BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


インド夜想曲
Notturno indiano (1984)

アントニオ・タブッキ / Antonio Tabucchi
須賀敦子 訳、白水社




「シャヴィエルという人間を探している。ひょっとしたら、この辺に立ち寄ったかも知れないと思って」
トミーは首を横にふった。「だが、そいつは見つかりたいと思っているのか」
「わからない」
「それじゃ、探すのはよせ」
僕はシャヴィエルをこまかく描写してみせた。「ほほえむと、悲しそうにみえる」
 ─ p.120
ああ、こうなるのか! と思ったときには、既に Game Over。いきなりディスプレイは切って落とされる。そんな、瞬間の神秘に彩られた作品だ。

失踪した友人シャヴィエルを探しながらインドを旅する「僕」。この本はガイドブックの形式を取りながら、謎めくインドと謎めく人々を紹介していく。

もちろん一番の謎は「僕」という存在。

どことなくポール・オースターやナボコフを感じさせるが、なんといっても、インドを舞台にした数々の幻想的なシーンに魅了される。特に猿を背中に背負った少年……ではなくて、実は畸形で預言者の兄を背負った少年とのエピソードには、グロテスクさとインド哲学的な思弁性を併せ持った(背中合わせの)極上のシーンとして、容易には忘れられない。

蠱惑的なファンタジーと企みに満ちたゲームの見事な合致。作者タブッキは「これは、不眠の本であるだけでなく、旅の本である。不眠はこの本を書いた人間に属し、旅行は旅をした人間に属している」と最初に断わっているのも心憎い演出だ。

それに冒頭に引用されたモーリス・ブンラショの言葉も意味深な基調音を常に響かせる。
夜熟睡しない人間は多かれ少なかれ罪を犯している。
彼らは何をするのか。夜を現存させているのだ。


アントニオ・タブッキはイタリアの作家で、作中でも言及されるポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの研究者でもある。『インド夜想曲』はアラン・コルノーにより映画化された。




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石の幻影
IL GRANDE RITRATTO

ディーノ・ブッツァーティ / Dino Buzzati
大久保憲子 訳、河出書房新社




新宿の紀伊国屋でのことだった。ハンサムで知的な感じの(発音からイギリス人と思われる)男性が、彼女らしき背が高くエキゾチックな化粧をした日本人女性に、「この作家はとても良いよ」と熱心に勧めていた。結局、その女性はその本を買わず、それならば、と僕が買った。ディーノ・ブッツァーティ『待っていたのは』(脇功訳、河出書房新社)。

読んでみて、これは面白かった。さすがあの素敵なイギリス人の一押しだけのことはある。続いて長編『タタール人の砂漠』を読み、衝撃。このイタリアの作家ブッツァーティの完全なファンになった。『タタール人の砂漠』は今でも僕の外国文学ベスト10に入っている。
あのカップルがいなかったら、ブッツァーティに出会わなかったかもしれない……と思うと彼らには感謝の気持ちでいっぱいだ。もしあの二人が結婚でもしたら花でも贈りたい。

この『石の幻影』は短編集で、『石の幻影』『海獣コロンブレ』『一九八〇年の訓』『誤報が招いた死』『謙虚な司祭』『拝啓 新聞社主幹殿』が収録されている。どれも素晴らしくエイキサイティングな作品で、幻想と恐怖、スリルとサスペンス、不条理と寓意に満たされている。

特に表題作『石の幻影』。これは短編と言っても160ページもあり、ほとんど中編と言える。
ある大学教授のもとに国防省から秘密の研究依頼の招待状が届く。報酬はかなりのものだが、何の研究なのか、どんな仕事内容なのか一切分からない。一応引き受けでみるが、目的地の「ある施設」までなかなか辿り付けない。案内人の兵士たちも絶対に口を割らない。秘密、秘密ばかり。
「私たちは幸いにも部外者です。秘密はこの家の向こうから始まるのです。だから自由なのです。私たちは、まったく何も知りませんが、それでも知らないことについて話すことはできますよ」
 ─ p.36
次第に不安と恐怖が募ってくる……。

この大学教授が感じる疎外感というか、自分だけが何もわからないという恐怖と不条理はブッツァーティの他の作品にも見られ、またカフカ的なところでもある。

いつのまにか「世界」が変わってしまった。いつのまにか自分がマイノリティになってしまった……それどころか自分一人になってしまった。例えば、虫になったグレゴール・ザムザのような、あるいはウルトラセブン『あなたはだあれ』のサラリーマンのような──それでも自分以外の日常生活は普通に続いている……ようだ。

