BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


鳥 デュ・モーリア傑作集
The Apple Tree

ダフネ・デュ・モーリア / Daphne du Maurier
務台夏子訳、創元推理文庫




ヒッチコックの映画『鳥』、『レベッカ』の原作者として名高いダフネ・デュ・モーリア。と、十中八九、この端倪すべからざる女性作家のことを、多くの人は紹介するだろう。この「名高い映画の原作」っていうフレーズ、結構クセものかもしれない。
パトリシア・ハイスミスの例を出すまでもなく、名声のわりに、その本が読めない、読まれていない時期があった。

原作本は映画の封切りとともに大々的に書店に並び、映画の終了とともに跡形もなく消え失せる(絶版になる)。残るのは、映画における「あやふやな記憶」だけ。
こんなことは許せない! と僕は息巻く。映画ファンの怒りを承知で書くと、これまでの経験から
原作>>>>映画
になる。たとえ原作者が(例えばクライヴ・バーカーやスティーブン・キングが)メガホンを取ったとしても、出来は原作のほうが遥かに良いと思う。だから、あのエドマンド・クリスピンの『消えた玩具店』で「読めない本」としてリストアップされたヘンリー・ジェイムズの『金色(黄金)の盃』も、映画『金色の嘘』(ジェイムズ・アイボリー監督)を見る前にトライしたいと思う。挫折するかもしれないが……。

さて、この短編集は『恋人』『鳥』『写真家』『モンテ・ヴェリタ』『林檎の木』『番』『裂けた時間』『動機』が収録されている。非常にバラエティに富んだ作品集で、この作家の実力の程が覗える。
また解説も素晴らしく丁寧で、この作家について過不足なく知ることができる。なによりデュ・モーリアに対する敬愛の念が強く感じられる。個々の作品紹介もあるので、僕がいちいち書くより解説を読んでもらったほうが良いだろう。とりあえず、僕のベスト3についてだけ。

ベスト3は『モンテ・ヴェリタ』『写真家』『鳥』。『モンテ・ヴェリタ』は短編というより中篇に近いかもしれない。時間的空間的にも規模が大きく、非常に読み応えがある。幻想的な雰囲気が美しく、得難い感興を与えてくれる。文句なしのベストだ。

『写真家』はそのセクシャルなイメージに惹かれた。いわゆる「有閑マダム」が夫の留守中不倫を働くのだが、相手は片足が不自由な男だった。この男の磨かれた長いブーツで覆われた不具の足に、マダムは異様に魅了される。もちろんその足は「男根」のメタファーに他ならないだろう。しかも巨大な「男根」だ。そういえば丸尾末広のマンガにも同じような設定が「露骨」に描かれていたが(「☆腐ッタ夜☆ちんかじょん」)、デュ・モーリアは、美しい文体で女の欲情を露にする。

そして小説『鳥』。もちろんヒッチの映画も素晴らしいが、その恐怖感覚は映画とはまったく違うものだ。喚起するイメージは比類がない。暖炉にめいいっぱい詰まった鳥たちの死骸、黒焦げの死骸。助けにきた軍艦だと思ったものが実はカモメの群れだった……など、不気味で絶望的な雰囲気に終始する。

今後デュ・モーリアの作品が創元推理文庫からいくつか復刻されるという。とても楽しみだ。




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Qストリート10番地
Number Ten Q Street

ヘレン・マクロイ / Helen McCloy
嵯峨静江訳、早川書房ミステリマガジンNo.334 1984年2月号




かなり前のミステリマガジンを何冊か古本屋で手に入れた。その中にマクロイのこの短篇があったわけだが、これが(例えが悪いかもしれないが)まさにゴミの山から宝石を見つけたような気分にさせてくれた(だってこのミステリマガジン、今じゃぜんぜん通用しないビジネス書と、僕にはまったくそそらない女性セクシーアイドル水着写真集と一緒にあったから)。

この短篇は、彼女の異色中の異色ではないだろうか。なにしろ近未来SFサスペンスになっている。マクロイと言うと華麗で技巧的な本格『暗い鏡の中へ』や『ひとりで歩く女』、ハードな心理スリラー『殺すものと殺されるもの』を読んで大いに魅了されたが、こういった作品も書いているのかと、改めてこの女性作家の幅広い作風に恐れ入った次第。復刻や新たな翻訳紹介が望まれる最右翼の作家だ。

