BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


バイバイ、エンジェル
笠井潔
創元推理文庫


新宿のタワー・レコード6階にある「クラシック音楽」のフロアー。ここのCDの配列は、他の店舗と比べ、かなりユニークだと言えるだろう。何故なら、エレベーターを下りて僕がまず足を運ぶフロアー東側にある現代音楽(コンテンポラリー)コーナーには、オリヴィエ・メシアンのCDは置いていないのだ。
メシアンは言うまでもなく、1992年に他界した20世紀を代表するフランスの作曲家で、通常は「現代音楽」に分類される音楽家であり、それなりに「権威」のある音楽雑誌『レコード芸術』でも、そのCDは「現代音楽」のコーナーで紹介される。

それがこの新宿のタワー・レコードでは、メシアンは古典(クラシック)扱いになっており、通常の作曲家のコーナー、すなわちメンデルスゾーンとモーツァルトの間にそのCDは置いてある。最初、ショップに足を踏み入れ、そのことを知ったときに感じたのは、あるべき場所にそれがない、という一種の不安であった。
もちろん今ではこの配列は非常に新鮮なものだと思う。僕が高校の頃はウェーベルンでさえ現代音楽(モダン、あるいはアヴァンギャルド)に分類していたショップもあった。そのことを思うとある種の感慨を禁じ得ない。

そして「現代音楽」(モダン、コンテンポラリー)の一角には(と言うよりは向かい合って)、「アヴァンポップ」と呼ばれる音楽のコーナーがある。 モダン/コンテンポラリー音楽が、構造にしろ音響にしろ形式にしろ、それぞれ様々な試みを、真摯に(シリアスに)極限にまで(パラノイックなまでに)追求した「重さ」を孕むのに対し、アヴァンポップは、文字通りポップに、やけに「軽く」感じさせる。意味を持たないくらい軽やかに耳を追撃する。それはもしかしたら「音楽」ではないのかも知れない……それはポストモダンと言えるのかも知れない。

しかし、それらクラシック(文字通り古典)、モダン、ポストモダンは一つのフロアーに一つのジャンルとして存在している。アドルノではないが、シリアスな、「本格的」な意味を持つ「クラシック」として。

前振りが長くなった。笠井潔の推理小説は、オリヴィエ・メシアンの音楽と同じく、発表された段階ですでに古典として認知される「クラシック」である。 『バイバイ、エンジェル』は 言うまでもなく、その笠井潔のデビュー小説。言うまでもなく、推理小説界に新風を吹き込み、推理小説の可能性を多いに広げた。言うまでもなく、傑作である。
今回再読してみて──最新作『オイディプス症候群』を読み終え──、改めてこの作品、この矢吹駆シリーズの素晴らしさに夢中になり、翻弄され、熱狂させられた。

斬新な作品である。しかし信じ難くアナクロニックな推理小説のガジェット──首なし死体──をまず提示する。あるべき場所にない首をめぐる推理。ただしその解答は素晴らしくアヴァンギャルドな印象を与える。解答を導く手法においても、現象学というツールを駆使し、ペダントリーの鏡を複雑に交差させ、推理小説という遊戯(ゲーム)を魅力的に進行させる。

語り手は「わたし」、ナディア・モガールというフランス女性。印象としては、プルーストの語り手の性(ジェンダー)を反転させ、より現代風に、より軽やかにした感じだ。多少身勝手な臆断を下すナレーションもまたプルースト風である。では、矢吹駆はアルベルチーヌに対応するのか、というのが、僕個人のこのシリーズにおける一つの引き伸ばされた魅力的な謎でもある。とすると……。

また、矢吹駆は作中でマーラーの『大地の歌』のフレーズを口ずさむ。このことは思いがけず、僕に、アドルノの文章を思い出させる。
《大地の歌》の乙女は密かに恋する相手の男を、「憧れのまなざしでじっと」見つめる。この作品自体のまなざしもまた、吸いつくように、疑念を抱きつつ、底知れぬ優しさをもって過ぎ去った方向へと向けられる。(中略)ほぼ同じ頃に成立したプルーストの『失われた時を求めて』とも相通ずる。

「長きまなざし」(テオドール・W・アドルノ『マーラー 音楽観相学』、龍村あや子訳、法政大学出版局)

ここでアドルノが言う「乙女のまなざし」と同じものが、『バイバイ、エンジェル』を始め矢吹駆シリーズが孕むシリアスさ、つまり過剰な思想対決、重く凄絶な内容を異化するかのように働きかける機能を果たしているのかもしれない。そのため読後感は意外に軽やか=ポップである。

