BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


パズル崩壊
法月綸太郎 /  集英社文庫


ピカソが新聞記者のインタヴューに答えて語った言葉の中に、次の有名な一節がある。

ある絵を説明しようと試みる者は、たいていの場合誤りを犯す。もう大分前のことだが、ある時ガートルード・スタインが嬉しそうな様子で私のところにやって来て、私の絵が何を描いたものか、やっとわかった、三人の音楽家を描いたのね、と言った。ところがその絵というのは、実は静物だったのだ……。

高階秀爾『20世紀美術』(ちくま学芸文庫)

法月綸太郎の短編集。噂に違わぬ傑作で、ヴァラエティに富んだ「本格ミステリ」作品集であると同時に、それについて、様々な問題を投げかけるミステリ批評としても読むことができる。いかにして<本格>を破壊するか、いかにしてパズルを崩壊させることが可能かと。

……というふうに、「読者」が何か思いついた視点を見つけ、自由に感想を書いていくには多少の困難が付きまとう。それは「作者=評論家」法月綸太郎が、一つ一つの作品について詳細なあとがきを添えているからだ。いみじくも、この作品集にある『カット・アウト』で言及されたジャクソン・ポロックについて確認しようと開いた高階秀爾の著作の第1ページに、上記に引用した文章があってはなおのこと。

というわけで、この作品の感想を書くにあたっては、僕がいつも美術館でやっている、まず絵を見て、次に解説を読んで、そしてもう一度絵を「確認」する作業に近いものになる……解説はときに「バイブル」であり、ときに「もっとも好意的な読者をもいらだたせるようなもの」(スタンダール)であることを念頭において。

『重ねて二つ』
大胆不敵なトリックを披露する密室物。かなりフェアに描かれているし、個人的にクリスティアナ・ブランドの作品が思い浮かび、何となく途中で仕掛けはわかった。と、思っていたが文中の「ギミックのためのギミックに堕して」しまう云々と「シニカル」な刑事が吐くセリフには、なにか「シニカル」なものを感じてしまう。

『懐中電灯』
犯人側から描いたいわゆる倒叙物で、刑事コロンボや古畑任三郎を彷彿させるプロット。テンポが良く、懐中電灯という小道具の使い方がとても粋だ、幕切れも。

『黒のマリア』
三重密室にオカルト風味を混ぜたもの。まあ、あとがきで作者が書いているように、多少強引かと。というより、作者が「強引なのは承知」と書いているので、そうですね、としか言えなかったり。

『トランスミッション』
間違って掛かってきた誘拐の脅迫電話を受けた推理作家が、犯人と子供を誘拐された家族との「橋渡し」(トランスミッション)になるという、抜群に面白い構成。
最初の方でバッハの『フーガの技法』に言及していたので、単に作者の音楽趣味を披露しただけでなければ、「二重対位法」「転回」「無終(カノン)」「反行拡大(カノン)」「鏡像(フーガ)」といったトリックが仕掛けられているだろうと思っていたら(何しろ主人公は推理作家だ)、やはりそうだった。さらに作者のあとがきを読むと、この作品はポール・オースターの「トランスクリプション」であるともいう。

『シャドウ・プレイ』
意味深な題名の通り、推理作家がドッペルゲンガー絡みの犯罪を、電話を介在させながら、主人公に語るというもの。最初はその題名と電話という小道具を使っていたため、マーガレット・ミラーのあれかな、と狙いをつけていたら(しかも次の作品はロス・マク関係だし)、ヘレン・マクロイのほうだった。
前作以上に手の込んだ「フーガの技法」を踏破しており、一種の「創作論」としても読める。

