世界の汚職 日本の汚職

石井陽一 著
平凡社新書



まあ、ぶっちゃけた話、プラトンの「理想国家」が実現されていない以上、汚職が起きるのは仕方ないのかもしれない。民主主義といっても、所詮、哲人政治よりレベルが低い政体だし……。

この本はそんなある意味「国家」の必然とも言える「汚職」について、日本と世界のいくつかの例を提示し、分析したものである。とても興味深い本なのだが、新書という体裁のため、それほどつっこんだ分析にはなっていない。ある種「カタログ的」な面も否めない。しかし、各国で発生した、それぞれ「個性的」な汚職には、それぞれの国情が反映しているようで、これはこれで興味深い国際理解、文化理解につながると思う。

まず、「汚職」の国別ランキングからスタート。ベルリンの本部のある「透明度インターナショナル」という団体が作成したもので、世界の国々のクリーン度/腐敗度の指数がわかる。クリーン度が高い、すなわち汚職が少ない国々は、予想通り、北欧諸国で、これに西欧、アメリカ、日本が続く。逆にクリーン度が低く汚職が多いのが、これまた予想通りのラテンアメリカ諸国、アジア、東欧諸国。

そして面白くなるが各国の「汚職事情」。例えば、ブラジルではサッカーに絡んだ汚職がいかにもブラジルらしく、選手の年齢詐称に代表される出生証明書の偽造が示される。サッカーと言えば、記憶に新しい「バイロム社」についても触れられている。さらにスポーツ関係では、IOCのサマランチ会長がフランコ政権下のスポーツ相だったことも何かしら裏がありそうな感じ。
またアメリカではロビイストが大学に寄付をし、ロビー対象の議員の引退後、あるいは落選後に、大学の教授職を保証するというのもなんとなくわかる。

他に興味を惹いたのがフランスの事情。この国では左右両党がなかなかしたたかで、両翼とも「脛に傷」がある。ミッテラン政権下で起きたエルフ・アキテーヌ事件なんか、実はアメリカのエンロンやワールドコムの事件よりも、大掛かりで深刻なんじゃないかと思わせる。しかもアメリカのように、大統領でさえも、議会や司法当局、さらにハイエナのようなマスコミから様々な訴追を受けるのに対し──モニカ・ルインスキー事件の際のクリントン大統領を思い出していただきたい──フランスでは、強大な大統領の権限や行政府の優位、さらに「上品なマスコミ」によって、どうも事件が曖昧になってしまうようだ。もしかすると、こういった左右の両党の既成政党の腐敗によって、心ある有権者は先の大統領選挙でルペン率いる極右政党を支持したのではないかと思ってしまう。極右政党は何より「腐敗」に対して自他共に厳しいからだ。

まあ、こんな感じで「汚職」から見る国家事情はたしかに面白い。斬新な視点だと思う。しかし最後のまとめと言うか提言というか「汚職を根絶するためには」を読んで、あ? 何言ってんだ、こいつ! と思った。

それは著者がベネズエラの元外相の「汚職・腐敗はデモクラシーの壊疽であり、デモクラシーのエイズ」であるという発言を「けだし名言」だとし、さらに終わりの方でも再び「民主主義のエイズ」という表現を平然と使っているからだ。

この人はスーザン・ソンタグの『隠喩としての病』を読んだことがないのだろうか。ある「特定の病気」に何かしらの「隠喩」を導入することによって、その病気に罹っている人に対し、病気による肉体的な苦しみだけでなく、精神的な苦しみを負わす。結果として、患者に汚辱のスティグマを捺すことになる。この人のしていることは、まさにそうだ。こんな人が、日本政府のODA政策を批判し、ODAの基本は「草の根に達する援助」などというもっともらしい意見を述べても空々しく響いてしまうだけだ。



アート系映画徹底攻略

曽根幸子+滝本誠+編集部[編]
フィルムアート社



冒頭の総論で滝本誠がアジテートする。
「映画ファンは美術館へ行け、ギャラリーへ!」
そうそう、と僕は大きく頷いた。 続いて滝本氏は、コッポラの『ドラキュラ』におけるフレデリック・レイトン卿の絵の影響を説く。フレデリック・レイトン! 僕の大好きな画家だ。もちろん僕はニンマリと笑みを浮かべながら、また大きく頷いた。
他にもデヴィッド・リンチにおけるエドワード・ホッパーの引用(滝本氏の言葉を用いると、どういうふうに映画が絵画を「たらしこむか」)、「美術史」的映画の系譜などをいつもの滝本節で論じていく。