しかし彼を疎外している「世界」も実は奇妙なシステムで動かされている。「ある施設」を守っている兵士たちも謎めいたメカニズムに完全に支配されている。
「しかし、何はともあれ……配下に四十人の兵士がおります。ここでは、どんな気晴らしもありません。完全に孤立した生活で、一人の女性もいません。それに軍の機密です。何もかも謎です。せめて私たちが、何をするのかさえ説明してもらえたら……ありのままにお話しましょう。つまり、ここは流刑場のようなものです。けれど、けれども……ここからあえて立ち去ろうとする者は誰もいないと言ったら、どう思われるでしょうか? 死ぬほどの退屈、変わりばえしない毎日、女性の顔は絶対に見られないこの場所を……」
 ─ p.35
この「ここからあえて立ち去ろうとする者は誰もいない」というのが『タタール人の砂漠』にも通じるブッツァーティ的な不条理であり、虚無的な悪夢であろう。

しかし、この大学教授が感じる不可解な状況は、実は、この作品の前奏でしかない。この後、衝撃的な事実、SF的な発想、幻想的な雰囲気、痛ましい悲劇が固唾を飲んで待っている。そこで待っていたのは……。

この作品は、ミステリーファン、SFファン、幻想/ホラーファン、そしてもちろん純文学(メインストリーム)ファンにも堂々と勧められる傑作だと思う。
ブッツァーティの想像力は炸裂する。




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コントラバス
Der Kontrabaß

パトリック・ズュースキント / Patrick Süskind
池田信雄・山本直幸 訳、同学社




『香水』で有名なパトリック・ズュースキントのデビュー作品。一人芝居用の台本として1980年に書かれ、1981年ミュンヘンのキュヴィエ劇場で初演。成功を収めたそうだ。

ストーリーはうだつのあがらないコントラバス奏者の愚痴にも似たモノローグ。オーケストラの中でいつも「縁の下の力持ち」だけで終わってしまう男性コントラバス奏者の悲哀、それをユーモアとペーソスで包み、なんとも言えない雰囲気に満たされている。「感動」というとちょっと大袈裟になってしまうけど、それに近い味わいがする。最後の方ではなんだかジーンときた。うん、いい話だ。(一箇所侮蔑的な言葉があったが)

まずコントラバスのオーケストラ中での「虐げられた」状況から。コントラバスにはヴァイオリンやフルートのように綺麗な旋律はまず回ってこない。トランペットやティンパニ奏者のような英雄的な場面もない。何より(ソロ)コントラバスの音楽──有名な作曲者が書いた──はほとんどないのだ。
なぜって、まともな作曲家がコントラバスのために曲なんか書くもんですか。もし書いたとしても、それはたちの悪い冗談からですよ。モーツァルトに小さなメヌエットがありますよね。ケッヘル番号344のやつ。あれなんか滅茶苦茶ふざけてるじゃないですか。サン・サーンスの『動物の謝肉祭』の中の『象』にしたってそうです。コントラバス独奏が、アレグレット・ポンポーソで一分半つづくんですけど、笑い死にするんじゃないかと思いますよ。かと思うとリヒャルト・シュトラウスのオペラ『サロメ』の中で、サロメが井戸の中を覗いている場面にあらわれる五小節のコントラバス・パッセージみたいなやつ。サロメが、「この下はなんて暗いんでしょう! こんな暗い穴の中に閉じ込められるなんて、どんなに恐ろしいことでしょう。まるで墓穴のようね……」と歌うくだり。ほんとうにゾーっときます。
 ─ p.58
そして彼、コントラバス奏者の身の上話になる。彼は演奏会で共演しているソプラノ歌手に恋をしている。しかし、彼女は地味なコントラバス奏者なんか目もくれない。彼はイジケル。だからいろいろ省察してみる。彼女のこと。自分が所属している国立管弦楽団のこと。音楽のこと。作曲家のこと。ドイツのこと。ナチス時代のこと。そして自分のこと……。
ナチズムと音楽──ま、フルトヴェングラーの書いたものを読んだら分かると思いますが──ナチズムと音楽は、絶対に相いれるもんじゃないんです。絶対に。(中略)フランス人たちは、占領下のパリでカラヤンに喝采を送りましたよ。その一方で、ぼくの知るかぎりじゃ、強制収容所の囚人たちも、自分たちのオケを持っていたというじゃないですか。その少し後では、連合軍の捕虜収容所のわがドイツ人たちも。なんていったって音楽というのは、人間的なもんですからね。政治とか現代史の彼方にある、普遍的、人間的ななにか、あえていわせてもらうと、人間の魂と精神を構成する先天的な要素なんですよ。
 ─ p.67-68
彼は国立管弦楽団に所属している。身分は公務員だ。華麗なるソリストや演出家、指揮者とは違うけど、とりあえず(安月給であるが)給料はもらえる。失業は心配ない。でも、そういった「保証」ある生活にひどく不安を覚える。自由がない。夢を失っていまうのでは、と。