『ロス・マクドナルドは黄色い部屋の夢を見るか?』
「きみか、アーチャー」ブラッドリーはわたしの顔を見るなり、芝居じみたため息をついた。「また性懲りもなく、複雑に入り組んだ人間関係と、陰惨な家族の悲劇にまつわる面倒な事件を調査しているのか?」

p.210
最高のロス・マクドナルド論。トム・ノーランはこの作品の存在を知っているのだろうか。ぜひ知らせてあげたい。
もちろんロス・マクドナルド風の事件が起きる「本格ミステリ」で、ロス・マクドナルドのパロディとして十分に笑える「小説」だ。この「ロス・マク小説」を読むと、例えば「デッカードに会った時、詮索する目つきが誰かに似ていると思ったが、後から○○だと気がついた」というセリフなんかは、ロス・マクがチャンドラーよりもクリスティに近い趣向であることを強く感じさせる。
そしてロス・マクが、そのストーリー構成においても、文章を記述する方法においても稀代のマニエリストであることを匂わせながら、作者はそれを逆手に取って、唖然とするトロンプ・ルイユ(だまし絵)的な結末でもって、パズルを崩壊させる。

『カット・アウト』
これは随一の傑作。モダニズム芸術家が主人公で、彼の芸術理論と小説のプロットが見事に融合した奇跡的な作品。言及されるジャクソン・ポロックやアルチュール・ランボーが単なる飾りではなく、作品のメッセージに深く食い入り、そのパトス(情熱/受難)を露にする。
もしかすると、この作品において、登場する前衛芸術家は「本格ミステリ」という前衛小説を描いている作者のカウンター・パートであり、それならば前衛という「破壊」と「完成」が同等である芸術の行く末について、「誰かが」悩まなければならないのは、当然であるかもしれない。

そして法月綸太郎が『カット・アウト』で、ピカソらのキュビスムでなくジャクソン・ポロックについて書いたのは、何となく示唆的なものを感じてしまう。それはポロックが作品と自己を区別することなく、
自分ができるかぎり絵画の「近く」にいること、さらに言えば絵画の「なかに」はいりこむことが重要であった。

高階秀爾『20世紀美術』
ということで、そのポロックの理念が、この短編集最後の作品、推理小説家「法月綸太郎」が登場する小説『……GALLONS OF RUBBING ALCOHOL FLOW THROUGH THE STRIP』のみならず、「通常の」法月綸太郎作品にも共鳴しているように思えるからだ。




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最後から二番めの真実
氷川透 /  講談社ノベルス


しかし同時に、読者はこう疑っているはずだ──ゲーデル問題からすれば、作中人物の「氷川透」が唯一可能な真相に行き着く保証はありえない、と。そう、まったくそのとおりである。
それこそが、この物語の作者と主人公が同じ名前を有している理由であり、「後期クイーン問題」への一つの──ささやかなものにすぎないが、ぼくの信じるところでは無意味ではない──抵抗なのだ。

p.297

精緻なロジックの美しさを、確実に与えてくれる素晴らしい作品。エラリー・クイーンの作品、特に『オランダ靴の秘密』が好きな僕にとっては、まさに「これだ!」というミステリに出会った気がする。

ストーリーは、ある女子大で発見された二つの死体──屋上から逆さ吊りにされた女子大生と彼女がいたと思われるセミナー室で発見された警備員の死体──をめぐるパズル・ストーリー。問題の女子大は、堅牢なセキュリティ・システムが張り巡らされており、建物への出入りはヴィデオ・チェック装置が作動、建物内部の全てのドアには閉開記録が残されている。
ふとしたことから事件に巻き込まれた推理作家志望の氷川透は、ミステリ・マニアの学生たちと推理合戦を繰り広げながら、真実を探る……。


探偵(役)と作者が「同名」であること、そして 作中、「後期クイーン問題」を持ち出し、読者への「メッセージ」(挑戦)を差し出す等、明かにクイーンを意識している──要するにフェアであることに徹している。

この「フェアであること」に徹しながら、作者はなんと三人称多視点を採用している。つまり犯人側の視点も含む、主要登場人物全員の視点で、この作品は構成されているのだ。これはかなり困難な作業ではないのだろうか。これと同様の──主要登場人物全員の視点による三人称多視点を採用した──本格推理小説には、例えばアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』があり、それを精緻に分析した若島正の文章に感銘を受けたことがある。

