フーコーとクイア理論

タムシン・スパーゴ 著 / 吉村育子訳、岩波書店



「ポストモダン・ブックス」というシリーズの一冊。このシリーズ、なにやら「岩波書店」らしからぬ「軽快」な体裁と、最新の話題をチョイスした「フットワークの良さ」に注目している(『エーコとサッカー』とか『ダナ・ハラウェイと遺伝子組み替え食品』、『ヴィトゲンシュタインと精神分析』といったタイトルが興味をそそる)。

で、この本、本文もさることながら、土屋恵一郎氏の解説が抜群に良い。それはこんなエピソードで始まる。
フーコーがその来日中に定宿していたのが、新宿二丁目に通りをはさんで立っていたラシントン・パレスという小さなホテルだった。(中略)新宿通りに面して新宿二丁目のゲイ・バー街に出没するには格好の場所だ。しかしそこも実はロラン・バルトの方が先に定宿していて、バルトに教えられてフーコーはラシントン・パレスに居を構えたのだ。何をやるにもバルトはすっと姿を消して入り込んでしまうが、フーコーがそれをやるととにかくこれ見よがしだ。

<解説>私が法科大学院で「同性愛と法」を講義する理由
この本は、その題名の通り、ミシェル・フーコーの「権力論」「セクシュアリティの歴史」を通して、「クイア理論」を論じていく。つまり、「セクシュアリティ」とは何であるか、ということよりも、「<その>セクシュアリティ」(同性愛であること)が社会の中でどのように機能しているか、ということが主眼になっている。
ダイアナ・ファスは『内/外──レズビアン理論、ゲイ理論』(1991)という論文の序文で、異性愛/同性愛の対立の分析に、ジャック・デリダの「補遺」の概念を適用している。補遺(ここでは同性愛)は見かけ上は起源となる項の付加のようなものだが、起源の項(異性愛)とされるものは、実際にはそれに依存している。それゆえ、異性愛は同性愛の産物、あるいは同じ概念の枠組みの産物と見ることも出来る。それでは同性愛は同等な対立項かもしれないのに、なぜ劣等なものとして見られるようになったのか。いかなる対立も完全に孤立した状態では存在しない。すべては他との関係のなかで作動する。たとえば、互いに依存しながらも反目している伝統的な男性/女性の対立は、理性的/感情的、強/弱、能動的/受動的などの他との関連を通して階層的な構造をつくりあげている。同様に、異性愛/同性愛も互いに支えあうネットワークに巻きこまれているのである。

p.45-46
フーコーの研究ならびに同性愛を積極的に推進する政治学の経験が示してきたように、同性愛の明確なアイデンティティの認知を要求することは、必然的に同性愛と異性愛の不平等な二項対立を再確認することになる。それゆえクイア理論とは、対立の外側に移動したり、対立を転倒させることよりも、むしろこの二項対立が知と権力の道徳的、政治的なヒエラルキーを形成してきた経緯を考察することだと言えるだろう。

p.47
「クイア理論」は、この本では、従来の「ゲイ・スタディース」と区別され、よりラディカルな理論として定義されている。つまりそれは、平等や権利を獲得する運動というよりも、異性愛規範への「抵抗」といった側面が強調される。
中でも注目したいのが「不平等な二項対立」ということ。この部分は「ゲイ研究の優しい声の女王様」イヴ・コゾフスキー・セジウィックの「ホモソーシャル理論」を引きながら、「同性愛への敵意」「侮蔑」──つまり「ホモフォビアな言説」が、どのように形成/構築/固定されていくのかが分析されている。

そして、こういった議論を読みながら、ある考えに思い当たった。たしかにセジウィックの理論は素晴らしく様々な示唆を与えてくれるのだが、しかし、現在自分が住んでいる日本においては、なんとなく──そのままの形では──通用しないのではないか、と思っていた。が、それは早計であった。僕がある種の固定観念に捕らわれていたのだ。つまり「同性愛的なもの」を「利用」しながら、その一方で「同性愛」を「排除」し「侮蔑」し「ステレオタイプ化」するもの。それは、<一般的な>「男たちの絆」にあるのではない。それは「やおい」に関わる<特殊な>「異性愛者の集団」にあるのだ。