この作品でマクロイは、思想統制の進んだ近未来を描いているが、これは過剰な広告により、皆と同じ欲望持つよう要請され、画一化された消費行動を取るように「洗脳」されている「当時の」アメリカ社会を諷刺しているのだろう。
「他の誰もが同じことをしているかぎり、人々は心底から喜んで指示されたとおりのものを何でも消費するものだ。きみとわたしのような人間は、異端者、突然変異なんだよ、われわれのような者が数少ないことは幸いだがね」
ストーリーはある主婦が、禁止されている「異常な(と思われている)欲望」を押さえきれず、その禁忌=犯罪を犯すものである。その禁忌とは
「わたしたちのひいおじいさんやひいおばあさんの時代には、誰もが本物の食べ物を食べていて、それなのに誰もそれが犯罪だとは考えなかったんて、どうしてもピンとこないわ」
「当時の死亡率は現在よりも高かったんだ」
「でもとにかく生きているあいだは、今よりももっと楽しみがあったはずだわ」
 男はにやりとした。「きみはまったく根っからの危険分子なんだね?」
「わたしはただ、ひいおじいさんたちには正常であったものが、なぜわたしたちにとっては異常にならなくてはいけないのか、その理由がわからないのよ」
「数十万年前、原始人たちは無差別な性交を正常だと考えた。しかし現代のわれわれにとってそれは──」
マクロイの設定した世界では、本物の食物を食べることが犯罪になっている。この世界では、広告に従って合成品を消費することが国民の義務なのだ。「広告」に疑問を呈することは、国家的な反逆なのだ。
奇抜というか、ブラックユーモアというか、なかなかSFプロパーにはない発想(展開)だと思う。しかもさすがはマクロイ、サスペンスとミステリー風の落ちは一流である。面白さは言うまでもない。




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幽霊
GENGANGERE

イプセン / Henrik Ibsen
原 千代海訳、岩波文庫




幽霊。さっきも、レギーネとオスヴァルがあちらで何か言っているのを耳にして、まるで幽霊に出会ったような思いが、わたし、したんですの。それにどうも、そういう気がしましてね、われわれはみんな幽霊じゃないかって、先生、わたしたち一人一人が。わたしたちには取りついているんですよ、父親や母親から遺伝したものが。でも、それだけじゃありませんわ、あらゆる種類の滅び去った古い思想、さまざまな滅び去った古い信仰、そういったものも、わたしたちには取りついていましてね。そういうものが、わたしたちの中には現に生きているわけではなく、ただそこにしがみついているだけなのに、それがわたしたちには追っ払えないんですもの。

p.80
1881年に発表されたイプセンの戯曲。解説によると、有名な『人形の家』の後に書かれ、そのテーマをより深めるものとなったそうだが、その斬新なテーマにはまったく驚いた。まったく古さを感じさせない。ここで扱われているテーマ、すなわち「三幕の家庭劇」は、まさしくロス・マクドナルドを彷彿させる「家庭の悲劇」である(と言うより、文学通のロス・マクならば、多分イプセンの作品ぐらい読んでいたであろう)。

簡単にストーリーを書くと、 未亡人アルヴィング夫人の元にパリから一人息子オスヴァルが帰ってくる。彼はパリで散々遊び、堕落してしまっていた。オスヴァルは召使のレギーネに好意を寄せる。しかしそれは許されないことだった。なぜなら、レギーネは、オスヴァルの父親アルヴィング氏が小間使いの女に産ませた子供、すなわちオスヴァルと血の繋がった腹違いの妹であったからだ。
アルヴィング夫人は、世間体のため、そのことを隠し通していた。夫は世間の評判と違い、まったくの無能で放縦な男だった。
「親の罪は子が償いをさせられる」。夫に「生き写し」の息子が、また召使の女に手を出そうとしている。それはまるで「幽霊」を見ているようであった……。

アルヴィング夫人はかなり進歩的な思想を持つ人物として描かれる。しかし愛のない結婚と因習が彼女を押しつぶす。もちろん彼女だけが正義を有しているわけではない。彼女の「正義」は多分に独善的なものだ。彼女は一度は夫を捨て家を飛び出した経験もある。そして夫の死後、狂気スレスレの、息子に対する溺愛が始まる。ここで提示される夫婦関係、そして親子関係はまさにロス・マク風の異様さ、無気味さ、暗さを放つ。
それにもう一つ、ほかにも理由がありましてね。わたしの産んだオスヴァルには、父の遺産と名のつくものは、いっさい、継いでほしくなかったんです。

p.65
そんな彼女に「因習の幽霊」が立ち現われる。それはまるで「復讐の女神」のようにアルヴィング夫人に襲いかかる。あまりに残酷な運命、あまりに容赦のない恐ろしい選択。ラストの「太陽。──太陽」というリフレーンがやけに耳に残る。うーん、ロス・マク風。