しかし僕が言いたいのは、この多視点採用は、技術的な問題克服というよりも、これこそ、フェアに徹した書き方をめざしたものではないか、ということだ。読者に、ある視点人物に依存すること──それはある種のイデオロジカルな読みになる──を警戒させる、つまり無意識のうちに作者の術中に陥る文の連続性を断ち切り、臆断、ステレオタイプな読みを避ける配慮を敷いている。
しかもその配慮は、そのフェアネスは、ジェンダー/セクシュアリティの閾値にまでにおよぶ(これは僕の独断であるが、もしかすると作者は、エラリー・クイーンがある作品で犯した「失敗」を正しく理解しているのかもしれない)。
一見、アナクロニスティックな「本格推理小説」の体裁を取るが、この作品は、現代的でとても新鮮な「感覚」が横溢している。

そしてゲーデル問題。実は僕はその法月氏の論文を読んでいないのだが、この作品の中で首尾よく丁寧に説明され、それを踏まえた展開を見せているようだ。つまりこの作品は、ゲーデル問題のメタでありイロニーであり禁欲的な実践であるのかもしれない。

だからこそ──僕の書き方はわかりにくいかもしれないが──この作品における「探偵役」氷川透と「名探偵役」祐天寺美帆それぞれが提示した「真実」は、どちらも「真実」であり(ある人物にアリバイを与えた人物の内面を確認すること)、「最後の真実」には推理小説の「悦楽」を、「最後から二番めの真実」には推理小説の美しさ、すなわち「快楽」を汲み取ることができるだろう。


余談だが、祐天寺美帆のキャラクターはとても気に入った。彼女の口調は、お嬢さま言葉というよりも「オネエ言葉」のようで、なんだか親近感がわいた。




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性的人間/セヴンティーン
大江健三郎 /  新潮文庫


まるで10代の性衝動のように大江「初期」作品を読みたくなった。読んだ。イアン・マキューアンよりも遥かに薄気味悪く、ジム・トンプスンがフランク・シナトラ並みのエンターティナーに思えるくらいブチ切れていた。さすがは「純文学」だ。

『性的人間』
「痴漢の形而上学」とでも言いたい作品。前半は、Jと呼ばれる青年を中心としたシュニッツラー流の「輪舞」──つまりアナーキーな性的饗宴だ。これが深奥な情念と陋劣なる罪の意識を絡ませ、文学的な仕掛けを縁取る。

田舎に映画を撮りにくるJの仲間たち……Jの妻、妹、ジャズ・シンガー、詩人、若い俳優、中年のカメラマン。刹那的な快楽と鬱屈した稚態。まるで──個人的にあまり言いたくないが(僕はフロイト嫌なので)──フロイト風肛門期的遊戯。
ここでは彼らの性的な放縦が見物であるが、しかしこのアナーキー状態、実は主人公Jが巧妙に「仕掛けて」いるのがなんとなくわかってくる。その理由は何か。それはJの不逞で複雑な属性による──つまり臆病でありながら、権力志向であり、すぐキレる狂暴な同性愛者(女とも特別な方法でヤル)であるからだ。
そんなJの様相を的確に表現したのが以下の「ドーベルマン」の話だ。
「……あの坂でJが子供のときに、犬をつれたおじいさんがトラックに腹を轢かれて死ぬのを見たんだって。すると飼主のお腹から流れる血を犬が気違いみたいによろこんで飲んだんだって」
「気違いみたいに悲しんで?」とカメラマンが中年男らしい分別において訊ねた。
「気違いみたいによろこんで」
「どんな犬」
「ドーベルマンの仔」
「ああ、ああ」
「わたしはそれが子供のときのJの空想にすぎないかと思うのよ。チェコの童話にやはり犬が血をなめる話があるから、それをJが読んでいたのじゃないかと思うのよ」
「どういうの」
「キリストが死んだとき、犬がその血をなめたから、それで犬も天国へ行けることになった、という話」

p.33

後半は一転、痴漢をテーマにした嵐のような詩《厳粛な綱渡り》を書こうとしている少年とJとの邂逅(さらに一人の老人が加わり「痴漢サークル」を結成する)。
少年は全裸にトレンチコートだけを纏った姿──すなわちマンガに出てくる物の見事に変態の姿──で痴漢行為を行う。何のために……「詩」を書くために。彼らは、いつか「犯罪者」として捕まり、汚辱にまみれ「死」ぬことを夢想し、痴漢を行うのだ。つまりこれも一種、後戻りのできない、危険な、それゆえ悲愴なまでに熱情的な「日常生活の冒険」だ。