作者が述べるように推理小説『バイバイ、エンジェル』は、評論『テロルの現象学』と平行して、対応するように書かれている。とするならば、以下の文章を── ほとんど遊戯(ゲーム)に過ぎないが──、「曲名」を「小説の題名」に、「音楽」を「(推理)小説」に、「作曲者名」を「作家名」に変換して読んでみたらどうであろうか。
《大地の歌》の独創性は、独創性という概念の伝来の意味とはあまり関係がない。音楽言語の序列の中から、よく知られた言い回しが輝きを得る。つまり自分の人生全体を背後にもつ慣用的表現を口に出す者が、実は自分が語っているより以上のこと、違ったことを語っているということだ。音楽は、重要なものをたっぷり吸い込み、それに従属することなくそれを現象させる吸い取り紙のようなもの、日常的なものとなる。このように、経験によって通俗的なものを抽象的なものとして機能転換させることは、つねにマーラーの意味の中にあった。

テオドール・W・アドルノ「長きまなざし」

アドルノは言うまでもなく、ナチによるホロコースト=大量死を逃れ、アメリカに亡命したユダヤ人である。彼の「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という命題はあまりに有名である。




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サマー・アポカリプス
笠井潔
創元推理文庫


矢吹駆シリーズの中で個人的に一番気に入っている作品。何よりもまず、華麗な舞台装置──ヨハネ黙示録による見立て殺人、古城での密室殺人、異端カタリ派と中世南仏王国の秘法伝説、それに絡むナチスの暗躍等に、眩惑させられる。そしてそれら「装置」が独自の煌きを放ち、互いに干渉し衝突しながら、物語は展開していき、やがて奇跡的な収斂、収束に至る。その醍醐味は何物にも代え難い。

言うまでもなく純粋な推理小説としての面白さは保証済みだ。前作よりも一段とスケール・アップしている。密室やアリバイ工作自体は、多少、物理的で綱渡り的な危うさを感じさせずには置かないが、それを論理的に収める技法は冴え渡っている。十分な説得力がある。特に「二度に渡って殺された」死体をめぐって展開される現象学的推理には、まったく興奮させられる。さらに後半、二転三転する事実にも<本格>推理小説というゲームに参加している読者に、ゆるぎない緊張と快感──それはジェットコースターに乗っているような緊張と快感──を確実に与えてくれる。

しかしそれにも増して胸を熱くさせ、猛烈な一撃を食らわせるのは、この作品で展開される熾烈な対決、空前絶後(と言いたい)の思想対決だ。ここではシモーヌ・ヴェイユ(のプロトタイプ)がカケルの相手となる。「神を愛するのか、人間を愛するのか」とカケルはシモーヌに迫る。しかしシモーヌの取った選択は「忍耐(エンドウラ)」であった……。

最初この作品を読んだときにはヴェイユという人物を知らなかったのだが、カケルとの対決において、ああいった「手段」で対抗したシモーヌに対して戦慄を覚えた。まさに衝撃的であり、度を越えた選択に思えた。それはヴェイユについてある程度知った後での今回の再読においても変わらない。
何よりシモーヌは、笠井潔の小説を通して、僕に何かしら示唆を与えてくれたのだ。

「シモーヌ・ヴェイユは哲学者としてではなく、神秘家として語っている」。そう述べているのは『重力と恩寵』の編集者ギュスターヴ・ティボンである。しかし『サマー・アポカリプス』のシモーヌは、カケルとの対決でこう述べる。
あなたのいうようなことは、まるで不可能なことです。カタリ派についても、あなたは根本的に誤解しています。カタリ派は、異教ではありません。キリスト教異端というのも外見だけです。カタリ派の信仰とは、プラトンが説き、キリストが御自身で示された真の教えの正統の後継者なのです。

p.396
僕は信仰を持っていないが、もしあったとして、自分の信じているものが「異端」であると納得できるであろうか。「正統」あるいは正しいと信じるからこそ信仰が存在するのではないだろうか。
ティボンは「正統」に属するキリスト教徒である。だから「正統」ではないキリスト教に心を寄せるヴェイユに対し「神秘家」というレッテルを貼ろうとする。どんなにヴェイユに対し敬意を示していても、あるいはそれゆえなのか、そこには「正統(正常)」に属する多数派の傲慢さを垣間見てしまう。

いったい「正統」や「異端」または「正常」や「異常」はそれほど確固とした磁場を築いているのか。本書におけるカケルとシモーヌの対決、異端カタリ派への言及を読んで、そんなことを考えさせられた。

もちろんこう言った「読み方」はかなり恣意的であるのは承知している。本来的な「読み」とは「ずれ」が生じているのかもしれない。

ちなみに今、スティーブ・ライヒの音楽を聴きながらこの文章を書いている。ライヒの音楽は、あらかじめテープに録音した音を流しながら現実の(実際の)楽器を弾くというものだ。そのため同一のメロディー・パターンが偶然重なったり、ずれたりする。もちろんテープの方が音程にしろリズムにしろ「正確」である。
しかしどんなにテクニックの優れた奏者であっても、テープで流される音楽と自分が今奏している「生」の音が完全に一致することはありえない。必ず「ずれ」が生じる。その「ずれ」を「ずれ」としてではなく、一つの音楽的な「効果」として楽しむこと。それがライヒの音楽である。だからその音楽はいつも新鮮でいつもスリリングである。




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