この強烈でエキサイティングな総論の後なので、他の書き手の文章がいくぶん大人しく思えてしまうが、いわゆる「アート系映画」について折り目正しく──多少教科書的であるが──述べられていてとても参考になる。
グリーナウェイやケン・ラッセル、デレク・ジャーマン、タルコフスキーらアート系映画定番の監督論、映画における「物語以外」の部分についての徹底した切り込み、アート的な視点における解釈は斬新で、まさしくアートを「見る」ようにこれらの映画を「観たく」なった。とくにウェルナー・シュレーターの『薔薇の王国』、ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』は今すぐにでも見たい──探しに行こう。



両性具有の美

白洲正子 著
新潮社



保守本流の論客、白洲正子のエッセイ。彼女にかかれば昨今の「プチ・ナショ」な風潮なんて入歯が外れるほど笑い飛ばすだろう。それほど彼女の文章には「威厳」がある。
もちろんその「威厳」とは、やたらと小難しい語句を並べた字面にあるのではなく、彼女の持っている透徹した美学にこそ感じられるものだ。流麗な文章からそれがひしひしと伝わってくる。このおばさんは只者ではない。

で、このおばさんがこの本で選んだテーマが「男色」。要するに男性の同性愛についてであるが、注目すべきは、一度たりとも「ジェンダー」や「セクシュアリティ」という舶来語を用いていないことだ。言うまでもないがこのエッセイの初出は90年代半ばなので、これらのテクニカル・タームはすでに一般的になっていた。しかるに白洲は「男色」で通す。しかも最初のほうで彼女は、男色の基本である「菊の契り」は肛門のかたちから出ている、と堂々と言い放っている。

ヴァージニア・ウルフの『オルランドー』から始まり、雅な「新羅花郎」、稚児、南方熊楠、能や古典文学など男色におけるオタク的知識──と言って失礼ならば、博覧強記の──を披露する。

この本を読んで驚いたのは、日本の古典文学が想像以上にまさしく「男色」の宝庫だということ。このことは、中学や高校ではいちおう古典を勉強したのに全然教わらなかったように思える。定番の『源氏物語』や『枕草子』、『徒然草』、『平家物語』では同性愛のテーマなんて習わなかったし、井原西鶴にしたって『好色一代男』や『好色五人女』は教科書に出てくるのに、『男色大鑑』は出てこない。これって「強制的異性愛」の陰謀なんじゃないか……と「ジェンダー論」的反発をしたくなる。

まあ、それはよいとして、この本の中で特に興味を惹いたのが南方熊楠について。熊楠は目鼻立ちのはっきりしたバタ臭い顔に坊主頭、そしてフロックコートを着た「洋装」でなかなかのイケメン。その彼が「男色」についても一言あったらしく、それを「浄の男道」という言葉で表している。「浄の男道」……なんて艶采な言葉だろう。南方熊楠に俄然興味がわいてきた。



プラトン主義の多面体

J・フィッシャー他 著 
川田殖+熊田陽一郎+坂本賢三+清水純一+田中昌子 訳
平凡社



「プラトン主義=プラトニズム」に主眼を置いた論考集。これはプラトンの思想そのものではなく、後代の人々がプラトンを「教条化」したその「イズム」としての潮流を概説しているもので、とても興味深く読めた。
収録されているのは以下の文章。 ジョン・フィッシャー『哲学と詩のおけるプラトン主義』、A・ヒラリー・アームストロング『新プラトン主義』、ヘレン・P・トリンビ『デモノロジー』、ジョン・チャールズ・ネルソン『ルネサンス・プラトン主義』、エルンスト・モーリッツ・マナッセ『啓蒙期以降のプラトン主義』。

「プラトン主義(者)」を一言で言えば、本文の中でエルンスト・モーリッツ・マナッセが書いているように
「プラトン主義者であるということは、自分であれ他人であれそれがプラトンの教説であったと信じていることを、基本的に真実だと認めるということ以外の何事をも意味しない」
ということになるだろうか。そのため、様々な「宗派」が必然的に生まれ、同じプラトンを「教祖」として奉りながらも、ときに正反対の考えや主張がまかりとおることもある。また、プラトン/新プラトン主義の考えがキリスト教の教父たちに熱心に読まれ神学の形成に絶大なる影響を与えた一方、異教の信仰として激しく排除されたこともあった。近年においてもホワイトヘッドのようにプラトン以降の哲学はすべてプラトン思想の「脚注」に過ぎないと豪語する人物、プラトンの思想は共産主義的、ファシズム的だと面罵するポパーのような人物もいる(このことについては
佐々木毅『プラトンの呪縛』も詳しく扱っている)。