『セヴンティーン』
今日はおれの誕生日だった。おれは十七歳になった、セヴンティーンだ。家族のものは父も母も皆な、おれの誕生日に気づかないか、気がつかないふりをしていた。それでおれも黙っていた。夕暮に、自衛隊の病院で看護婦をしている姉が帰ってきて、風呂場で石鹸を体じゅうにぬりたくっているおれに、《十七歳ね、自分の肉をつかんで見たくない?》といいにきた。姉は強度の近眼で、眼鏡をかけている、それを恥じて一生結婚しないつもりで自衛隊の病院に入ったのだ。そして、ますます目が悪くなるのもかまわないで、やけになったみたいに本ばかり読んでいる。

p.122
と、始まる謹厳なるオナニー小説。(政治)思想の高まりがそのまま性的な高まりになりついに爆発に至る。リズミカルな文体は無論マス掻き運動そのものだ。言語が、弾丸のように弾け飛んでいく。
有名なオナニーシーンはこんなふう。
おれはいつでも勃起しているみたいだ。勃起は好きだ、体じゅうに力が涌いてくるような気持ちだから好きなのだ。それに勃起した性器を見るのも好きだ。(中略)おれは大人の性器の、包皮が剥けて丸裸になった赤黒いやつが嫌いだ。そして、子供の性器の青くさい植物みたいなやつも嫌いだ。剥けば剥くことのできる包皮が、勃起すれば薔薇色の亀頭をゆるやかなセーターのようにくるんでいて、それをつかって、熱にとけた恥垢を潤滑油にして自涜できるような状態の性器がおれの好きな性器で、おれ自身の性器だ。(中略)おれは自涜の名手になっている、射精する瞬間に袋の首をくくるように包皮のさきをつまんで、包皮の袋に精液をためる技術までおれは発明したのだ。

p.123
……と、これが延々と、改行のない詰まった文体で続いていき、次第に加速していき、そして発射
……海水浴する裸の大群集の叫喚のなかで不意におちいる孤独で静かな幸福な眩暈の深遠、ああ、ああ、おお、ああ、おれは眼をつむり、握りしめた熱く硬い性器の一瞬のこわばりとそのなかを勢いよく噴出して行く精液、おれの精液の運動をおれの掌いっぱいに感じた。

p.124
こんなオナニー少年が、「《右》のサクラ」のバイトから始まり、正式に右翼団体に所属するようになる。そこで彼は新たな「オナニーのネタ」に有頂天となる。より即物的で破壊的な「自涜」に耽る。

……あいつらは売国奴だ、恥知らずでおべっかつかいで二枚舌の無責任で、人殺しで詐欺師で間男野郎で、ヘドだ。おれは誓っていいが、あいつらを殺してやる、虐殺してやる、女房娘を強姦してやる、息子を豚に喰わせてやる。それが正義なのだ! それがおれの義務なのだ! おれはみな殺しの神意を背負って生まれたのだ! あいつらを地獄におとすぞ! おれたちが生きるためにはあいつらを火焙りにするほかないのだ!……

p.167
で、このセヴンティーンが「オナニー」のエクスタシーを感じているとき、さる高貴な方(度胸がないので、僕は書けませんが)が現前する。




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空の怪物アグイー
大江健三郎 /  新潮文庫


アグイーねえ。それはわたしたちの死んだ赤んぼうの幽霊でしょう? なぜアグイーというのかといえば、その赤んぼうは生まれてから死ぬまでに、いちどだけアグイーといったからなのよ。

p.184

18歳の「ぼく」の最初のアルバイトは、28歳の若手作曲家の「付き添い人」であった。雇用主である作曲家Dは、ある出来事によって、神経衰弱に陥り、「アグイー」という空を浮遊している怪物──カンガルーぐらいの大きさの白い木綿の肌着をつけた肥りすぎの赤んぼう──に取り付かれ、その「怪物」と奇妙な交感を行っていた。