前述の土屋恵一郎氏は解説で、「日本社会が、同性愛に対して寛容であるという、なんとなくある気分を私は信じることはできない」と述べている。

同感である。日本では、同性結婚、ドメスティック・パートナー、シビル・ユニオンのどれもが国政レベルで議論されていない。また、東浩紀の『動物化するポストモダン』に見られるように、いまだに同性愛を「倒錯」と呼び、「おたく」の「倒錯性」を誤魔化すために、手前勝手に同性愛者を「利用」している。

では、「日本社会が同性愛に対して寛容であると」吹聴し、思いこませているのはいったい「誰」なのか、その「気分」の正体は何なのか……。
それは以前、
フーコーの『真理とディスクール』のレビューで書いたこと、そのものだ。
「やおい」があるから日本が同性愛に寛容であるなんて、まったくデタラメだ。「やおい」こそ、「同性愛的なもの」を「利用」しながら、その一方で、「同性愛侮蔑」「ステレタイプ化」を構築している最悪の「権力装置」である(レンタルビデオショップのアダルト・コーナーに「レズビアンもの」が多数あるからといって、「日本はレズビアンに寛容な社会」などと決して言えない)。
バトラーによれば、ジェンダーとは染色体レベルの生物学的な性を概念あるいは文化によって延長したもの(フェミニストの間で定着した読み方)ではなく、異性愛を人間関係の規範とする考え方を軸にして構築された現在進行形の言説実践である。強制的な異性愛は、同性愛に対するタブーを作りだすことを通して、ジェンダーに固定される。その結果、適正な生物学的性に付与されて安定性を持つように見えるジェンダーを、首尾一貫性のあるものと錯覚してしまうことになるのである。

p.54
「やおい」は、それ自体その内容において「ホモフォビア」言説を内在している、のみならず、その「やおい論」において、「実際の同性愛者」を愚弄する言説が平然と使用されている。いったいなぜ、異性愛ポルノにおいては「レイプ」が糾弾されるのに、「やおい」においては──しかも「やおい」は「成人指定」ではない──「レイプされてハッピーエンド」などと軽々しく言えるのか?

この「やおい」の差別的権力に抵抗するために、僕たちは、フーコーの理論をさらに押し進めたジュディス・バトラーを参照する必要があるのだ。
もしセクシュアリティが、文化的に構築されたもの、あるいは知のカテゴリーであり、フェミニストが主張するように、ジェンダーが文化的に作られるのなら、なぜわれわれは、男と女の間の二項対立とされる性がひたすらそこにあるなどと決めつけるのか。

p.54-55
バトラーにとって、ジェンダーの効果が「とりあえず社会で通用する何か」として産み出されるのは、特定の身体行動、ジェスチャー、運動のパターン化された反復を通してである。われわれは自分のジェンダー・アイデンティティがあるから決まった方法で行動するのではなく、ジェンダーの規範を支えているその行動パターンを通してアイデンティティを獲得するのである。

p.56-57




聖フーコー
ゲイの聖人伝に向けて

デイヴィッド・M・ハルプリン 著 / 村山敏勝、太田出版



フーコーは、いまにしてみれば、アメリカの(おそらく他のどこでも)革新ポリティクスの近年もっとも意義ある展開といってよいものの、知的な建築家といえるのだが、彼にそうした立場を与えたテクスト──いまや誰もが、あれを読まなきゃクイアー・ポリティクスは始められないぜ、というテクスト──が、他でもない、出版されたときには左翼からあれほど辛辣に批判され、おかげで著者は大西洋の両岸で、自称革新政治の闘士たちからさんざん中傷された、あのテクストであるというのは、妙な気がする。フーコー、とりわけ『性の歴史』第一巻において、異性愛リベラル批評家が見逃し、ゲイ・アクティビストが見たものとはなにか、そして、なぜそういうことになったのか。

p.44
ジュディス・バトラーの一連の著作とともに、アクティビズムに関心があるゲイにとっては必読書である。「アクト」するための、様々な戦略的、実践的「知」が、この本には──つまりフーコーの思想には──ある。言ってみれば、ゲイにとっての「兵法」であり「戦争論」、そして「権利のための闘争」なのだ。
フーコーの思想は、このように、徹底的に「活用」すべきもの──いや、そういうものなのだ、本当は。フーコーこそ真のアクティビスト、戦略に長けた闘士であったことは疑いえない。