夢。コントラバス奏者にとって「憧れの音楽」が一曲ある。たった一曲だ。有名な作曲家が書いた名曲中の名曲。コントラバスの美しい旋律がある曲。
シューベルトの五重奏曲『鱒』。
その曲をいつか弾きたい、と夢をみながらも、彼はまた平凡で地味な「仕事」へと向かう。




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バーナム博物館
The Barnum Museum(1990)

スティーヴン・ミルハウザー / Steven Millhauser
柴田元幸 訳、福武書店




スティーヴン・ミルハウザーの短編集。この本を買った動機は何よりそのカヴァー写真、サンディ・スコグランドの「RADIOACTIVE CATS」に惹かれたからだ。彼女のシュールレアリスティックな写真にまったく魅了された。(↓のサイトで彼女の情報といくつかの作品が見られます)

[Sandy Skoglund Art Site]
http://www.sandyskoglund.com/

[Sandy Skoglund]
http://www.batguano.com/bgma/skoglund.html

で、肝心のミルハウザーの小説の方は、最初の『シンドバット第八の航海』がいまいちピンと来なくてそのまま本棚の隅へ。しかし最近、信頼出来る(主にネット上の)読み手の間でミルハウザーの評判が良いので他の短編も読んでみたら、これがなかなか面白かった。実験的というかゲーム的というか、しかしどこかノルタルジックな雰囲気を湛えた作風で、緻密な描写と相俟って不思議な感触を与えてくれる。
もちろん全部が全部気に入ったわけではなくて、やはり相性というものがあるようだ。

それと、ミルハウザーって少女趣味(つまりロリ・コン)がないかな。『不思議の国のアリス』はその伝統の嚆矢だし、『バーナム博物館』で少女たちがエアダクトでスカートがはためくときの緻密過ぎる執拗な描写=楽しげな筆致──嬉々としてやってそう(笑)、『クラシック・コミックス#1』での「緑のビキニを着た赤毛娘の尻は、さながら緑の絹の袋に入れた二個のグレープ・フルーツを思わせる。どちらの娘の胸も、細いビキニのトップに押さえつけられて、はち切れんばかりにふくらんでいる」なんていう赤裸々な文章。なんか微笑ましい。

この短編集の中で個人的に気に入ったのが『ロバート・ヘレンディーンの発明』『アリスは、落ちながら』『幻影師、アイゼンハイム』あたり。
特に『幻影師、アイゼンハイム』は読み終わるのが残念なくらいその魅惑的な小説世界に「迷い込んで」しまった──ようこそ! ミルハウザーの世界へ。舞台はハプスブルク朝崩壊直前のウィーンで、それがまた黄昏時の夢を見ているような、なんともいえない雰囲気。そこに、アイゼンハイムという幻影師の見せる奇術が、現実と非現実の「境界」を危うくさせる。

多分この「境界の侵犯」は短編集全体にちりばめられたモチーフなんだろうと思う。『ロバート・ヘレンディーンの発明』では「イマージュ(想像)」と「オブジェ(実体)」が混同し、『アリスは、落ちながら』は「時間」の流れ、「空間」の位置関係が把握不能、『バーナム博物館』では博物館の「出入口」が「日常」と「非日常」の分岐点になっている。

