないと考えているなら、どうしてゲイだといわれて中傷になるの?」とトムを嗜めているし、彼女はわりと言葉に敏感で(レンデルもそうであろう)、「愛している」「ほしい」「好き」といった言葉を区別している。どうしてここで「ホモ」という言葉が出てくるのだろう。

そう思うとこれまで気にならなかった、例えばヴァイオリニストのアンネ=ゾフィ・ムターが「ムッター」になっていたり、作曲家のブリテンが「ブリトン」になっていたり通常の「表記」とは異なるところが急に不満(不安)に思えてくる。ブリテンで思い出したが、アリスが受験することになるオールドバラの「プリテン-ピアーズ音楽学校」というのもヴァインの同性愛に対する彼女の姿勢が感じられるところではないだろうか(ブリテン、ピアーズは英国史上稀に見る幸福な人生を送ったゲイ・カップルである)。
レンデル/ヴァインがそういった侮蔑的な言葉をあえて選んだなら、それも「理由」があると思うのだが(絶対あるだろう、なにしろ言葉を大切にするレンデルなのだから)、もしこれが、訳者のフィルター(偏見)で言葉のニュアンスが変えられていたら、これほど腹の立つことはない。レンデル/ヴァインは僕の好きな作家だから、そういったマネはされたくない。




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読後焼却のこと
Burn This (1980)

ヘレン・マクロイ / Helen McCloy
山本俊子訳、ハヤカワ・ミステリ




「そのとおりかもしれない」とベイジルは言った。「金が目的でない悪意を法律で罰することはできないし、書評が及ぼす損害についてはっきりした証拠を出すこともむずかしい。つまり書評家は殺しのライセンスを持っているようなものだ。ジョージ・メレディスが作家と書評家についてどう書いてるか知ってますか。”哀れな、愚かな羊の群と畜殺者”だってね」
「羊よりは畜殺者になりたいですね」と言って○○は笑った。

p.160
<ネット書評家>は必読かもしれない。

女流作家ハリエットは家を買い、間借人を住ませることにした。間借人はすべて彼女と同じ職業、つまり作家にした。
ある日ハリエットの部屋にタイプ打ちの「手紙の一部」が飛びこんでくる。その手紙は仰々しく”焼き捨てること”で始まり、その内容は「ネメシス」という人物の殺人計画が書いてあった。ネメシスとは悪名高き覆面書評家のペンネームであり、その筆致は容赦なく、多くの作家の恨みを買っていた。

その手紙によると、ネメシスはどうやらハリエットの家に住んでいるらしい。しかも彼女の間借人である作家たちはネメシスにこっぴどくヤラれていた。
ハリエットの家には、殺人者と共犯者、そして被害者(ネメシス)になるであろう人物たちが同居していることになる。誰がネメシスなのか。またその手紙を書いた人物は誰なのか。
そして事件は起こる。ハリエットは彼女の弁護士が喉を切り裂かれ死んでいるのを発見する。それだけでなく、その死体の側には彼女の息子、外国にいる筈のトミーが立ちつくしていた……。


ヘレン・マクロイ75歳のときの作品。トリックはそれほどでないものの、意表を突いた設定といい、いわくありげな手紙といいミステリ・ファンのハートを鷲づかみにする手腕はまったく衰えていない。文章も流麗でユーモア溢れる筆致はマクロイそのもの。先に『ひとりで歩く女』を読んでいたので、”焼き捨てること”で始まる手紙には注意を払っていたが、こうくるのか! と「読後」ニヤリとさせられた。

この作品ではシリーズ・キャラクターである精神科医ベイジル・ウィリングが探偵役で登場するが、なんと彼の妻ジゼラ(『暗い鏡の中に』で知り合い、結婚した)がもうすでに死んでいるという設定になっている。代わりに妻と同じ名前の娘が登場。ベイジルも年をとったんだなあ(というより『暗い鏡の中に』と『読後焼却のこと』の間の作品が紹介されてない!)。
しかも(ブラック)ユーモア? なのかどうか知らないが、『暗い鏡の中に』発表当時は<トレンディ>だった精神科医の探偵も、1980年のこの作品では、精神科医を糾弾するデモ行進に出くわすなど、ベイジルにとっては苦々しい場面も多々ある。