「ぼく」は、精神的に不安的なDと一緒に街じゅうを歩き、そしてまた、Dの離婚した元妻や愛人といった、かつてDと交流のあった人たちと会うようDに懇願される。
……すると「ぼく」も「アグイー」の存在を微かに感じるようになってくる……。
「きみはいままでに何かとくに重要なものをなくしたかね?」とぼくの雇用主はぼくと会ってはじめて固執した。(……)
「猫をなくしました」といってみた。
(中略)
「それじゃきみの空には、一匹の猫が浮んでいるわけだ」とぼくに雇用主は真面目にいった。

p.184
ひさしぶりに読み返してみたが、さすがに面白かった。もちろん10代の頃に感じた衝撃とは比べようもないが(一種のトラウマになっているな)、それでも、息苦しいまでの切迫感がじわじわと伝わってくる。なんだか最初に読んだときの「体験」が「喚起」されてくるようだ。

D青年が精神的におかしくなったのは、奇形児として生まれてきた自分の子供を「エゴイズムによって」殺してしまったからだ。木綿の肌着をつけた「怪物」は、Dの子供、Dが殺してしまった赤ん坊の幻影に他ならない(この障害を持った子供と親との対峙は、大江作品によく出てくるモチーフで、長編『個人的な体験』や『新しい人よ眼ざめよ』他でも、別の変奏、違った音調で奏でられ、追求される)。
わたしたちの赤んぼうは生まれたとき、頭がふたつある人間にみえるほどの大きい瘤が後頭部についていたのよ。それを医者が脳ヘルニアだと誤診したわけ。それを聞いて、Dは自分とわたしとを恐ろしい災厄からまもるつもりで、その医者と相談して、赤んぼうを殺してしまったのよ。おそらくどんなに泣き喚いてもミルクをあたえるかわりに砂糖水だけをやっていたのよ。自分たちが植物みたいな機能しかない(それはその医者がそう予言したのよ)赤んぼうをひきうけなければならないのはいやだ、ということで赤んぼうを死なせたんだから、それはなによりもひどいエゴイズムね。

p.184

皮肉なことに、Dは今では、「怪物アグイー」を犬の群れや警官から守っている。「カンガルー」のメタファーは言うまでもなく、「子供」を「自分の腹」で守る「親」の役目を象徴しているのだろう。Dが「ぼく」を引き連れ、街中を歩き回るのは、生まれ出ずることのなかった赤ん坊=アグイーに人生を与えているのだ。代わりにD自身は、すでにその「存在」を放棄し、この「時間」に生きることを拒否している。

Dは現実からの逃避/恐怖からの逃避を計り、あちら側/狂気の世界の住人になってしまった。そのため「ぼく」は、Dのいるあちらの世界とこちらの世界を行き来する──それが「付き添い人」たる「ぼく」の仕事だ。

そして理解した。「ぼく」とDは同じ憂鬱にとりつかれている人間同士で、「消極的な親和力の輪」にかこまれているのだと。

「ぼく」はそのことを「畏怖」する。ミイラとりがミイラになるように、狂人の見張り番が狂人になってしまうのではないかと。「時間」のなかの世界で見喪ったものの群の浮遊する光景を自分も見てしまうのではないかと。自分の「負の正体(負い目)」を見てしまうのではないかと。

