BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


眠れる美女
Sleeping Beauty (1973)

ロス・マクドナルド / Ross Macdonald
菊地光訳、ハヤカワ・ミステリ文庫




リュウ・アーチャーが出会ったのは、どす黒い、原油まみれの水鳥を抱いた美しい女、ローレル・ラッソ──原油流出事故を起こした石油王レノックス一族の一人娘であった。夫に電話をしたい、と言う彼女をアーチャーは自分のアパートに招き入れるが、情緒的に不安定な彼女は、彼の部屋から致死量に達する睡眠薬を持ちだし、姿を消してしまう。

夫トマスの依頼を受け、ローレルを探すアーチャーだが、しかし、彼女の両親のもとには、ローレル誘拐を示す身代金を要求する電話が入っていた。事態は複雑な様相を見せ始める。というのも、ローレルはかつてハロルド・シェリイという若者と一緒に偽装誘拐を働き、自分の両親から金を騙し取っていたことがあったのだ。今回も狂言なのだろうか。
そんな中、原油で汚れた海岸で、一人の老人の遺体が発見される。アーチャーは、偶然にも、死んだ老人と一緒にいたハロルドを目撃していた……。
ドイツのある哲学者──ニーチェだったと思うけど──歴史はくり返す、といったわ。すりきれたレコードが同じ部分をくり返すように、すべてが同じ話なのよ。

p.402

複雑精緻なプロット、巧緻に張り巡らされた伏線、最後の最後で明かされる意外な犯人。ロス・マクドナルドのこの作品は、本格以外の何物でもない。そしていつものことながら、アーチャーと(真)犯人が対峙する場面は、何度読んでもゾクゾクする。並みのホラーより一層恐ろしい。

また、前作『地中の男』と同様、この作品でも未曾有の大規模災害=カタストロフが不穏な通奏低音を奏で、物語をより壮大に、「家庭の悲劇」を「アメリカの悲劇」に、あるいは神話的レベルの悲劇にまで高めている。原油流出が象徴しているのは、暗く渦巻く闇の世界、つまり絶望的なアメリカ社会の表出なのだろう。
キャデラックのうしろのバンパーに、<イエスを愛するならホーンを鳴らせ>というスティッカーが貼ってあった。子供たちの暗い目が、きびしい質問を私に投げかけた。これが約束の地なのか?

p.387
ここで探偵リュウ・アーチャーは、いよいよヒーロー性皆無の、隠された過去の秘密を暴くだけの無色透明な存在になっていく。『ギャルトン事件』、『ウィチャリー家の女』、『縞模様の霊柩車』に代表される、「ある家庭」のエディプス的悲劇に絞った作品と違って、この悪夢のような暗いドラマの中でひしめき蠢いているのは、「それぞれに不幸な家庭」から生まれたエディプス・コンプレップスの複合体(コンプレックス)だ。
常軌を逸した乱雑さを孕んでいるこの作品の中では、「人生の不協和音を融和する」(ジンメル)には、私立探偵という「ヒーロー」では、あまりにも荷が重過ぎる。というより、そんな男の存在は、あまりにも非現実的だ。




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スパイダー
Spider (1990)

パトリック・マグラア / Patrick McGrath
富永和子訳、ハヤカワepi文庫




私、スパイダーことデニス・クレッグが語る戦慄の「失われた時を求めて」。カナダでの療養生活を終え、ロンドンへ帰ってきた私=デニス=スパイダーに、かつての忌まわしい記憶が甦る。
20年前、彼の父親は売春婦ヒルダと共謀し、愛する優しい母親を殺した。そしてこともあろうか、ヒルダはスパイダーの母親の服や化粧をまとい、母親に取って代わるかのごとく、家に住み着くことになる。無論、当時12歳だった少年スパイダーにとって、そんなことは到底受け入れることはできない。父親とヒルダへの憎しみが次第に募り、殺意が芽生え、やがてスパイダーは・・・・・・。
この二十年間カナダに住んでいたことは、すでに話したが、そのときのことには何ひとつ触れるつもりはない。ただ、これだけは言っておこう。私はカナダで、ここに書いている出来事を考えることに多くの時間を費やし、明白な理由から昔の私には考えもつかなかったいくつかの結論に達した。それについてはこれからおいおい明らかにしていくつもりだ

p.30
語り手の「私」は、過去の出来事を再構築していくのだが、そのナレーションにはまったく油断がならない。記憶と想像力は共犯関係にあり、事実を語っているのか、あるいは騙っているのか、判断はつきかねる。ゆらめく視点から、謎めいた言語が紡ぎ出され、ネバついた罠を仕掛けていく。
もちろんそれこそがこの作品の読みどころで、「信頼できない語り手」が語る「失われた時」から「見出された時」が浮かびあがってくるそのメカニズムがたまらない。