(またトミーが精神を病んでしまったのは、ベトナム戦争によるものあり、これまで個人の問題/病理として扱われてきたものが、この作品では社会的な問題として扱われていることを付記しておきたい。文章から判断するにマクロイはベトナム戦争にかなり批判的なようだ)

まあ辛辣な筆致は、マクロイの同業者=この作品の登場人物である<奇矯な>作家連中や編集者(出版社)にも向けられているが、とくに書評家ネメシスに対しては実に闊達だ。ネメシスの書評は本当に意地が悪い。
ちなみにマクロイも、「ネメシス」が書評を発表していた雑誌と「似た名前の雑誌」に書評を書いていたそうだ。とすると……。




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ホッグ連続殺人
THE HOG MURDERS (1979)

ウィリアム・L・デアンドリア / William DeAnderea
真崎義博訳、ハヤカワ・ミステリ文庫




いわゆるミッシング・リンクものと言えるだろうか。ニューヨーク州スパータで残忍な「事件」が多発し、多くの人が死ぬ──ティーンネイジャーの女の子、8歳の少年、老人、大学院生・・・・・・。どうして彼らが狙われたのか、被害者たちを結ぶ繋がりはいったい何か──そういったことは皆目見当がつかない。それどころか、彼らを死に至らしめる手口もバラバラだった。共通しているのは、事件を嘲笑うかのように、HOGと署名の入った犯行声明文が新聞記者のもとに届くことであった。

世界的な名探偵ベイネデイッティ教授は、助手のロン・ジェントリィ、精神分析医ジャネット・ヒギンズらとともにこの奇妙な事件を検証し、HOGの正体を暴いていく・・・・・・。
「これは私が考えていたより奥深い悪の徴候かもしれない。そうだとしたら、大歓迎だ! そいつの顔をとくと見てやる! 私は探偵でなく、哲学者なのだ。学ぶことは常に山積しているんだ」

p.117

個人的に興味深かったのは──ラストの一行でHOGの意味が示されることも含め──これが見事なまでに「本格」に着地したことだ。ノリはほとんどサイコ・スリラーであるにもかかわらず、様々な謎を論理的に紐解いていく。とくに容疑者の一人が「なぜ童話の本に傷をつけたのか」「なぜガス・ヒーターをつけなかったのか」という「理由」には思わず膝を打った。無論、書き方は「フェア」であった(そのため犯人の見当が凡そついてしまったが)。

そういえば、この作品については、「本格」であることがかなり強調され喧伝されていたように思う。例えば1987年に出た『ミステリーの友』(JICC出版局)には、「甦った本格」であるとか「堂々と本格」など「本格」であることに拘った紹介が目に付くし、同書で瀬戸川猛資氏は、デアンドリアをコリン・デクスターやルース・レンデルらとともに現代本格ミステリーを代表し、クイーンやクリスティに負けないほど「えらい」と述べ(「現代本格派の注目株はこれだ!」)、山口雅也氏はこの作品を「けれん味」で読ませ、しかもその完成度を高く評価している(「けれん味で読ませる謎解き小説」)。

原著は1979年、翻訳は1981年。国内の「新本格」ブームはまだ先であるし、デクスター、P・D・ジェイムズらイギリスの端整な「本格」は紹介されていたにせよ、『ホッグ連続殺人』のような奇抜でトリッキーな、しかもアメリカ産の「現代本格」は、この時期珍しかったのかもしれない──つまり本格ファンは、こういった作品に飢えていたのかもしれない。

面白いのは、この作品が、後に隆盛を極めるサイコ・スリラーのパロディに見えることだ。ベイネデイッティ教授はレクター博士のような犯罪者ではないにしろ、天才と何とかは紙一重のような異能者(はっきり言えば変人)であるし、作者は「精神分析医の分析」を意地悪く「分析」し、コンプレックスの塊である女精神科医を他愛もない「ラヴ・コメ」のヒロインに仕立て上げている。
もしかするとこの作品は、アメリカ本格ミステリーの見事な退場ぶりを示しているのかもしれない。




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