そんな様々な「イズム」のぶつかり合いの中から、まさに多面体としてのプラトン思想が浮びあがってくる。それらおのおのの「イズム」はどれも魅力的なプラトンの変奏、百花繚乱に展開する。やはりプラトンってグレイトだと思う。
『啓蒙期以降のプラトン主義』で引用されているディドロの言葉がとても印象的だ。
敵対者によって加えられたプラトンの性格に関する伝統的な中傷(奢り、好色、論争好き、剽窃と非難)に言及した後、次のように付け加えている。「ところで、こうした彼の欠点──たとえそれがあったとしても──や彼の敵対者の非難を忘れさせるには彼の著作の一行で足りる」




アメリカ文学史
駆動する物語の時空間

巽孝之 著 
慶応義塾大学出版会



ケルアックは、すでに有名な彼の長編『路上』(一九五七年)において、全米を放浪する語り手サル・パラダイスの視点を通し、少年院を出たばかりの実在の青年ニール・キャサディをモデルにしたディーン・モリアーティがいかに文化人類学的なトリックスターすなわち「神聖なる間抜け者」(Holy Goof)として、女たちへの何の責任も負わず行き当たりばったりの破天荒な人生を行き抜いてきたかを描き、こんなくだりを付け加えている。「彼はビードだった──至福の拠ってきたる根幹であり、その魂そのものだった」

p.168
この本は一見「教科書」っぽい体裁であるものの、内容は古色蒼然とした「教科書」っぽくない。「お勉強」しているような気がまったくしない。何より一つ一つの「切り口」が素晴らしく斬新で、映画や最新の批評理論を交えた膨大な情報に圧倒された。「アメリカ文学」はかくもエキサイティングなものだと改めて教えてくれる。

もちろん学生でもない僕がこういった本を手に取ったのは、第7章5部「魔女狩り、赤狩り、同性愛者狩り──マシーセンに始まる」が目当てだったからだ。著者は
『ニューヨークの世紀末』や『アメリカン・ソドム』でもアメリカ文化における同性愛の「領域」をクローズアップしており、この本もやはり目を通しておきたかった。ここではF・O・マシーセンについてページが割いてあり、とても興味深く読むことができた。ヘンリー・ジェイムズの有数の研究者であったマシーセンは同性愛者であり、マッカーシズム吹き荒れる最中、自殺した。

(もちろんマッカーシズム旋風から50年経った現在でも、ゲイに対する迫害=ヘイトクライムが起きており、数年前にはマシュー・シェパードという大学生が惨殺された。また日本でも舞城王太郎という作家がヘイトクライムを助長させる差別的な文章を書き──ペドフィルの犯罪を擦りつけて──それを提灯持ちの「評論家」が偉そうな文章を書いて「宣伝」している。その「評論家」はなぜ舞城の差別性に言及しないのだろう。所詮、提灯持ちには出来ないことなのか、それとも「読めてない」のだろうか)

他にも「白鯨オン・ザ・ロード」におけるメルヴィルの読み(ユダヤ、イスラエル、そこにジャック・デリダ──彼もユダヤ系だ──が接続される!)や僕の崇拝するヘンリー・ジェイムズ、そして最近村上春樹の新訳が出て話題になっているサリンジャー(そういえば彼もユダヤ系であり、アメリカ文学において無視できないユダヤ系作家の系列の一端を担っている。そういった意味でこの本のエピグラフを飾る「カフカ」の引用も気になるところだ)、「アメリカニズムの限界に対して吠えまくった」ギンズバーグ、ケルアックら、好きな作家関心のある作家についてページを捲りながらいろいろと思考させてくれる。
『路上』のテクストは、たんにビート精神を横溢させるばかりではなく、メルヴィルからスタインベッグへ至るアメリカ文学史の正典を十分に意識し換骨奪胎したインターテクスチュアリティをも実践している点で、いわゆるロード・ノヴェルやロード・ムービーの先鞭を付けたが、まったく同時に、今日の目で読み直した時、とりわけ気になるのは、主人公が自らの幻滅にうちひしがれる白人的主体から抜け出せるのなら、デンヴァーのメキシコ人にでも過労した日本人にでも何でもなってやる、と決意している部分だろう。

p.168-169




フーコーの系譜学
フランス哲学<覇権>の変遷

桑田禮彰 著 
講談社選書メチエ



題名の「フーコーの」と言うよりも副題の「<覇権>変遷」のほうがこの本の特徴を「とりあえず」明快に表しているだろう。すなわち、20世紀のフランス哲学界に登場した三巨頭──ベルクソン、サルトル、フーコーの思想を比較対比し、フランス哲学史の流れ/系譜を指し示す。