ただその<境界>(あちらとこちら)は「深淵が覗きこむ」といった類の大袈裟なものではなく、モーツァルトの粋な「転調」のような軽やかさがある。戯れに別の境界(調)に踏み入れ、また戻ってくるような。
ある人々にとっては、博物館に足を踏み入れるときこそがもっとも悦ばしい瞬間である──悦ばしい世界へとひと思いに飛び込み、はるか向こうの出入口が招く声を聞くときこそが。(中略)
そしてまたある人々にとっては、外に出る瞬間こそがもっとも胸ときめく一瞬である──ぱっと開くドア、まぶしい陽の光、目もくらむようなショー・ウィンドウ、それらを前に、人は階段の上でしばし呆然と立ちつくすのである。

 『バーナム博物館』




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金色の盃
The Golden Bowl(1904)

ヘンリー・ジェイムズ / Henry James
青木次生 訳、講談社文芸文庫




ヘンリー・ジェイムズの完成された最後の長編小説。ストーリー自体は図式的というか、わりと単純かもしれない(あくまでもストーリーそれ自体は)。そしてこれまでのジェイムズ作品のように、ヨーロッパVSアメリカという「状況」を孕みながら、ドロドロの人間関係を緻密な──これ以上ないくらい緻密な、緻密すぎる──心理描写で描いていく。

アシンガム夫人の仲介で、イタリアの貧乏貴族アメリーゴ公爵とアメリカの大富豪の娘マギー・ヴァーヴァーは結婚する。一方、マギーの父親アダム・ヴァーヴァーもマギーの友人シャーロットと結婚することになる。
しかしアメリーゴとシャーロットは実はかつて恋人同士であった。二人は貧しさのため、結婚をあきらめたのであった。

今やアメリーゴとシャーロット(のヨーロッパ)は(アメリカの)財産を手にいれた。この「財産」によって二人はまた「接近」することができた。立場は変わったが──義理の母シャーロットと義理の息子アメリーゴというふうに。二人はかつての恋人の「関係」を取り戻してゆく……。


ヘンリー・ジェイムズの『金色の盃』(黄金の盃)と言えば、
「<読めない本>のゲームをしようじゃないか」と彼は提案した。
「いいとも、おれからはじめるぞ──『ユリシーズ』」
「ラブレェ」
「『トリストラム・シャンデイ』」
「『黄金の大杯』(金色の盃)」
「ラセラス」
「いや、あれはぼくの愛読書だ」
「こいつはおどろいた。じゃ、『クラリサ』はどうだ」
「よし。──『タイタス』──」

エドマンド・クリスピン『消えた玩具店』(大久保康雄訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)
というふうにイギリス人も書いているし、夏目漱石も「ジェイムズは難しすぎる」と匙を投げたとか。それを(とりあえず)読めたのは訳者さんの丁寧な翻訳のおかげだと思う。多謝。

それとジェイズム・アイヴォリィの映画『金色の嘘』。この映画によって人間関係とだいたいのストーリー展開を掴んでおいたので、『金色の盃』をなんとか「攻略」できたのだと思う(実は映画を見る前にチャレンジしたのだが、そのときはあえなく玉砕してしまった)。ただこの映画で全くハマリ役だったユア・サーマン(シャーロット)とアンジェリカ・ヒューストン(アシンガム夫人)のイメージがどうしてもダブッてしまったが。

で、映画との比較。驚くべきことに小説と映画の間にストーリー上、大差はない。様々なエピソードもほとんどカットなし。約1000ページの長大な小説が大規模なカットもなしに見事に映像化されていた。
それはつまり、ストーリーそれ自体はそれこそ前述したように単純であるが、それを描写する単語の量がべらぼうなのだ。実際、一つの肉体的な動き、目配せ一つ、表情の微妙な変化一つに対して際限のない心理描写が底無しの繊細さでもって果てしなく続いてゆく。その「文体」は読み手に異様なまでの集中力を要求するが、しかしジェイムズならではの神業とも言える「芸術作品としての小説」を味わうことができる。この小説を読みながら、自分の感性と感受性のレベルを試されているような気さえした。