物語の構成や設定、さらには進行それ自体がミステリーと言えるだろうか。 読みながら、次第に、この語り手の狂気、スパイダーのスキゾフレイニーが明かになっていく。こういった人格崩壊を執拗に追い詰めていくところはマーガレット・ミラーを思わせる。とくにその異様かつ精緻な描写に関しては、ミラーの『鉄の門』の「狐」の章に匹敵する見事なもので、後半で一挙に噴出するシュルレアリスティックなイメージもミラー同様、まったく圧倒される。
マグラア、『鉄の門』読んでないか?(そもそもカナダやキッチナーという地名が気になる。さらにミラーには"Spider Webs"という作品もあるし)


追記
プルーストとの関係が気になったので、ジル・ドゥルーズのプルーストに関する文章をあたっていたら、気になる個所があった。 「狂気の現存と機能──クモ──」。
ここでドゥルーズは『失われた時を求めて』をクモに擬え分析をしている。
『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。
(中略)
語り手の奇妙な可遡性。スパイ、警官、嫉妬する者、解釈する者、そして要求する者──狂人──普遍的な分裂病患者である語り手のこの身体=クモが、そこから自分自身の錯乱の繰り人形、器官のないおのれの身体の強度の力、おのれの狂気のプロフィルを作るために、偏執病患者であるシャルリュスに一本の糸をのばそうとし、色情狂であるアルベルチーヌにもう一本の糸をのばそうとする。

ジル・ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』(宇波彰訳、法政大学出版局)




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死ぬほどいい女
A Hell of a Woman (1954)

ジム・トンプスン / Jim Thompson
三川基好訳、扶桑社




やつの愛想のよさは、安物雑貨店(ダイムストア)のダイヤモンドみたいに、いかにもにせものだった。

p.182
ダイムストアのドストエフスキー……ジム・トンプスンを形容する言葉は、この作品にこそ相応しい。強欲な老女を殺し、その娘とXXXする主人公フランク・ディロンの「罪と罰」。10万ドル強奪を巡るスピーディな展開と安い人間たち──負け犬男と性悪女、これしか登場しない──のグロテスクなドラマは、暗黒小説の定説通り、破滅への道をひたすら駆け落ちる……実存的暴力を介し、唾棄すべきこの世を哄笑しながら。
もっとも、それ以上それ以下を予想していなかった……圧倒的なラストに突入するまでは。

ラスト、爆発的なエクリチュールが活動=戯れを開始する。それは婚姻=処女膜を嘲笑い、既成の概念に亀裂入れる毒=薬。呪われた異性愛者たちの責任=応答可能性を失効。女性性(フェミニテ)を抑圧することによって、男根(ファロス)=ロゴス中心主義を暴露した戦略=脱構築。そして父の不在=神の不在/神の視点の不在=一人称。しかし帰属する主体を既に失ったフランク・ディロンの亡霊(たち)は、不安を呼び起こす遺言書を読者に手渡し──必ず届く、後は、倒錯的な笑いだけが残る──ケツで笑っている猫……。

おそらく作者(操作者)は、このラストにおいて「解消不可能な、生殖的な多様性を標記(マーク)して」、テクストの「意味論的地平と絶縁して、それを破枠してしまう」という恐るべき言述(ディスクール)まで予見していなかったのかもしれない。しかしこの「散種」的エクリチュールは、確実に、正当で合法的な権威を去勢し、ストーリー上における唯一性を消し去り、「おれたちみんな/All of us」に反復可能性をマークする危険な賭け/テロスだ。

ダイムストアのデリダ……ラストの収束不可能にまでズレていく圧倒的破壊的なテクストを読んで思いついた。
(林好雄・廣瀬浩司の『デリダ』(講談社)を参考にしました)、




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