そのことがわかるのが、著者ハルプリンが「フーコーを批判している左翼リベラリスト」を「批判」している部分。この部分こそ「異性愛リベラル批評家」が、フーコーを誤読している、のみならず、左翼リベラリストの「ホモフォビア言説」への加担を暴露している。
例えばエドワード・サイードは、『性の歴史』におけるフーコーを「政治的静観主義」だと批判した。冗談ではない。フーコーの『性の歴史』をバイブルとするアクト・アップ(ACT UP/権力の束縛を解くためのエイズ連合)の活動を、サイードが知らないはずはない。フーコー自身も政治活動に身を投じ、肋骨を折る怪我もしたという。それなのに、サイードが「政治的静観主義」という「言説」で、フーコーを批判するのは、いったい何故なんだろう──それは、彼の同性愛者に対する「先入観」の暴露に他ならない。

(サイードが9・11のテロ以降注目され、(フーコーと違い)「具体的な提言」を含んでいると言われる彼の政治的テクストを読んでみたが、あんなのは「広告代理店」がやるような「具体的なポイント」を手際良くまとめた「プレゼン資料」でしかない。サイードは、その具体的な提言をしているという意味で、ロビイストとして上等だ。しかし、スーザン・ソンタグやノーム・チョムスキーのように「迫るもの」は感じられない。実際、サイードの本を片手に「アクト」している「パレスチナ人」は、いったいどれほどいるのだろう。サイードの主要な「クライアント」=読者は、いったい「誰」なんだろう)
もっとはっきりいうと、アメリカのゲイ男性にはしだいにわかってきたことだが、このジェノサイドの時代を生き抜くためのわれわれの闘争の相手は、ゲイ・バッシャーとか警察とかいった、特定の抑圧者でもないし、ソドミー法のような明文化された公式の禁令でもなく、はたまた最高裁のような特定の敵意ある制度でさえない。むしろ敵は、公的な言説と私的な言説を形作り、文化表象の全領域をひたひたと覆い、フーコーの定義する権力のように、偏在し、多形的でどこにでも浸透する、ホモフォビアの戦略なのである。

p.51-52
それは日本でも同様だ。例えば、東浩紀のような「リベラルを気取る」人物が、同性愛者を「<実際の>ペドフィリア」と同列に扱い、何度も何度も何度も「倒錯」と呼び──そのように規定し、そのような既成事実を作り上げ──「オタク」の「倒錯性」を誤魔化そうとする「卑怯な」戦略を取っている。
また、僕が最高にアタマにきた高城響の「やおい論」も、東浩紀とまったく同様の「戦略」で同性愛者を貶める「言説」を流布=既成事実化させている。高城は「その意味では、<男同士の愛>という<異常>なものに傾倒しているつもりの彼女たちだが、実に<正常>なのである」と書いた。ここでも「やおい/オタク」の「異常性」を誤魔化すために、対象=同性愛者に「異常」を擦りつけ、自分たちの倒錯/異常を「悪魔祓い」している。どうして「オタク」は、こういった「卑怯」な言説戦略を取るのだろう。
ホモフォビア言説には、決まった主張があるわけではない。これは、可能性としては無数の、それぞれ異なっているが機能的には取り替え可能な断定からできていて、どれか一つの断言の誤りが証明され、退けられても、べつな一つが──まるで正反対の内容のものでさえ──いつも、代役を立派に果たすべく待ち構えているのだ

p.52
だいたい「やおい」は、「同性愛」を「利用」していながら、同時に「同性愛」を侮蔑し、矮小化し、ステレオタイプ化する最悪の権力装置に他ならない。そして「同性愛」を問答無用で「ポルノグラフィー化」している。さらにそこに差別的な「やおい論」が加わる。そしてそれを鵜呑みにした「ゲイのイメージ」が一人歩きしてしまう。挙句の果てに、「やおい」があるから日本は同性愛に寛容だ、などという暴論さえ吐かれる……。
やおいは「男と男の愛」であるという、その「異常性」の一点だけに依って立っている。

