BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


交歓
倉橋由美子 /  新潮文庫


「いつだったか、内藤さんもおっしゃっていましたね。近頃の文学青年、文学少女は文学的な育ちが悪い、いいものを余り食べていないらしい、贅沢を知らない、だから自分という材料を素直に出しさえすれば大人は喜んでくれる、という子供のレベルで書いている、お手本なしに平気で書いている、こういう文学的養分とも伝統の土壌とも関係のない作文は文学以前です、とか」
(中略)
「父がよく言っていたように、『要するに才能』ですね。父は努力という胡散臭い言葉を避けて使いませんでした。凡庸指向の人を育ててみる努力も無駄、本人に努力を強いるのもお気の毒、というわけで、結局のところ、今の時代では一級の才能のある人は、文学を消費する側にはいても、作る側には回ってこないんでしょう。それは山田も繰り返し言っていました。大学の文学部では、せいぜい消費者教育ができればいい、生産者になれる人はめったにいない、意欲があっても能力がない……今の世の中で、特別の能力に恵まれている人はそれを別の方面に使う。

p.206-207

とかく外専傾向にある僕は、小説においてもそうなのであるが、三島由紀夫、「初期」大江健三郎、そして倉橋由美子は例外的にとても気に入っている、別格の作家だ。

『交歓』はいつもの倉橋ワールド全開の絢爛豪華たる「文学」。たまたま「文芸誌」に載った程度の小説とは風格がまるで違う、まさしく紅蓮の花の趣き。とにかく濃密な作品で、それは目次を開いただけで「読者」のアンテナを刺激し、どうだとばかりに挑発する。すなわち全十四章からなる各章は、第一章が「満山秋色」、第二章が「寒日閉居」、第三章「桂女交歓」……第一三章「清夢秋月」、第一四章「霜樹鏡天」と、サブタイトルが漢語で整然と振られており、一瞥して、完璧という言葉しか浮かばない。徹頭徹尾完璧というトートロジーも、倉橋文学を前にしては、意味を持つはずだ。

この『交歓』はお馴染みの「桂子さん」を中心とした長い時間のスパンを扱った連作の一作で──無論、三島の『豊饒の海』を連想させる──ここでは夫君である山田氏の逝去後、桂子さんは様々な人物たちと豪奢な「交歓」を繰り広げる。それだけといえばそれだけであるのだが、それだけのことを、これほど面白く刺激的に描く手腕こそが頭抜けて凄いのだ。それは「それだけのことに」「それだけではない」作者の闘志が漲っているからだ。その闘志とは、反キリスト。小倉千加子による解説には倉橋の態度がこう記されている。
「我が仇敵たる『神』とは、ユダヤ教、キリスト教、マルクス教の中に棲みついている『神』である」と言い、ただし、人が神を信じるのは認めるが、その種の人間が人に「神」を強いる無礼は許せない。「神」の問題をいつかは小説に書いて考えたい、と宣言している。
血は一滴も流れないのに、ここでは大戦争=宗教戦争が勃発している。一方、やたらと血が流されるのに、ハーレクインしているオーヴァーアクトな小説がある。それらは倉橋の「文学」とは比較にならない「軟弱」なものだと断言したい。

それにしても、最近本屋で倉橋の本をチェックしたのだが、『大人のための残酷童話』がやたらとあるわりには、代表作である『ヴァージニア』や『城の中の城』、倉橋ワールド入門に最適だと思う、美青年の首を飼育する近未来小説『ポポイ』あたりが全然ないのは、いったいどういうわけだ?




