BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


(1995)
小池真理子
ハヤカワ文庫JA


 雛子が大久保に一途に求めていたのは、彼の肉体ではなく、精神であった。精神! 目に見えないもの。形のないもの。そのくせ変幻自在で、まとまりのつかぬもの。肉体に比べて、常に高尚な役回りの担っているもの……そんなものだけを求めるなど、不潔な行為としか思えなかった。汚らわしかった。貪欲に肉体を求め、快感を求め、性に溺れていく人間のほうが、遥かに清潔だ、と私は思った。
 信太郎以外に、千人の男を相手にし、嬉々としている雛子は聖女だった。だが、たった一人の男に魂をまるごと預けようとする雛子は淫売も同然だった。

理想を掲げた学生運動が、連合赤軍による浅間山荘事件に収束していく時期、矢野布美子は、大学助教授の片瀬信太郎、雛子夫妻と知り合い、二人の奔放で退廃的な生活に魅了されてしまう。活動家の恋人と別れ、一転して片瀬夫妻との美しい乱調の日々にのめり込んでゆく布美子。
しかし彼ら三人の「聖なる撹乱」とも言うべき甘美な関係も、脆くも崩れ去るときがやってくる。一人の男の出現によって、そして「恋」によって……。

この作品はまぎれもなくミステリーである。陰影豊かな美しい文章によって綴られる濃密なドラマに陶酔している只中に、そのミステリーとしての造形がくっきりと現われてくる。その様は、見事としか言いようがない。手法的には──過去の出来事を再構成していく手法は──、バーバラ・ヴァインの作品を思わせる。

ヴァインの『階段の家』がヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』を下敷きにしているならば、小池真理子の『恋』が下敷きにしているのは、プラトンの『饗宴』だろう。一見、同性愛も絡めた複雑で退廃的とも取れる登場人物たちの「恋愛」は、途中から、その様相を、その役割を、その意味をすべて反転させる。

この作品は単なる耽美で倒錯的な情景を描いたのではない。追い求めた「理想」を、どんな形であれ、たとえ暴力に訴えても、完遂しようとした悲劇を描いたものだと思う。浅間山荘事件を引き起こした「理想」を遠景に、ヒロインの矢野布美子が求めた「理想」。彼女が犯した犯罪は、『饗宴』の中でソクラテスが説いた「理想」を死守することにあったのだ。




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落ちる
多岐川 恭
創元推理文庫


多岐川恭の短編集。1953年から1959年に発表されたものであるが、それほど古い感じはしない。むしろ抑制の効いたモダンな筆致に新鮮さを覚えた。
どの作品もミステリー・マインド溢れる堂々の本格、であるだけなく、ニューロティックな──異様でもあり、それゆえ甘美でもある独特の雰囲気に彩られている。こういったテイストの作品は大好きだ。

『落ちる』
神経症の男を語り手にした心理サスペンス。異様なテンションを孕み、一気に読ませる。主人公を襲う奇妙な感覚は現実のものなのか、それとも、死に取りつかれた男の疑心暗鬼が生み出した妄想なのか。いびつで不安定な視点から導かれる真実とは……。
心理の「死角」を狙ったこの作品は、マーガレット・ミラーの『目の壁』を思わせる。ラストの一行もミラー同様、心憎いまでに決まっている。多岐川恭の代表作で傑作の一つ。

『猫』
ディスクン・カーばりの大掛かりで大胆不敵なトリック。そのトリックも忘れ難いが、不気味な犯人像もなかなか印象的だ。

『ヒーローの死』
密室物。横溝正史のあの作品に近い。まあ、この作品集の中では標準作か。なにより他が凄すぎるのだ。

『ある脅迫』
ネガティブな人間観察が秀逸。パトリシア・ハイスミスに匹敵する辛辣さだ。舞台劇を思わせるシンプルな設定が、ラストの逆転劇を際立たせている。

『笑う男』
倒叙ものだが、殺人犯人よりも「素人探偵」の厭らしさがこれでもかと描かれている。この作品もパトリシア・ハイスミスとタメを張る邪悪さだ。手に汗握るサスペンス(家庭を守るため必死の犯人VS下品でガサツで無慈悲の素人探偵)、そして「笑う男」に込められた二重の意味と皮肉な結末には、思わずヤラレタ!と叫びたくなる。

『私は死んでいる』
甥夫婦の策略にはまり、縛られ監禁された老人。数日後には殺される運命にある。絶体絶命のピンチ! なんだけど、これが実にユーモラスな作品になっている。語り手は被害者の老人で、この爺がなかなかやってくれる。食欲も旺盛で、どちらかというと犯人たちのほうが振りまわされている感じだ。亡き妻との「会話」も絶妙で、いわく言い難い魅力を放つ。

『かわいい女』
ファム・ファタールもの、というより日本語の毒婦とでも書いたほうがぴったりくる。そういえばこの短編集、多くの作品で淫蕩な毒婦が登場し、その存在は強烈な印象を残す。こういうところもハイスミスに近いテイストが感じられる。

『みかん山』
作者のデビュー作にして、どうだ、と言わんばかりの奇想天外なトリックを仕掛ける。その潔いプレゼンテーションはクリスティアナ・ブランドを思わせる。しかしこの作品も異様な犯人像が忘れ難い。

『黒い木の葉』
この短編集で一番気に入っている作品。これほど「美しい本格」にはなかなか出会えないだろう。シューベルトの『冬の旅』をモチーフにしたロマンティックな作風で、主人公の理想主義に走る少年は、まさしく「さすらう若者」だ。あらゆる細部が綿密なプログラムで成立しているにもかかわらず、限りなく美しい瞬間が、そこにはある。
しかしピアニストの内田光子が、シューベルトの音楽には「魔が住んでいる」と評したように、この作品にも不気味な「魔」が忍び寄る。その幻想的な筆致とあいまって、後々まで余韻が残る。

『二夜の女』
多少通俗的、かな。オチも予想通り。展開はサスペンスフルでなかなか読ませるけど。




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