そのため、まず、これらフランスを代表する哲学者の代表的著作を読解、コンパクトに紹介する。その意味でこの本はベルクソン、サルトル、フーコーの簡便な入門書であり、彼らの問題視した「核心」を明快に示してくれる。

この部分を読むと、たしかにベルクソンのエレガントな思考、サルトルの熱い思いも伝わるが、個人的にはやはりフーコーの「問題」が一番切実に感じられる。自分のことを「フーコー世代」と呼ぶのもおこがましいが、フーコーが示唆する、自分たちが「権力関係のネットワークに生きていること」を21世紀の現在、はっきりとではないが──そこがもちろん問題の「核心」でもある──なんとなく感じているからだ。フーコーの思想は、彼の死から二十年経つ現在も尚アクチュアルな問題を提起し続けているように思える。

しかしこの本の可能性の中心は単に各々の哲学者の思想を紹介するだけではない。今僕がフーコーに特別な感慨を得たように、筆者はこれら三者間──彼らに影響を受けた「世代/読者」もその範疇だ──に横たわる「断絶」に焦点を当てる。その意味でエピロークの「三角形の問題空間=ベルクソン・サルトル・フーコー」は圧巻だ。
まず断絶に立ち止まる必要がある。そして、その背後に断絶しているかにみえる哲学のあいだに浮びあがる根本問題の相を発見しなければならない。フーコーがいうように、「連続性」とは一つの罠である。たとえば私たちは、フーコーの哲学を理解しようとして、フーコー自身の示唆にしたがい、ニーチェを読む。本人の示唆は、フーコーとニーチェの連続性を断言することによって、根本問題をめぐる両者の緊張した関係についての問いかけを停止させる危険がある。

p.260
著者は、フーコーを引き、比較研究における「連続性の罠」を強調し、それを「問いかけの停止」と見る。「断絶」こそが根本問題を発見するための出発点になると唱える。このことにより本書を「フーコーの系譜学」として完成させる。



メディア・コントロール
正義なき民主主義と国際社会

ノーム・チョムスキー 著 / Noam Chomsky
鈴木主税 訳 / 集英社新書



言論の自由はアメリカで、市民の運動のなかで獲得されてきたものです。第一次世界大戦当時、バートランド・ラッセルはどこにいたか。刑務所です。アメリカの労働運動指導者、ユージン・デブズはどこにいたか。刑務所です。彼らがいったい何をしたというのか? 何もしていません。”戦争の大義”に疑義を呈しただけです。言論の自由とはそういうことです。

p.133
実は、チョムスキーを知ったのは9・11以後のこと。ソンタグ、サイードと「並んで」アメリカに「否」を唱えたアメリカ人、ということで、高名な言語学者としての顔は知らない。もっぱら不屈の精神で、アメリカの横暴さを告発している「ジャーナリスト」というイメージだ。

この本もそんな「イメージ」にぴったりの、厳しくも極めて真っ当な意見に頷かせられる。文章も簡潔かつ力強い。いや、平易で簡潔な文章だからこそ、ダイレクトにその意見が伝わる。付け焼きの知識からくる曖昧なところも、気弱な留保も、気取った哲学用語も、一切ない。あるのは厳正な事実認識そのものだけだ。

内容的には「メディアの欺瞞」及び「知識人の欺瞞」を舌鋒鋭く暴いている。しかもその中で、チョムスキーはユダヤ人であるにもかからわず、イスラエルを厳しく非難している。彼の語る「事実」の数々には緊迫感なしには読めない。

そして彼の興味深い指摘の一つに、抗議運動における男女差、つまりジェンダー・ギャップがある。彼はフェミニズム運動に見られる「自発的な運動」に参加することによって、一般の人々がたがいに影響しあい、「異議申立ての文化」への気運を高めていくと述べている。
(フェミニズム運動のような)組織には重要な効果がある。参加者に自分が一人ではないことを発見させるのだ。自分と同じ考えの人がほかにもいるとわかれば、自分の考えに自信がもてるし、その考えや信念に関してさらに多くのことを学べる。

p.44
ただ……ただこの本を読んで思うのは、こういったチョムスキーのような人物が堂々と国の批判を行っていることそれ自体、もしかしてアメリカという国の「偉大さ」の一つなのではないか、ということだ。チョムスキーもアメリカには抑圧はない、誰かから中傷される程度だ、大したことはない、と言い切っている。



