ラケス
勇気について

プラトン 著、三嶋輝夫 訳
講談社学術文庫



というのは、私が思うに、賢明な判断が下されなければならないことについては、人数の多さによってではなく、知識によって判断されなければならないからです。

p.26
『プラトンの呪縛』がなかなか面白かったので、久しぶりにプラトンの対話篇を読んでみたくなった。
プラトンの対話篇は途中で投げ出した『法律』以外、文庫になっているのは大概読んだのだが、それは哲学的探求を満たすと言うよりも、(プレ)デベートの優れたテキストとして、そして同性愛事項(エロス)の確認と言う甚だ個人的な趣味関心に拠ってアンテナが伸びただけで、言わば──『プラトンの呪縛』でも示された──「はしたない読み」の典型だろう。
今回もそういった「はしたなさ」に臆することなく、プラトンのテクストを自己流に「読み抜き、読み破り、読み壊す」(by 笠井潔)つもり。

『ラケス』の演題は「勇気」について。息子の教育に関心を持つリュシマコスとメレシアスが、重装武闘術が教育に良いかどうかを有名な将軍ニキアスとラケスに訊ねるのが発端。いつものように、そこにソクラテスが居て、ニキアスとラケスの見解を吟味。

勇気とは……徳の一部である、ということがまず前提とされる。それでは勇気とは?
ラケスの答「忍耐強さ」。
ソクラテスの吟味「思慮ある忍耐強さは美しいが、思慮のない忍耐強さは有害だ」
ニキアスの答「恐ろしいことと平気なことの知識」
ソクラテスの吟味「だったら、獣も勇気という知識を持っているのか」

こうして議論が進んでいくのだが、勇気が徳の一部であることに矛盾が生じ、結果、勇気は徳の全体であることになってしまう。 そのため彼らは自分たちの無知を確認し、息子たちと同様、彼ら自身こそもっと真理の探求が必要だという結論に至り、このストーリーは終わる。

この作品でも相変わらず神出鬼没のソクラテスである。まあ青年たちの武闘術が行われていることから、場所は一種のジム(体育館)であることが推定され、『カルミデス』に見られるように彼は「美青年詣で」に来ていたのだろう。
ただ『ラケス』は題目が「勇気」に限られたためか、かなりストイックな議論に終始し、エロティックな話題は残念ながら、ない。


Project Gutenberg による英文テクスト
Plato "Laches"



カルミデス
克己節制(思慮の健全さ)について

プラトン 著、山野耕治 訳
プラトン全集7 岩波書店



ポテイダイアでの戦いから帰ってきたソクラテスがまっさきに向かったのが……体育場。ここでは若者たちがレスリングに汗を流しているのだ(むろん古代ギリシアのジムだから、青年たちは裸で競技を行っているのだろう)。
旧友に会い近況を話していると、男たちの集団が歓声を上げている。彼らはある美少年の「おっかけ」で、我こそは(ものにしたい)、と夢中になっている様子だった。

そのハンサム・ガイの名はカルミデス。彼が歩いてくると、何とかして自分の側に座らせたいと、男たちは興奮して大騒ぎ。
しかし勝利の女神はソクラテスに微笑んだ。カルミデスはソクラテスの隣に腰を下ろしたのだ。舞い上がったソクラテスは、
ああ、まさにそのときだよ、けだかい人よ、(カルミデスの)上衣の奥に秘められたその肌をかいま見ただけで、ぼくはかっとなって、もう我を忘れてしまった。とっさに思ったね、こと恋にかけては、あのキュディアスがいちばん知恵があると。あの人の詩に、美少年のことである他人に忠告して、

獅子のみ前にまかり出た子鹿さながらに、おのが身のひとかけなりと奪われめさるな

と歌っているくだりがあるが、実際、ほかならぬこのぼくが、そのような猛獣にとっつかまってしまったような気がしたね。

p.44
とまあ カルミデスにキュートさに完全にノックアウトされる。

しかしカルミデスが頭痛に悩まされていることから、ソクラテスは秘術の療法を紹介するのだが、これが最大限活かされるためには、唱えごと=美しい言論が必要だということになる。では身体の治療とともに必要な精神の健康とは? 
それが今回の題目の克己節制(思慮の健全さ)であり、ソクラテスはカルミデスとクリティアスとともに克己節制(思慮の健全さ)を追求していく。

