BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


死を呼ぶペルシュロン
The Deadly Percheron (1946)

ジョン・フランクリン・バーディン / John Franklin Bardin
今本渉 訳、晶文社




失われた時間はもう戻らないし、反芻することだってできない。ちょうど鏡が欠けてて、その欠けた部分には自分の顔が映らないのと同じことだ。顔? 見当たらない顔? 私の顔? 意識の淵に沈んでいた記憶が戻って来た。鏡? どうして私の部屋には鏡がない?
 ─ p.128
髪に花をつけていると小人が10ドルをくれる……だからジェイコブ・ブラントは真っ赤なハイビスカスを髪に押して診察室に入ってきた。「先生、俺、きっと頭が変なんです」

ジェイコブは、小人から奇妙な「指令」を受けている、と精神科医ジョージ・マシューズに訴えた。興味を抱いたマシューズ医師は──むろん、自分の「診療歴」の中でも一、ニを争う「難病」への「職業的興味」だ──ジェイコブの<告白>が「真実」かどうか確かめるために、「患者」に同行する。
それが、精神科医マシューズにとって悪夢の始まりだった……。
精神科医は決して自分の正気を疑ってはいけないのだが。
 ─ p.53
バーディンの第一作。小人の命令に従ってハイビスカスを髪に押した青年が精神科医を尋ねる、というプロローグは最高に魅力的だ。マーガレット・ミラー『眼の壁』の冒頭──目の見えない振りをしながら盲導犬を引き連れて精神科医を尋ねるシーン──にも匹敵する異様な不可解さで、読者をたちまち物語に引きずりこむ。
プロットもほどよく錯綜し、謎めき、イメージを喚起する繊細な心理描写と相俟って、緊迫感と不安感、そして焦燥感を煽りに煽る。実にサスペンスフルな小説だ。

そして読みながら、この作品は、映像化に向いているんじゃないか、と感じた。
そう、思い浮かべたのはデヴィッド・リンチあたりのストレンジな映画。バーディンの本も小人やフリークスの登場が賑々しい(大蛇と暮らしているラテン美女はカントやフィヒテ、スピノザを愛読している)。舞台も精神病院、びっくり屋敷、ミュージカルと多彩に移り変わる。また、殺人現場にペロシュロン種の馬が繋がれていたりとケレン味もたっぷり。何より奇矯な物語は奇矯な結末へ辿り付く。「ストレンジ」という言葉が実に似つかわしい小説だ。


それと気になったことを。本書では、精神科医が精神病院に<監禁>されるシーンがとても印象的だった。これまで患者をさんざん<狂人>扱いし、「下劣な精神分析」や「非人道的なショック療法」で「治療という名の人間破壊」=<矯正>を行ってきた<権力者=精神科医>が、今度は自分が<非理性>な<狂人>とみなされ、<治療>を施される立場に逆転する。<監禁>され、<監視>され、<試験>を受け、<矯正>という<処罰>を受ける<主体/隷属>になるのだ。
暗黙の裡に築き挙げられた理論と制度、それにこの若い医師に向かって、私はさらに自分の希望をぶつけ続けた。彼にとって私は狂人だ。カルテにそう書いてあるし──それに、もしそう思われていないのなら、どうして私は精神病棟にぶち込まれているのだ?
 ─ p.77
もし、真実にばかり固執してみろ、いつまでも精神異常者扱いだ。
 ─ p.172
彼は辛抱強く私に答えた。私からは目を逸らして、習い覚えた定義とか臨床実習を機械的に思い出しながら、時おりもっともらしい理屈を織りまぜつつ、いちいち私の言うことに反駁した。まるで神経症についての教理問答だ──ここは教会じゃないぞ!
 ─ p.78
まったく悪魔の所業と言う他ない。
(中略)
これまで「ショック療法」を施される患者は何人も見て来た……それによって劇的に治癒する例も多々あった……だが、私は二度とこの治療法を患者に施さない、そう心に決めた。
 ─ p.182
いやあ、フーコーがこの本を読んだら拍手喝采しただろう。言うまでもなく、この本がフィクションだからといって、やり過ごすことはできないはずだ──そう、ソルジャニーツィンの『収容所群島』と同じだ。むしろフィクションにも描かれるほど、「こういった精神療法」=「悪魔の所業」が実際に行われていた、そのことが「問題」なのだ。

精神分析/ショック療法が、どれほど一個人を「破壊」してきたか──精神分析を「美化」する「歴史修正主義者」は、このバーディンの小説で、その事実を知る/再確認すべきだ(この小説でもダッハウの強制収容所への言及がある)。

人間を、勝手に恣意的に「病/倒錯」と「規定」すること──「倒錯」の「烙印」を捺すこと、「倒錯」という<言葉>を使用すること。これは、人間を「劣等」と「規定/烙印」することと、いったい、どんな「差」があるんだ? 
精神分析屋が人を「倒錯」とみなすことと、ファシストが人を「劣等」とみなすこと──これらは、両者とも「人間」から「人権」を──合法的に──奪う、非・人間化のプロセスに他ならない。

いったい、精神分析=差別知を美化する人物が、どうして、ナチズムを告発した『ショアー』や非・人間化そのものである「従軍慰安婦問題」に、偉そうにコミットできるんだ?
そしてリトルフィールド医師、ピーターズ医師、看護婦のアギー・マーフィらに、私は生身の人間であって症例でも症候群でもないのだ、という事実を理解させねばならない。
 ─ p.82




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