こういった作品なので、内容の理解度においては到底自信はない。その上でいくつか気がついたことをメモしておきたい。

「ハッピー・エンド」
この作品はジェイムズには珍しくハッピー・エンドに終わっていると思う。義理の母と息子という大胆な不倫関係はもちろん暴露される。しかし誰がどの程度それを「知って」いるのかは、わからない。シャーロットとアメリーゴにとっても彼らの「行動」がどれだけ「知られて」いるのかは、彼らにもわからない。いみじくも映画のタイトルのもなった「嘘」が──登場人物たちの「嘘」が──登場人物たちの間で行われているだけでなく、読者に対しても「嘘」が巧妙に仕掛けられている……ように思える。そしてこの「嘘」によって、彼らの「関係」が──特にマギーの努力によって──「修復」される。つまり極めて人工的、あるいは技巧的な「関係」において、彼らは「曖昧に」存在している。
極論すれば、もしかするとこの作品も『ねじの回転』同様、マギーの「妄想」が生み出した「人騒がせなドラマ」であるとも解釈できる。確実なものは何一つない。

「ブリッジ・ゲーム」
シャーロットとアメリーゴの不倫関係が「発覚」(だれがどの程度知っているのかはわからない)した後、問題の二組の夫婦にアシンガム夫妻を交え、トランプ・ゲームが行われる。このときの彼らの心理描写の見事さにはまったく舌を巻いた。ゲームの進行と同時に、彼らの内に秘めた思惑、策略、無意識の敵愾心が精妙に巧妙に描かれる。これはヴァン・ダインの『カナリヤ殺人事件』やアガサ・クリスティの『ひらいたトランプ』にも影響を与えたのではないだろうか。

「ジェンダー」
ジェイムズの「新しさ」はこの時代において際立っている。例えばこんな文章
実を言えばみんなの心理状態は、相変わらず共同歩調を取りながら相変わらず対立しあっているランス夫人とラッチ姉妹が男性の征服を目的として短期間ヨーロッパに上陸したという話を聞いただけで、胸が期待にふくらむような、そういう状態に達したのである。
 ─下巻 p.274
かつてアメリカを蹂躙したヨーロッパの男たちは、アメリカの女性たちに「征服」される。ここではヨーロッパVSアメリカは男性VS女性のメタファーでもあるように思える。

それだけでなく、アシンガム夫人は「女だてらに」煙草をふかしているし、何より悪役のシャーロットをはじめ、「主導権」を握っているのはすべて女性だ。いくつかある解釈では、マギーは夫アメリーゴを取り戻し、夫婦関係を「修復」したが、しかしそのために、シャーロットはアダム・ヴァーヴァーの「財産」をすべて手に入れることになる。つまりシャーロットは当初「共犯」だったアメリーゴを出し抜いたことになる(もちろんアメリーゴは「財産」よりも「賢明な関係」を手にいれることができたが)。

その上で僕は、この作品を、『ある婦人の肖像』や『鳩の翼』のようにヨーロッパ側が詭計を張り巡らし、アメリカ側の「財産」を奪うというふうに読んでいったのだが、解説をみると一概にヨーロッパ=悪、アメリカ=善と決めつけられないことに気がついた。つまりヴァーヴァー父娘はヨーロッパで何をしていたのか。それは美術収集であり、悪く言えば金にものを言わせ、ヨーロッパの芸術を略奪しているのである。とすれば、まるで美術収集のように、美貌の(実際、美男子であることが何度も強調される)アメリーゴ公爵(=ヨーロッパの美術品、男性)を、(シャーロットに比べ「美しくない」)マギーが、結局最後には奪い返し(略奪し)、成金アメリカ人は貴族の称号も獲得する、という解釈も成り立つ。アダム・ヴァーヴァーにしても──これはマギーの妄想(過剰な想像力)に過ぎないが──シャーロットの首に絹の端綱を巻き、彼女の自由を奪っている(ようにマギーに「見えた」)シーンがあり、そこには「征服者」アメリカ人のイメージがダブる。

それにしてもジェイムズの作品では女性キャラクターが生き生きとしている。『ある婦人の肖像』では悪役のマダム・マールがヒロインに劣らず強烈であったし、『鳩の翼』でもケイト・クロイの悪辣ぶりが素晴らしかった。『カサマシマ侯爵夫人』でも主人公のハイアシンスよりも、ショーペンハウエルを読み、革命運動を影で支援している謎の貴族夫人カサマシマの存在が何よりも印象に残っている。そしてまだ未読であるが『ボストンの人々』では女権運動とレズビアニズムがテーマになっているという。

そういえば、以前セックス・フレンドとゲイの作家のフェミニン度(女性的)とマスキュラー度(男性的)について話し合ったことがあったが、そのときジェイムズが一番フェミニンな感じがするということで一致した(マスキュラー的なのはアンドレ・ジイド)。




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