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汚れた手
Les Mains Sales

ジャン=ポール・サルトル / Jean-Paul Sartre
白井浩司訳、新潮世界文学47




1948年に初演されたサルトルの政治劇。初演された時期の「空気」を多分に反映したものであると想像がつくし、それを斟酌すべきものであることも理解している。なにしろ「政治劇」なのだから。
といっても21世紀の現在、当時の「状況」があまりピンとこないのも正直なところだ。ただ、そういった政治的状況の理解を差し引いても、わりと面白く読めた。悲劇とも喜劇とも言い難い、あえて言えば激烈な「皮肉」めいたオチが鮮やかに決まるドラマ、とでも言おうか。まあ、本当は「実存」とか「不条理」なんて言葉を弄したいのだけれども。

ブルジョア階級に属する青年ユゴーは生きがいを見出すために革命政党「労働党」に入党、そこでエドレルという政治家の暗殺を志願する。エドレルは現実路線を取る政治家で潔癖なコミュニストには「裏切り者」と見なされていた。党の支配者で教条主義的なルイに唆され、ユゴーはエドレルの秘書となり、暗殺の機会を覗う。しかしユゴーは次第にエドレルの人間性に感銘を受け、彼の思想を受け入れるようになる。
エドレル: ほらごらん、きみは人間を愛していない。ユゴー、きみは原則しか愛していない。
ユゴー:  人間を? 人間をなぜ愛するのです? 人間がぼくを愛してくれるのですか?
エドレル: では、なぜきみは、われわれのなかまになったんだ。人間を愛さなければ人間のために闘うことはできないではないか?
ユゴー:  ぼくが党に入ったのは、党の主張が正しいからです。それが正しくなくなったら脱党するでしょう。また、人間といったって、ぼくに興味があるのは、あるがままの人間じゃなくて、なりうる人間なんです。
エドレル: わしはあるがままの人間を愛する。あらゆる汚らしさ、悪徳、それらといっしょに人間を愛する。人間の声、物を握る暖かい手、あらゆる皮膚のなかで最も裸の人間の皮膚、心配そうなまなざし、めいめいが死に対し、苦悩に対し、かわるがわる試みる絶望的な闘い、それらすべてを愛する。

p.610
ユゴーは「政治的な暗殺」を諦めようとする。しかし、アクシデントともいうべき出来事によって結局、彼はエドレルを殺してしまう。ユゴーは逮捕され刑に服す。数年後ユゴーは出獄する。しかし彼を待っていたのは、あまりにも残酷な仕打ちだった……。

このサルトルの戯曲を読もうと思ったのは、笠井潔がこの作品についてわりとよく言及していたからだ。代表作『テロルの現象学』でも『汚れた手』について興味深い考察がされている。
エドレルのように、そしてサルトルのようにそれを作為する時、そこには観念化された「現実的な愛」が生じるだけだ。「民衆=革命家」という等式の欺瞞性にしても同様である。民衆が政治の現場から退場することによって現実的な革命はいったん消滅するのだから、その後も革命的であり続けようと努める人間、つまり革命家は、たんに革命という観点に固執しているだけなのだ。そうでないとしたら、ひたすら不在の神を待ちのぞむ者としてシモーヌ・ヴェイユ的な<キリスト者>に照応する<革命家>という範疇を設けるべきだろう。

笠井潔『テロルの現象学』(ちくま学芸文庫)より




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家蝿とカナリア
Cue for Murder (1942)

ヘレン・マクロイ / Helen McCloy
深町眞理子訳、創元推理文庫




まず、プロローグで示されるのは、殺人劇の舞台となるロイヤルティー劇場付近にある刃物研磨店で起きた不可解な事件。この店に侵入した泥棒は、何も盗らずに鳥籠から「カナリア」を解放していった……いったい何のために?

やがて事件は起きる。劇場で『フェードーラ』を上演中に──すなわち大勢の観衆の見守る中──死体役の俳優が、実際に、殺された。当然、彼に近づくことのできたのは、同舞台に出演していた3人の俳優のみ。
しかしここでも不可解な出来事が見出される。それは「家蝿」の行動。凶器の外科用メスに蝿は、血のついた刃の部分ではなく、柄の部分に止まっていた……なにゆえ柄の部分なのか?
偶然にも公演に招かれていた精神科医ベイジル・ウィリングは、精緻に企てられた計画殺人を推理する……。


” これぞ序破急急! プロローグの妙、展開の妙、そして仕掛けの妙。欲望渦巻くニューヨーク演劇界を舞台に、アメリカン・ミステリの巨匠マクロイが放つ大胆不敵な殺人劇!”
……なんていう「パーソナル・POP」でも打ち立てたくなるくらい素晴らしかった。まさに極上の本格ミステリ。