高城響”「やおい」にむらがる少女たち”(朝日新聞社)より
自分たちが「異常な同性愛」を書き散らして──「異常」であると規定/断言して、そのような既成事実を作り上げ──そういった「イメージ」を流布させておきながら、なぜ、その「差別的な行為」が「正常」で、搾取されている「同性愛者」が「異常」だと平然と言えるのだ? 「レイプされてハッピーエンド」だと思うのは、いったい「誰」なんだ?
ホモフォビア言説は支離滅裂だが、その支離滅裂さは、言説の力を無化するどころか、強めるものであることがわかる。実際のところホモフォビア言説は、論理的な矛盾によって戦略的に作用するのだ。ホモフォビア言説そのものの論理矛盾が、一連のダブルバインドを生み出し、これが──支離滅裂に、しかし、にもかかわらず効果的かつ組織的に──レズビアンとゲイ男性の生命を危険にさらすように働いているのである。

p.54
こういった「支離滅裂な論理」こそが、様々な「差別」を生み出し、それを助長し、それを容認してきた……ユダヤ人差別、黒人差別、女性差別、同和差別、ハンセン病差別……。
そのことに気がつかない──そのことを「問題化」しない「リベラリスト」は、鈍感もいいところだ。それこそが「フーコー、とりわけ『性の歴史』第一巻において、異性愛リベラル批評家が見逃し、ゲイ・アクティビストが見たものとはなにか、そして、なぜそういうことになったのか」の「解答」なのではないだろうか。

ハルプリンが強調するのは、フーコーが「リベラル権力」と呼ばれるものを分析し、その「規定力」への抵抗を目指したということだ。そのための「戦略」は、だからこそ、「伝統的なリベラル」が掲げる「全体主義的権力」からの「解放」とは異なった「理論」と「戦略」が必要とされる。何しろ敵は「リベラル」(とりわけ自分を「ゲイ」だと見なしていない左翼リベラル)であり、その目的は「解放」ではなく「抵抗」なのだから。
ゲイ男性の超男性性とフェミニズムの政治的な意気投合がありうるかどうか議論するなら、その土台はなんらかの行為遂行性(パフォーマティヴィティ)の議論であるべきで、けっして──リチャード・モースがいうような──ゲイ男性が能動/受動の役割を互いに交換することの価値を、感傷的に持ち上げることではないだろう。

p.132
むしろホモフォビア言説とは、もっと大きく組織的に、ホモセクシュアリティを非正当化する戦略の一部として働くのだ。こうした戦略に抵抗するためには、戦略的に抵抗しなければならない──戦略をもって戦略と闘うのである。

p.52
ゲイ男性のジム・ボディはだから、その見た目の美しさに加えて、自分の欲望の対象として広告する方法である。ゲイの筋肉は力を意味しない。それは、きつい肉体労働が生み出す種類の筋肉には似ていない。まったく逆に、ゲイ男性のジム・ボディの、誇張され、神秘的な、磨き立てれ、細心に彫られた肉体は、有用性を追求して生まれたものではなく、実際的な機能はまったくない。ジムでしか作られないような筋肉なのである。それらはエロティシズムをかきたてるように緻密に設計されており、まさに欲望を請い求めつつ、ストレートの男性性の視覚的規範を自分からこれ見よがしにひけらかし、挑発する。(中略)フーコーの『監獄の誕生』の仮説通り、近代規律社会は、破壊する予定のものをまず可視化する、というなら、ゲイ男性のボディビルダーは、彼らのエロティックな欲望を身体の表面に書き込むことによって、倫理的企てを追求してあえて社会的リスクを自らにさらすばかりか、近代の規律メカニズムそのものに公然と反抗しているという意味で、あらゆる人のためになる政治的に価値のある仕事を果たしているといっていいだろう。

p.170-171




ハイデガー=存在神秘の哲学

古東哲明 著 / 講談社現代新書



ハイデガーの哲学は「道」である。それをたどればある地点へ、おそらく至高の場所へ、だれもがゆくことのできる通路である。

p.64
そうか、ハイデガーもある種のパサージュ/遊歩道の案内人なのか……。そんなことを思わせてくれる、とても良い本だった。わかりやすいし。なにより、綴られる文章がとても魅力的。