神話と古代宗教
DIE RELIGION DER GRIECHEN UND RÖMER

カール・ケレーニイ 著 / Karl Kerenyi
高橋英夫 訳 / ちくま学芸文庫



一つの宗教しか知らない者には、宗教は分からない>──これは、宗教に関するいかなる研究にも、モットーとして先置してよい公理である。

p.54
ギリシア神話が「装飾」として乱舞する笠井潔の『オイディプス症候群』。巻末の参考文献にはカール・ケレーニイの著書がいくつがあげられていた。
それでケレーニイの著書を読んでみたのだが、『オイディプス症候群』が単なる「推理小説」ではなくて、「推理小説というものを考えさせる推理小説」であったように、このケレーニイの著書も「神話/宗教というものを考えさせる神話/宗教ガイド」になっている。

この本に見られるケレーニイのスタンスとして重要なのは、近代合理主義及びキリスト教的思考にとって「自明な」論理/倫理による「解釈」を退け、古代ギリシア・ローマ人が本来的に有していた<生(ビオス)>としての宗教に迫る、ということだ。つまり現代人の目からは見えない──見難い「相」(ステージ)を感知させてくれる。

このことは強調してもしすぎることはないと思う。現代から見れば、不合理、非論理的に「見える」古代宗教の神話や祭祀も、その「当人たち」にとってはまさに<ビオス>としての宗教、生(ビオス)の表現形態の一つだったわけである。キリスト教徒や現代人が、ある種の異なる原理からなる宗教儀式を「おぞましい」と思うのは、自らの正統性を決して疑わない傲慢さに等しい。そしてこのことは、この本が探求している学術内容を飛び超え、「マジョリティ」が「マイノリティ」を「見る」ときの認識の浅薄さをも暴いているように思える。

(余談だが、この本を読んで改めて『オイディプス症候群』の凄さ分かったような気がする。「見える」「見えない」ということと、密室の形成、そしてパノプティコンにおいて「誰が見えない」のか「誰が見えているのか」ということ、そしてフーコーの「生権力」がなんとなく繋がってきた感じだ)

また、最近個人的に関心を持っているジョルジュ・アガンベンもその著書で「ビオス(生)」の重要性を唱えているし、今のところ未訳であるが著書名にもなっている「ホモ・サケル(聖なる人)」という言葉もこのケレーニイの著書に登場する──ケレーニイの「学問の方法」には注目したい。

何よりこういった本に見られる、著者のメガトン級知識量を売りにした作品には、概して、「圧倒される」しかなのだが、「神話」という意外に面白い「ストーリー」を扱っているので、それほど苦にはならなかった。その分析過程はスリリングであり、古代宗教における神々の「位相」を解明するあたりは、京極夏彦あたりの本が好きならば案外興味深く読めるだろう。終章における「非存在」を論じた部分もすいぶんとアクロバティックな論理が展開する。



ゲーデルの哲学
不完全性定理と神の存在論

高橋昌一郎 著 / 講談社現代新書



実際に、ゲーデルの方法は、真犯人だとわかっていながら、いかなる司法システムSも立証できない犯罪Gを生み出したイメージに近い。司法システムは、当然その犯罪方法に対処する新たな法を組み込むだろうが、その新システムでは立証できない新たな犯罪を構成できる。これをいくら繰り返して新たな司法システムを作っても、ゲーデルの方法を用いて、そのシステム内部でとらえきれない犯罪を構成できる。したがって、すべての犯罪を立証する司法システムは、永遠に存在しないというイメージである。

p.40
ゲーデルがこんなにわかっていいかしら……なんて書くとわかってない証拠だと言われそうであるが、とりあえず不完全性定理は「イメージできた」ような気がする。著者のプレゼンがとても上手く、本当に「わかったような気」にさせてくれるのだ。「わかったような気」になることは、こんなにも気分が良いものなのか、と改めて感じた次第。
だから強気で書くが、要するにゲーデルの命題って、
あるシステム(公理系)が無矛盾(すべて真)である場合、そのシステム内では証明不可能(決定不可能)な命題が必ず存在する。
ということで、これは例えば日常言語のように、対象を指示する「対象言語」と、その「対象言語」を指示する「メタ言語」といった異なるレベルの言語が混在している──自己言及している──ために生じてしまう、ということらしい。

(そしてもちろんゲーデルの凄さはこの「自己言及」を数論と結びつけたことであり、法月綸太郎の卓抜さはこれをエラリー・クイーンの考察に使用したことである)

この本では、そんなゲーデルの命題を記号や数式を用いずに──つまり手ぶらでOKということだ──説明しながらゲーデルの生涯を追っていく。さらにウィトゲンシュタインやアラン・チューリングについても言及され、興味は尽きない。

最後に余談であるが、
異性愛が必ず真=正常であるシステムの中で、どうやったら異性愛について言及できるのだろう……異性愛は存在するのか?