なによりマクロイの演出が見事で、まるで舞台劇を観ているようなケレン味溢れる生き生きしたドラマが展開(破)される──というより、ほとんどの登場人物が俳優であるという設定上、劇場の内部と外部はメビウスの輪のごとく、連続している感じがする。キャラクターの描き分けもさすがで、ときに発せられる辛辣な筆致には、まったくニヤニヤさせられた。
とくに殺人事件が起きたにもかかわらず、金主の気まぐれとサディスティックな性格から、同じメンバーでもう一度──リハーサルも含め──問題の『フェードーラ』が上演されるときのサスペンスの高まりには(急)、ページを捲るのもまだるっこしいくらいのめり込んでしまった。しかもその間もずっと通低している「家蝿」と「カナリア」の謎(序)。そして最後の犯人との対決(急)、見事な幕切れ(Fin)。


それとこの作品は1942年に発表されたもので、随所に「戦時下」のアメリカの状況が活写されている。その中で気になったのが以下の部分。
「いまや毎日のようにこの沖合で、大勢の男たちが死んでいく──ヨーロッパで、アジアで、アフリカで死んでいく兵隊のことは言うに及ばずさ。なんでいまさらジョン・インジェローのごときが殺されたからって、だれが殺ったかをおれたちが気にしなくちゃならないんだ?」
「つまりそれは習慣の力さ」ベイジルが指摘した。「まあ一種の道楽だな。われわれの士気を保つための」

p.336
ここにも例の「大量死」と「本格ミステリ」の関係が伺えないだろうか。




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銃、ときどき音楽
GUN, WITH OCCASIONAL MUSIC (1994)

ジョナサン・レセム / Jonathan Lethem
浅倉久志 訳、早川書房




最初に会ったときにおれがいったとおり、きみは新しい親友を金で買ったわけじゃないんだ。おれはきみのために働くが、きみはおれのボスじゃない。おれのほうがきみよりもこの手順にくわしいからだ。もしおれの話が不愉快なら、そうだな、友愛会の地方支部へはいれ。もう入会金を払ったんだしな。おれはとっくにさとった──みんなが他人から隠してる秘密だけではなく、みんなが自分自身からも隠している秘密をあばきたてるのが、おれの仕事なんだ。

p.59
強烈に魅了された。独特の世界観が横溢している。ユーモアのある『ブレードランナー』/『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』といったところだろうか。それとも『城』や『審判』の状況だろうか。どちらにしてもそのユーモラスな手続きは、悲観的な未来設定をいっそう際立たせる。

卑しい近未来都市サンフランシスコ。相変わらず事件屋稼業/ハードボイルドをやっているタフガイの物語──ミクロな権力関係のネットワークからクールに逸脱していることが、彼の誇りであり高貴さである。
何よりそのSF的な設定が興味深い。ざっと紹介すると
  • 高度な管理体制が確立され、市民は「カルマ」と呼ばれるカードのポイントによってその人間の価値が決定される。
  • そのポイントの増減は検問官と呼ばれる警察機構によって左右される。
  • そしてそのポイントがゼロになると「カルマ破産者」として「冷凍処理」される。
  • 「進化療法」によって動物が人間並みの知能を持ち、人間と同じように暮らしている。
  • 同じく「進化療法」によって大人並みの知能を持つ赤ん坊=ベイビーヘッドが大人のように生活している。
  • 市民は様々なドラッグによって、感覚や情動をコントロールしている/されている。
  • 主人公で探偵のコンラッド・メトカーフは、かつてガールフレンドと「性(セックス)のスワップ」を行い、二人して女性性⇔男性性を楽しんだのだが、復元手術をする前にガールフレンドが雲隠れしてしまい、現在彼は「非男性」、つまり欲望は男性的であるものの性感は女性のまま、という状態。
さらに、他人に「質問」することは不作法である、という探偵泣かせの「常識」がまかり通っている社会において、メトカーフの仕事は二重三重に困難を極める。

しかしその設定を除けば、展開はハードボイルド小説そのものであって、定説どおり依頼人からの仕事を請け負い、そこから主人公メトカーフは複雑な事件に巻き込まれていく。しかもラストでは、本格並みの推理が展開され、意外な真実が明かになる──正直、「謎解き」が用意されていたこと自体に意表を付かれた。
また、フィリップ・マーロウばりのへらず口を叩くメトカーフもさることながら、カンガルーのチンピラや老探偵──しかし彼はチンパンジー──との交流、さらには赤ん坊専用のバーへの潜入など、シュールでブラックなエピソードが抜群に楽しかった。この作者は独特の感性の持ち主に違いない。


関連リンク
Lethem in Landscape
Bold Type:Jonathan Lethem




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