ハイデガーというと、酷く難解な言葉が頻出し、抽象的で超難解なイメージ。しかも悪名高いナチズム問題や神秘主義的めかしたところがあって、素人には「奥の院」的存在。触らぬ神……ではないが、手を出すには、どうしても恐れ戦いてしまいう……ルックスも厳めしいしね。
事実そうなのだろうけど、この本では、ハイデガーという人物は、なんだかずいぶんと身近に間近に感じられる……意外と近づき易い感じ。その思想もだ。
「もうハイデガーは終わった」。「ナチ党員ハイデガー」。「言葉遊びの哲学者」。「本来性の戯言(ジャーゴン)」。「不倫教師ハイデガー」。「ポストモダンの黒幕」。「存在の黙示録」。「根源哲学への先祖帰り」。そんなキャッチフレーズで、すっかりハイデガー糾弾の包囲網が、はりめぐらされてしまった。
一応、すべてただしい。

p.15
古東氏は、このようにハイデガーへの数々への非難を「一応、すべてただしい」と受けとめたうえで、ハイデガーの思想を読者に「実感」できるよう易しく丁寧に説明してくれる。読者と一緒になって、野の道を散策するかのごとく、「存在することの驚き」(存在神秘)を喚起させてくれる。そのおかげで、ハイデガーが問うた「存在の意味(味)」を──なんとなくではあるが──感得できたような気がする。
「だれひとりそれを見ていなくとも、星の輝きがそれによって減じることはない」
もともとアリストテレスの言葉。あわだたしいゲシュテル現代の生活。星をみつめるひともほとんどいなくなった。みつめようとしても、スモッグにかすむ夜空に輝くのはネオンサインばかり。でも人間が忘れていようといまいと、星の輝き(存在の光)はいつもある。存在の光(存在神秘)が減じることはない。
おおむねそんなことが語られている。
だとすれば、一つの星とは「存在」。ふりあおいで見る、遠くの星ではないはずだ。

p.279
この本を読んだという「体験」それ自体が素晴らしかった。これこそ、ささやかであるが、僕個人の「エルアイクニス」かもしれない。感動した。



デリダ──脱構築

高橋哲哉 著 / 講談社



以前も書いたが、デリダは僕にとって、様々な示唆を与えてくれる重要な思想家である。フーコーのように自身が同性愛者であり、よって、ゲイについて、ゲイとして生きることについて「実践的な知」を与えてくれるわけではない。また、ジル・ドゥルーズのように、そこかしこで、同性愛者を援護してくれるテクストを残してくれたわけではない。
デリダは「同性愛」について、ほとんど何も記していない。しかし、デリダのテクストは、最良のゲイ・スタディーズのテクストへと変貌する。

この高橋哲哉による『デリダ』も、難解なデリダの思想を丁寧に紹介してくれる。そして、この本を読むことによって、そこかしこで、様々な思考へと僕を導いてくれる。
「私を読んでごらん。きみにそれができるかな?」という「呼びかけ」でこの本は書き出される。以下はそれに対する僕なりの「応答」である。
まず第一に、書くこと、エクリチュールは、議論の順序としても、話すこと、パロール、ロゴスにかかわることに先立たれ、遅ればせに、二次的派生的に、付け足し、添えもの、補遺(サプリメント)としてのみ登場するということ。第二に、エクリチュールはここでは初めから「妥当」なものであるかどうか、「立派」なものであるかという、いわば道義的観点、モラルの観点から評価の対象になるということ。第三に、エクリチュールはパロールに対して遅ればせに取り上げられたうえに、まず最初は「まじめな」理論的言説ではなく、「昔の人たちから伝わる物語」──その「真意」は「彼ら古人だけが知るところだ」とされる──に、つまり語り手たるソクラテス自身は責任を負わない単なる神話、伝説、うわさ話のたぐいに委ねられるということ。デリダにとって、これらはすべて、形而上学のロゴス中心主義的諸前提に結びついたものと読めるだろう。

p.64-65
このパロール=ロゴスを「異性愛」に、エクリチュールを「同性愛」に置き換えて読んでみること。すると、ここに、「異性愛中心主義」の問題が鮮やかに浮びあがってくる──ゲイ・スタディーズのテクストへと鮮やかに変貌する。

