スパイダー
Spider (1990)
パトリック・マグラア / Patrick McGrath
富永和子訳、ハヤカワepi文庫
私、スパイダーことデニス・クレッグが語る戦慄の「失われた時を求めて」。カナダでの療養生活を終え、ロンドンへ帰ってきた私=デニス=スパイダーに、かつての忌まわしい記憶が甦る。
20年前、彼の父親は売春婦ヒルダと共謀し、愛する優しい母親を殺した。そしてこともあろうか、ヒルダはスパイダーの母親の服や化粧をまとい、母親に取って代わるかのごとく、家に住み着くことになる。無論、当時12歳だった少年スパイダーにとって、そんなことは到底受け入れることはできない。父親とヒルダへの憎しみが次第に募り、殺意が芽生え、やがてスパイダーは・・・・・・。
この二十年間カナダに住んでいたことは、すでに話したが、そのときのことには何ひとつ触れるつもりはない。ただ、これだけは言っておこう。私はカナダで、ここに書いている出来事を考えることに多くの時間を費やし、明白な理由から昔の私には考えもつかなかったいくつかの結論に達した。それについてはこれからおいおい明らかにしていくつもりだ
p.30
語り手の「私」は、過去の出来事を再構築していくのだが、そのナレーションにはまったく油断がならない。記憶と想像力は共犯関係にあり、事実を語っているのか、あるいは騙っているのか、判断はつきかねる。ゆらめく視点から、謎めいた言語が紡ぎ出され、ネバついた罠を仕掛けていく。
もちろんそれこそがこの作品の読みどころで、「信頼できない語り手」が語る「失われた時」から「見出された時」が浮かびあがってくるそのメカニズムがたまらない。
物語の構成や設定、さらには進行それ自体がミステリーと言えるだろうか。
読みながら、次第に、この語り手の狂気、スパイダーのスキゾフレイニーが明かになっていく。こういった人格崩壊を執拗に追い詰めていくところはマーガレット・ミラーを思わせる。とくにその異様かつ精緻な描写に関しては、ミラーの『鉄の門』の「狐」の章に匹敵する見事なもので、後半で一挙に噴出するシュルレアリスティックなイメージもミラー同様、まったく圧倒される。
マグラア、『鉄の門』読んでないか?(そもそもカナダやキッチナーという地名が気になる。さらにミラーには"Spider Webs"という作品もあるし)
追記
プルーストとの関係が気になったので、ジル・ドゥルーズのプルーストに関する文章をあたっていたら、気になる個所があった。
「狂気の現存と機能──クモ──」。
ここでドゥルーズは『失われた時を求めて』をクモに擬え分析をしている。
『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。
(中略)
語り手の奇妙な可遡性。スパイ、警官、嫉妬する者、解釈する者、そして要求する者──狂人──普遍的な分裂病患者である語り手のこの身体=クモが、そこから自分自身の錯乱の繰り人形、器官のないおのれの身体の強度の力、おのれの狂気のプロフィルを作るために、偏執病患者であるシャルリュスに一本の糸をのばそうとし、色情狂であるアルベルチーヌにもう一本の糸をのばそうとする。
ジル・ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』(宇波彰訳、法政大学出版局)