そしてその「ぼく」の抱く「感覚」は、「小説」(お話)を突き抜け、「読者」にも「畏怖」させる。そこが「(純)文学」的カタルシスを感じる瞬間だ。

……そんなことを書きながら、ハイデガーに関する文章が頭を過ったので併せて書いておきたい。
ハイデガーは<不安>を逃れることによってではなく、足下に開くその深淵のうちにこそ治癒を見出そうとする。なぜなら必然で逃れがたいこの<不安>は、「存在忘却」の世界に空虚を穿つものとして、それ自体すでに「存在との関係」を告知するものなのだから。<不安>が、存在の根拠が欠けているという知らせだとするなら、それは忘却された「存在」それ自体の知らせである。だからこの<不安>の内にこそ充実への道がある。

p.240

みずからの<不安>を突き破ってあらわれるその出来過ぎの異形の人間を前に、露出する<不気味なもの>を語るのではなく<脱存=恍惚>において同調するのである。

p.251

西谷修『不死のワンダーランド』(青土社)より

それと蛇足ながら、「純文学」は、「エンターテイメント」と同様、あるいはそれ以上に、「伏線」が重要になってくると思う(とりあえず「純文学」と「エンターテイメント」を別ジャンルとしているのを強調しておく。そしてカッコ付きの、すなわち「文学」は、他のアヴァンギャルド芸術同様、一度はすでに「解体」作業済み、ということも前提だ)。推理小説のように「意外な犯人/動機/他」を提示するための「伏線」以上に、「主題」の強度を支え、「主題」を組み立てる「伏線」が必要となるからだ。しかもその(文学の)「主題」は「明かにされる犯人/謎」のように、「提示されて、はい、おしまい」というものでは決してない。

中井英夫は倉橋由美子の『夢の中の街』の解説でこう言っている。「……その衝動がどれほど激しかろうとも、小説は川でもプールでもない。一泳ぎすれば気の済むたぐいの問題ではなく、それはあまりにもはろばろしい海で、しかも作家は泳ぐために入るのではない。潜むため、むしろみずから息を塞ぐために入水する。土左衛門の生まれる所以である」

そもそも「トリック」が見透かされてしまう「推理小説」と、「主題」が見透かされてしまう「純文学」のどちらが出来が悪いのだろうか。


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フレームアウト
生垣真太郎 /  講談社ノベルス


第27回メフィスト賞受賞……なんてのはどうでもよくて、とにかく

面白かった!  こういうの大好きなんだよ、俺は!!!

時は1979年、場所はニューヨーク。映画編集者デイヴィッドは、ふとしたことから「スナッフ」(実際の殺人現場を撮った映像)らしきフィルムを発見する。映っていたのは、かつてホラー映画を中心に活躍した女優アンジェリカ・チェンバースの死の場面。
どうしたわけか、彼は、そのフィルムに奇妙な既視感を抱いてしまう。そのフィルムが放つ「完璧な美」に魅了されてしまう。秘められた狂気に囚われてしまう。
デイヴィッドは、フィルムに映っている「アンジェリカ」の行方を追う。それがデンジャラスな「フレーム」の入口/出口だった……。
フレーム。フレーム。フレーム。枠の連なり。視界の区切り。世界の始まり。世界の終わり。

p.236
周到な詭計。技巧的、複雑精緻、重層的なプロセス。それがラストに向かって一点に収斂していくときの鮮やかさと言ったら、たまらない。これまで、構築された/覗いていた、「この」世界(「フレーム」)の暗転、崩壊感が、たまらない。自分がいかに偽物の「フレーム」に惑わされていたのかと思い知らされる。まるでプラトンの洞窟にいる囚人の気分だ。

他のいくつかの有名作品を出して、この素晴らしい作品と比較したりもしたいのだけど、どうしてもネタバレに繋がってしまいそうなのでやめておく(しかも重要なキーである<テイク1><テイク2>という「概念」と<マッチ・カット>という「技術」は、個人的にグレン・グールドの話をしたくなるし。例えばグールドの言葉「技法を超越した王国」「私たちが”自我”というラベルを貼ったあの何物か」「この作品が変奏曲として根本的に志向しているのは、有機的な組合せではなく、センチメントの共有だ」あたりを引きながら)。
ただ言っておきたいのは、この『フレームアウト』がそれら「有名作」と十分に張り合うことのできる傑作であるということだ。