克己節制(思慮の健全さ)は何?と訊かれたカルミデスは健気にも「一種のもの静か」とか「恥を知る心」だとか答えるのだが、ことごとくソクラテスに論駁されてしまう。相手がハンサムだろうが、議論になると容赦がない。

代わって、どうもカルミデスと関係がありそうなクリティアスの番になると、さらに議論は白熱化し先鋭化する。「自分のことだけをする」というカルミデスから引き継いだ(もともとはクリティアスの)定義から、議論は、それが知識の知識、すなわち「知の知」というかなり抽象的な内容に発展する。が、しかしソクラテスは結局この論法では「知の知」ということは無意味である、と結論づける。
なぜならば、必要とされている「知」は「善悪の知」であり、それこそが「幸福に貢献する知」であって、たんに「知と無知」についての「知」=「知の知」である克己節制(思慮の健全さ)ではないからだ。

こうして克己節制(思慮の健全さ)をめぐる議論は不発に終わったものの、カルミデスは(クリティアスの後押しもあって)ソクラテスに「身をささげる」ことを宣言する。


Project Gutenberg による英文テクスト
Plato "Charmides "



リュシス
友愛について

プラトン 著、生島幹三 訳
プラトン全集7 岩波書店



ギリシアでは男同士の恋愛において、恋する年長者のほうをエラステース、年下のほうをパイディカと呼んでいた。つまりアニキがエラステースというわけだ。
このストーリーでは、シャイでオクテのアニキ(エラステース)、ヒッポタレスが愛するパイディカのことについてソクラテスに相談するところから始まる。

ヒッポタレスは、美少年リュシスにぞっこん惚れこんでいるのだが、シャイな性格のため、どう少年に接してよいかわからない。パイディカ(リュシス)の名前を言うだけでも──アニキのくせして──顔を赤らめる始末。いい迷惑なのは友人のクテシッポスで、始終、ピッポタレスが少年を思って作った(下手な)歌や詩をうわごとのように聞かされている。

それを訊いた恋愛の達人ソクラテスは、しょうがない、ヒッポタレスのために人肌脱ぐ。
まず、ヒッポタレスに渇を入れる。「色恋の道の達人というものは、自分の愛する人を、手にいれる前からほめたりしないものだ。美しい少年というものは、人からあまりちやほやされると、思いあがり、高慢になってしまうのだから」と。そして下手な歌や詩は、下手な狩人が「ガサガサと音をさせて獲物を逃がし、つかまえにくくする」ようなものだとも。

このプロローグの後、ソクラテスは実際にリュシスとその友達のメネクセノスと会い、「友愛」について対話を始める。

ここで秀逸なのは、リュシスとの対話が行われているちょっと離れた場所に、ヒッポタレスを座らせておいて、パイディカの扱いはこうするんだ、とソクラテスが見本を示していること。ただし、そうはいってもシャイなアニキ、ヒッポタレスのこと。時折ソクラテスはヒッポタレスに目配せをするのだが、もうその時点でどぎまぎしてうろたえている彼の姿が目に入る。

それでも議論は次第に白熱していく。とくにもともと議論好きらしいメネクセノスは、アニキ分のクテシッポスが側にいるためか、友愛から<善きもの><悪しきもの>の話題に発展していく哲学的議論によく応えている。

この議論で面白いのは、「善きものとは、悪ゆえに愛されるのではないか」といいうことだ。それは病気が存在しなければ、(善である)薬が必要ないように、我々を「害する悪」がないとしたら、「善」は必要ではない。「われわれは善は悪の薬であり、悪は病気であると考えて、悪のゆえに善を尊重し愛していたのだ」
そこから友情に関し、
それらもろもろの友は、友のために友と呼ばれているのにたいして、真に友であるもののほうは、あきらかに、それとはまったく正反対の性質を持っている。つまり、それは、敵のために友であることが、いまやわれわれに明かになったのであり、もしその敵がいなくなれば、それはもはやわれわれにとって友ではなくなるように思われる

p.216
もちろんこの定義もソクラテスの吟味によって論駁されるのだが、なかなか面白い見解だと思う。例えば国と国との関係も、漠然とした「友好国」よりは「共通の敵」がいる「同盟国」の方が、はるかに緊密な関係が(一見)築かれる可能性があるからだ。