すなわち「同性愛」は、いつだって、二次的なものとして、「異性愛」の「補遺」として扱われる。いつだって「同性愛自体」が「評価の対象」、<誰か>の「許可」が必要とされる──「異性愛自体」はモラルの観点から「評価の対象」になることは、ない。いつだって、「同性愛」は、「異性愛者が考案」した精神分析(つまり現代の神話/伝説/うわさ話だ)の勝手な「解釈」に委ねられる。

それだけではない。この「同性愛者」の「貶められた地位」を利用する人物たち、つまり「同性愛を差別的言説投入可能な領域とみる無自覚かつ犯罪的研究者」が存在し、彼らが「同性愛を語る主体」になる。

東浩紀は『動物化するポストモダン』で、同性愛者を「実際の小児愛者」と「並列」させ、何度も何度も何度も「倒錯者」と書き記している。その目的は何か。それはオタクの倒錯性を誤魔化すべく、同性愛を利用していることに他ならない。自分たちが「他者」を「倒錯者」と「評価」する側にいること……そのことを「表明」して、自分たちが「評価」されることを回避する<卑怯な>戦略だ。

同性愛者は、オタク=東によって「スケープゴート」にされた。この「本=テクスト」を読んだ<私>は、署名者=東によって、「倒錯者」と勝手に「評価」され、罵られる。のみならず、<私>だけでなく、<私>のパートナー、<私>の恋人、今は亡き<私>の友人、面識のない<私>の憧れの人……までをも「倒錯者」と侮蔑される──既成事実化される、ことになる。
いったい東は、自分のパートナーや恋人、友人が「倒錯者」と罵られて、なんとも思わないのだろうか、胸を痛めないのだろうか? 

しかしこんな「問い」は不問に終わる。なぜならば、東は最初から、「責任」を回避しているからだ。 ここで東の議論を振りかえってみよう。東は「オタクの保守的なセクシュアリティ」を、まず、斎藤環の「精神分析」=「神話/伝説」から始めている。
精神科医の斎藤環は、オタク系文化の図像がさまざまな性倒錯で満たされているにもかかわらず、なぜオタクには現実の倒錯者が少ないのか、という問いを幾度か提起している。男性のオタクたちがロリコンものを好み、女性のオタクたちが男性の同性愛者が登場する「やおい」ものを好むのは八〇年代から有名だが、その一方で、現実の小児性愛者や同性愛者がオタクたちのあいだで決して多くないこともまた知られている。

『動物化するポストモダン』p.129-130
このロジックの奇妙さは、
『動物化するポストモダン』のレビューでも書いたから繰り返さない。今回問題にしたいのは、この神話/伝説=精神分析を持ち出したときの東の態度である。
東は「この説明もオタクたちの心理のある側面をついているのだろうが……不必要に迂遠な論理だという印象は拭えない」と書いている。この曖昧な態度はなんなんだ? これこそ、”まず最初は「まじめな」理論的言説ではなく、「昔の人たちから伝わる物語」”を話し、自分自身は「責任」を負わないという<卑怯な>態度ではないだろうか。

そして、この東のテクストに見られる<卑怯>な態度こそ、オタクの「言説」に共通して見られる現象である。高城響の「やおい論」もそうであった。
やおいは「男と男の愛」であるという、その「異常性」の一点だけに依って立っている。
……
その意味では、「男同士の愛」という「異常」なものに傾倒しているつもりの彼女たちだが、実に「正常」なのである。

高城響”「やおい」にむらがる少女たち”(朝日新聞社)より
この「やおい論」の趣旨は、『シモーヌ・ヴェーユ──その劇的生涯』のレビューでも書いたが、ここでも、東の議論と同様に、「やおい」を正当化させるために、同性愛者だけを異常者扱い──「外部」に押しやり──にして、「やおい」は健全であると喧伝/悪魔祓いしている(強調しておきたいのは、ここでも、自分たちは、<真理>を語る「側」、つまり「パロール」の「側」に「立っていること」を、自ら喧伝していることだ