代わりに別のことで。
「いや、実際真面目な話だ。この空間は長方形だろ。その縦と横の長さの比率がね、フィルムのスタンダード・サイズの比率と一緒なんだ。一対一・三三だよ。まさにどんぴしゃりだった」
ヴィスタ・サイズやシネマスコープなどの、横長なワイド・スクリーンに席巻されている映画の世界だが、スタンダード・サイズ、つまり一般にアカデミー比率と呼ばれるサイズこそが、真の映画のフレームなのだ。
一対一・三三。映画を愛するわたし達にとっての黄金比率。
あの映画のフレーム。

p.202
この作品は主人公が映画編集者ということで、映画の話題が豊富に出てきて、それがストーリーと見事にパラフレーズしている(いや、「主人公」は「登場人物」ではなくて、「フレームそのもの」かもしれないし、議論されている(対象としている)「スナッフ」は実は「フレームアウト」した<スナッフ>、つまりメタレヴェルの<スナッフ(「小説」で「本当に」誰か殺されたのか?)>かもしれないし)。

そして、ケネス・アンガーやジョナス・メカス、ブライアン・デパルマ、ディヴァインにジョン・ウォータース、ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』……等、魅力的な固有名詞が溢れており、シネフィル魂を大いにくすぐる。
だからあまり「ミステリー小説」に関心がない人でも、映画に関心があったらぜひ手に取って読んで欲しいと思う。




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獣の戯れ
三島由紀夫 /  新潮文庫


あざといくらい上手い。プロローグとエピローグが絶妙で、その美文の奔流に体中を舐めまわされるような(文学的)「快感」を感じてしまうが、牽強附会を承知で言えば、これはまるでルース・レンデルのサスペンス小説──『引き攣る肉』の世界だ。

主要登場人物は三人。幸二、逸平、優子。無論、三角関係の緊張を狙ったものであるが、レンデルと同様、これで破局に至らないわけはない、というある種悲劇の予定調和が保証されている「異常な」──だから「正常な」──シチュエーションでドラマを展開させる。

「妻」優子を蔑ろにしている高等遊民ばりの「中年男性」逸平を、優子に好意を抱いているらしき「青年」幸二がスパナで乱打し、不具者にさせる。しかし数年後、刑務所から出所した幸二は、再び優子、逸平らと「共同生活」を行う。逸平は脳挫傷のため、失語症に陥り、まるで無垢な「子供」のようでしかない。一方、刑務所に入り、その苛酷さに耐え「悔悟した」幸二は、「男」の色香が漂っている──そんな風に感じる/感じてしまう。

村松剛は『三島由紀夫の世界』で小西甚一が指摘している能(幽霊能)との関係を引き、『獣の戯れ』を精妙に分析しているが、僕にはこれって──さらに牽強附会が許されるなら──なんだかレンデル『引き攣る肉』をペドロ・アルモドバルが映画化した『ライブ・フレッシュ』の濃密な世界を思わせる。女性を交えた三角関係なのだが、やけに肉感的なのは男たちの方だというやつね。
風呂場からあふれ出てくる湯気が、幸二の裸体にかすかにまとわった。自分の胸の下辺の筋肉、そこにわだかまるわずかな胸毛、自分の扁平な腹、その下に入り乱れた色濃い毛に包まれて垂れている恥。萎えしぼんでいる恥。それは澱んだ小川の雑多な漂流物にからまった鼠の死骸のようだった。幸二は思った。太陽光線をレンズで収斂して一点の光の束を得るように、俺は世界中の恥辱を収斂して、このうす汚れた恥辱の束を得たのだと。

p.15
優子はたしかにファム・ファタル的なんだけど、それがなんだか反転して「聖化」されてしまった感じ──まるでマグダラのマリアを経由して、いっそのこと聖母マリアになってしまったような感じ。だから焦点は、幸二と逸平の関係、犯罪者と被害者、殺す者と殺される者、男と男の関係に移り、両者が対峙した場面で「死にたい」と漏らした逸平に慈悲を持って「応えた」幸二の愛を、クローズアップしたい。




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