それにしてもエラステース(兄貴分)とパイディカ(弟分)の友愛(エロス)関係から始まり、議論が際限もなく宇宙的にまで広がっていくプラトンの手腕はまったく素晴らしい。そしてきちんと
では、みせかけでない本物のエラステースは、かならずそのパイディカから愛されることになる

p.220
という言葉をリュシスとの対話から引き出し、ヒッポタレスを安心させるソクラテスの「優しさ」も心憎いばかりだ。


Project Gutenberg による英文テクスト
Plato " Lysis "



メノン
徳について

プラトン 著、藤沢令夫 訳
岩波文庫



そして、口の悪い連中が、何かものをこわす人たちをいつもからかうときの言いぐさではないが、「一から多を製造する」のはもうやめて、徳を全体として無きずのままのこしたうえで、徳とは何であるかを言ってみてくれたまえ

p.32
クセノポンの『アナバシス』によると、メノンは、悪辣の限りを尽くした野心家として描かれている。つまりまったく悪役である。プラトンのこの作品でも、どこか冷酷で油断のならない人物として描かれている。それはこんなところからも伺えるだろう。
ソクラテス 「だって君は、議論のなかでひとに命令ばかりしているではないか。そういうふうにするのは、自分が若くて美しいあいだは専制君主のようにふるまえるために、わがままに甘やかされている人たちのやり方なのだ。おまけに、どうやらぼくは美しい人たちの前に出ると弱い男だということを、君に見ぬかれてしまったらしいね。……しかたがない、君の機嫌をとるために、答えることにしようか。」
メノン 「ええ、ぜひ機嫌をとってください」

p.29
たしかに彼は美青年であるが、カルミデスやリュシスのような可愛らしさは微塵も感じられない。どうしても慇懃無礼な態度が目に付く。
しかもだ。メノンはソクラテスの宿敵と言えるソフィスト、ゴルギアスの教えを受けており、どうやら「洗脳」されているようだ。
(さらに途中で議論に加わるアニュトス──彼はメノンをアテナイに迎えた──は、例の裁判でソクラテスを刑死に追い込む張本人で、後の悲劇を予感させる)

よってここで行われる対話は、ある意味、ソクラテスとメノンというゴルギアスに(思想的に)コントロールされた人物との果し合いとも言え、まさに「思想対決」に相応しいドラマが展開される。全体としてピリピリとした緊張感を孕んでおり、論争はかなり「本気」だ。
メノン 「もし冗談めいたことを言わせていただけるなら、あなたという人は、顔かたちその他、どこから見てもまったく、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら、あのシビレエイも、近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが、あなたがいま私に対してしたことも何かそれと同じようなことのように思われるからです。」
(中略)
ソクラテス 「油断のならぬ男だね、君は、メノン。もう少しでひっかかるところだったよ」 」
メノン 「え? いったい何のことですか、ソクラテス」
ソクラテス 「何のために君がぼくを譬えたか、気がついているよ」
メノン 「何のためだと思われるのですか?」
ソクラテス 「ぼくに君のことを譬えかえさせようという魂胆なのだろう。とかく美しい連中は誰でも、”たとえっこ”をするのをよろこぶものだということを、ぼくは知っている。彼らにしてみれば、それは得になることだからね。だって、思うに、美しい人たちは、やはり美しいものに譬えられるにきまっているではないか。しかしぼくは、君を譬えかえしてあげないよ」

p.42-44
ここで、プラトン思想のキーである「想起説」(アナムネーシス)が唱えられる。これはメノンがソクラテスの「無知」の告白に対し、ここぞとばかり論難した「怠惰な人間に好都合な弁論」(アルゴス・ロゴス)に応えたもので、ファンタジックな魂の不死の提示から始まり、「想起」の概念が図形(幾何学)を用いたまったくエレガントな方法によってプレゼンされる。
見目麗しいメノンにシビレエイと揶揄されたソクラテスは、抽象的な美、すなわち数学(知性)でもって対抗するのだ。

そして「徳」をめぐる対話は、いつものようにソクラテスの鋭い吟味によって、一応の終結を見る。ただしアニュトスの警告が不吉な影を落とす。
ソクラテス、どうもあなたは、軽々しく人々のことを悪く言うようだ。もし私の言うことをきく気があるなら、私はあなたに忠告しておきたい。気をつけたほうがいいとね。ほかでもない、たぶんほかの国でも、ひとによくしてやるよりは害を加えるほうが容易だろうけども、この国ではとくにそうなのだから。そのへんのことは、あなた自身も承知していることとは思うがね。

p.98



Project Gutenberg による英文テクスト
Plato "Meno"