さらにだ。東や高城に見られる同性愛差別的な「オタク/やおい」言説が流布してしまった結果、それに類した言説が、一般的なオタクたちの間で「反復」されている。

先日高崎で発生した少女殺害事件において、「これはオタクの犯罪」であると報じるメディアに対し、オタクによる、オタク擁護の文章を見つけた。
「ペドという単純で簡単な問題 その2」

これを読んでアタマにきた。ここのサイトでは、オタクを擁護する言説において、同性愛を「不適切な文脈」で「利用」しているからだ。だから僕は、そのことをはっきりと主張=意義申立てクレイムしておきたい。

上記のサイトでは、「ロリオタ」と「ペドフィリア」を明確に分離している。つまり「ペドフィリア」は「オタク」の「外部」にあることに──あらかじめ──「決定」されている。その上で、
ゲイだってそうですよね。ゲイである事はかまわないが、男性が男性をレイプをしたら捕まる。当然ですね。
と述べられる。いったいなぜ、唐突に、オタクを弁護する文脈で、こんなセリフが出てくるんだろう。「ゲイである事はかまわない」ということは、<誰>がいったいどうやって「決定」「評価」するんだ? なぜ、
ヘテロだってそうですよね。ヘテロである事はかまわないが、男性が女性をレイプをしたら捕まる。当然ですね。
ではないのか。ここでも「同性愛」が「妥当」かどうか「評価の対象」であると、またもや「反復」──何度も何度も既成事実化されて……ゆく。

だいたい、異性愛だろうと同性愛だろうと、「レイプ」が「犯罪」であることは周知の事実である。よって、「オタクと犯罪」というコンテクストにおいて、上記の「セリフ」は、擁護としては、端的に、無意味である。
しかし、僕は、この唐突に発せられた──書き加えられた──「セリフ」の持つ「意味」について深く考えたい。なぜ、彼は、この文脈で「ゲイ」を「思いだした」のか……。
僕は、上記の「セリフ」の「主語」を「ゲイ」から「ヘテロ」を置き換えた。しかし、大意は変らないし、「レイプ」が「悪」であることに変りはない──意味するところは、「ゲイ」も「ヘテロ」も「レイプを<しないかぎり>」悪ではないという「認識」からだ。問題は、「レイプを<しないかぎり>」ということにつきる。つまり、「合意の上」での男女、男男、女女により性的関係は、OKだという「認識」だろう。

では、もし、その「主語」が「ペドフィリア」だったらどうであろうか。つまり、
ペドフィリアだってそうですよね。ペドフィリアである事はかまわないが、成人男性が幼女をレイプをしたら捕まる。当然ですね。
ここで、当該サイトの管理人は、彼の、どういう心理を暴露しているのだろう。 またこれに先だって、「ゲイだろうがSMだろうが、本人たちが納得づくでやってるんなら、他人がどうこう言う必要はないじゃないか、と」、彼=オタクは発言する。 さらに、
「ガンマニアだからといって、殺人嗜好がある訳ではない」ということです。
という奇妙なアナロジーが登場する。この「ガンマニア」のアナロジーは、端的に、無意味である。なぜならば、
クラシック音楽マニアだからといって、殺人嗜好がある訳ではない
ということと同じことを言っているからだ。「ガン・マニア」のマニアとしての「対象」は、「ガン(そのもの)」だ。殺人ではない。殺人嗜好があるのは「殺人・マニア」だ。しかし、「オタク」のマニアとしての「対象」は「幼児」であり、ペドフィリアのマニアとしての「対象」も「幼児」である。そして「オタク」による「オタク自身」の意見によると、「オタクとペドフィリアの境界」は、「二次元」と「三次元」の「差」だという。

ここで東浩紀の論旨を検討してみよう。彼は「二次元」と「三次元」の「差異」の「起源」を次のように述べる。
彼ら(オタク)は10代の頃から膨大なオタク系性表現に曝されているため、いつのまにか、少女のイラストを見、猫耳を見、メイド服を見ると性器的に興奮するように訓練されてしまっているのだ。しかしそのような興奮は、本質的に神経の問題であり、訓練を積めばだれでも掴めるものでしかない。それに対して、小児性愛や同性愛、特定の服装へのフェティシズムを自らのセクシュアリティとして引き受けるという決断には、またまったく異なった契機が必要とされる。