パイドン
魂の不死について

プラトン 著、岩田靖夫 訳
岩波文庫



白鳥は、死ななければならないと気づくと、それ以前にも歌ってはいたのだが、そのときはとくに力いっぱい、また極めて美しく歌うのである。それというのもこの鳥はアポロン神の召使いなのだが、その神のみもとへまさに立ち去ろうとしていることを、喜ぶからなのである。

p.90
『パイドン』はソクラテスの死の直前に行われた彼の生涯最後の記録で、まさに「白鳥の歌」と呼ぶに相応しい。死を前にして、それでも、あるいはそれだからこそ熱心に語られる「魂の不死」、そして人間としての真、善、美。
最後には、愛する弟子たちを前に、この偉大な哲学者の気高い死が描かれ、そのシューベルトの音楽にも似た美しく感動的なストーリーには、まったく胸を熱くさせられる。
重厚な『国家』、華麗な『饗宴』、甘美な『パイドロス』とともに個人的に最も惹かれるプラトン作品の一つである。

この作品の語り手はパイドン。彼はエリス人で、スパルタとの戦争により捕虜となり、アテナイで男娼として売られていた。つまりハスラーであったわけで、その美貌がソクラテスの目にとまり、クリトンらの(資金的な)協力により、自由の身になり、ソクラテスの哲学サークルに入ることになった。
この対話篇は、その美貌のハスラー・パイドンが恩師ソクラテスの最後をエケクラテスに語るという形式になっており、行間からはソクラテスへの愛、知(哲学)への愛が滲み出ている。

まずはソクラテスの死に対する態度、有名な「哲学は死の練習」であることが述べられる。つまり「死」とは「魂」と「肉体」の分離であり、哲学者は魂そのものになることだという。
それなら、本当に、シミアス、正しく哲学している人は死ぬことの練習をしているのだ。そして死んでいることは、かれらにとっては、誰にもまして、少しも恐ろしくないである。

p.38
そこで、霊魂不滅の証明に入る。使用される「ツール」はあのメノンで登場した想起説。ここでの想起説は、愛する少年とその持ち物である竪琴の比喩によりとても甘美に語られる。死を前にしても、エロスの美しさが仄かに漂っている──それゆえ、いっそう美しく響く。

しかし議論はそう甘くはない。ケベスの反論により、これまでの議論がまったく覆される。魂は最後には疲弊し、消え去るのではないのかと。
絶対絶命。ここに至り、対話の登場人物の間に言論(ロゴス)への信頼が揺らぎ始める、すなわち哲学への信頼もだ。

そうなると蔓延ってくるのが、尤もらしい言説を放つペテンだ。まるで「考える力」を放棄した現代の人々に忍び寄るカルト宗教や似非科学、そして盲目的な政治活動のように。
というのは、私が後ろの説を受け入れたのは、証明があったからではなく、ある種の尤もらしさと格好の良さのためだったからです。それが、この説が多くの人々に受け入れられている理由でもあるのですが。だが、私は、尤もらしさによって証明を行っている言論はペテンである、ということをよく知っています。

p.110
しかしソクラテスは形勢を立て直す。何が間違っていたのか、どこでしくじったのかを省察し、イデア論による再考を行い、そして今度は見事に懸案の命題の証明に成功する。

議論を成功に導いた後、ソクラテスは、弟子たちにファンタジックな死後の世界の神話を聞かせる。それは、死のプレリュードである。クリトンは涙を流し、アポロドロスは大声を上げ、男たちはみんな悲しみに泣き崩れる。それを見てソクラテスは彼等を叱咤する、「人は静寂のうちに死ななければならない」と。

やがて猛毒が哲学者の体を冒していき、ついに死の静寂が訪れる。クリトンは恩師の目と口を閉じた。
Such was the end, Echecrates, of our friend; concerning whom I may truly say, that of all the men of his time whom I have known, he was the wisest and justest and best

Project Gutenbergによる英文テクストより



Project Gutenberg による英文テクスト
Plato "Phaedo "