『動物化するポストモダン』p.131
東浩紀は、オタクは「訓練によって性器的に興奮する」と言い切っている。つまり、「オタクは、訓練によって、<二次元の>幼児に性器的に興奮させられる」。ならば、<三次元の>幼児に性器的に興奮するよう「訓練」を受ければ、<実際のペドフィリア>が「誕生」するのだろうか? 東が言う「まったく異なった契機」とは、いったい何だろう? なぜ、東は「実際の小児愛者」が引き受けることになる「セクシュアリティ」──もちろん、「この」セクシュアリティは、オタクの「外部」にある──について、その「契機」までもわかるんだ?

ここで『デリダ』に立ち戻りたい。
すなわち一方では、パロールは、一定の「本質」をエクリチュールと共有しており、両者は構造的に共通性をもっている。パロールはある意味ではまさにエクリチュールの一種であり、だからこそ、パロールの記述にエクリチュールの「隠喩」が必要とされるのである。このパロールのなかにあるエクリチュール性を、デリダは、のちに見るように「根源的」エクリチュールという意味で「原エクリチュール」と名づける。他方ではしかし、形而上学はパロールの内部へのこのエクリチュールの侵入から真理の核心を護るために、エクリチュール自体を分割し、「良きエクリチュール」と「悪しきエクリチュール」の二項対立を作り出す。一般に、良きエクリチュールは真理を語り、内面的で精神的、生き生きとして自然なエクリチュールであり、悪しきエクリチュールは誤謬に満ち、外面的で物質的、死んだ技術としてのエクリチュールである。

『デリダ』p.89
これまで、よくよく考えてみれば、「実際のペドフィリア」について、そして「同性愛者」について、勝手気ままに語ってきたのは──パロールしてきたのは、オタク(東浩紀、高城響ら)であった。

実のところ、「実際のペドフィリア」が、自分がオタクであるのか、そうであるのか、ということはほとんど問題にされていない。要は、オタクが、自分たちの「外部」に存在する──と「定義」した──「実際のペドフィリア」や「同性愛者」について、勝手に、恣意的に語っていただけだ。

つまり、形而上学が”パロールの内部へのこのエクリチュールの侵入から真理の核心を護るために、エクリチュール自体を分割し、「良きエクリチュール」と「悪しきエクリチュール」の二項対立を作り出す”のと同様の「作業」を、オタクがやっているのではないか。「良きオタク」への「悪しきペドフィリア」の内部への侵入を防ぐために。自分たちの<真理>を護るために。同性愛者を「倒錯」と「評価」して……。

そうなのだ。「良きオタク」と「悪しきペドフィリア」という二項対立こそが問題なのだ。ここには、すでにして、「良い」と「悪い」、「正常」と「倒錯」という形而上学的「言説」が存在してしまっている。

もう一度、高崎の事件(そして宮崎勤の事件)と、他のしょっちゅう「援助交際」で逮捕されニュースになる「ペドフィリア」の事件との「差異」を考えたい。「援助交際」で逮捕される「ペドフィリア」=(東浩紀が同性愛者と「並列」させる)「<実際の>小児愛者」と、今回、高崎の事件で逮捕された「ペドフィリア」。オタクの「言説」は、「援助交際」で逮捕される「ペドフィリア」との違い、オタク外の出来事であることを強調する──パロールする。何故か。それは「援助交際等で逮捕されるペドフィリア」は「オタクでは<ない>」ことを、「容易に」示せるからだ。「彼ら<実際の>ペドフィリア」は、最初から「三次元」が目的であり、「二次元」は代替でしかない。一方、高崎の事件や宮崎事件は事情が違う。これらは「現実と空想が混同」したものとして、犯罪が、現前されてしまったものだ。
そうであるならば……。

僕の考えは、こうだ。ペドフィリアは二人いる。「起源」を異にする二つのタイプが。両者とも、「犯罪行為」に至らぬまでは、問題はない。ただし、一方の側のもう一方への「自己中心的な言説」だけを重視するのは、端的に、無意味だ。