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1809 ナポレオン暗殺
佐藤亜紀 /  文春文庫


A.J.P.テイラーの『ハプスブルク帝国』(筑摩書房)は1809年から1918年までのウィーンを首都とした「帝国」を論じている。1918年は言うまでもなくオーストリア=ハンガリー帝国の終焉。では1809年は……メッテルニヒが外務大臣になり熾烈極まりない外交が開始された、オーストリア帝国にとって重要な年である。そんな、国政政治の修羅場を背景に繰り広げられるオーパー/オペラ/オペラートが『1809』である。

場所はナポレオン占領下のウィーン。主人公はフランス軍工兵隊大尉アントワーヌ・パスキ。彼は市職員ジードラーの殺害に始まる、ウストリツキ公爵が張り巡らした一連の陰謀/ゲームに巻き込まれて行く。その頂点がナポレオン暗殺である。

暗殺が成就されるのか、否か、というのがサスペンスの縦糸ならば、それに絡みつく数々の人間関係の横糸がこの小説の魅力であるといえるかもしれない。それが、小説で展開されるもう一つの修羅場、ウィーン風のゲームだ。

正直に書くと、最初はこの小説ってちょっとマンガみたいだなと思っていたが、なかなかどうして、このディテールの妙、精緻にそしてしたたかに「コンポジション」された「オペレーション」には、マンガのようなメタスタージョ型のオペラどころか、『ドン・ジョバンニ』に代表される真にモーツァルトの個性が発揮されたオペラを鑑賞したような感興に酩酊させられた。
主人公のパスキ──なるほど、工兵隊とはこういう風にオペレーションする/させるのか──も典型的なドン・ファン/ドン・ジュアンとして登場しながらも、いつのまにか「ドン・ジョバンニ」に変遷している。もちろん色男のドン・ファンぶりは、彼に惚れたドープレ大佐ともども個人的に楽しませていただいたことも正直に書いておこう。




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ポポイ
倉橋由美子 /  新潮文庫


例エバ、神、私、宇宙、意識、存在、生命、真実、自由、永遠、救イ、平和、超越、死、再生、メッセージ、人間、世界、善悪、正邪、美醜……ソレニ比喩的表現ノタメノイクツカノ具体的ナモノヲ指ス言葉……ソレダケアレバドンナ神秘的思想デモ語レル。コレラノ言葉ノ任意ノ組ミ合ワセハ、本来情報トシテハ無ニ等シイ綿飴ノヨウナモノダトシテモ、人ハ自分ノ体験ニ照ラシテ、時ニハソコカラ無限ニ豊富ナ情報ヲ読ミトルコトモアルノダ。ポポイガ思索ニ耽ッテイルト見エタノハ、コノ組ミ合ワセヲ手当タリ次第ニ作リ、ソノ中デ意味ノアリソウナモノヲ拾イ出ス作業ニ熱中シテイタトイウコトダロウ。

p.112-113

「首」を「飼育」するとは、水栽培の球根のイメージ──まるでヒアシンスの球根のように首から無数の人工血管が伸びている。近未来の最先端医療のよって、テロリストの少年の首は胴体から切り離されていても生き長らえることになった。 引退した高名な政治家(桂子さんのパートナー)の孫娘、舞は、祖父に声明文を読み上げ切腹し介錯された美少年の「首」をポポイと名付け、「飼う」ことにした。

……という反悲劇。この上もなく優雅であるが感傷のカケラもない。130ページちょっとの作品でストーリーもまあシンプルであるが、隅々まで作者の巧緻が行き渡り、その知的かつ刺激的な文章にビリビリと反応してしまう。華麗な倉橋ワールドに眩惑させられる。さすがだ(例えば「ヒアシンス」という言葉一つをとってもギリシャ神話の美少年をイメージされる。そういったイメージの連鎖が、見かけ=ページ数以上に濃密な読後感を与えてくれる)。

今回久しぶりに再読してみたのだが、この作品ってある意味、卓抜した三島由紀夫論にもなっているんじゃないかと思ったりした。19歳の少年と30代の青年が政治的文書を読み上げ切腹自殺を図るというシチュエーションは言うまでもないが、言及される三島(文学)への指摘もこの人ならではの鋭さで興味深い(こういうところに「器の差」が如実に表れる。他にもミシェル・フーコーやウィトゲンシュタインも言及される)。例えば、
三島は壮麗で空虚な大伽藍を建てたけれど、その中に祠るべき御神体がなかった。それは自分でしかなかった。それで三島は自らを殺害してそこに祠った。というのは女子学生風の説で、本当はあの大伽藍の中には何もないのだ。三島の遺体は御神体にはならず、大伽藍の外に放置されている。それは解釈できない。消化吸収できない。
(中略)
切腹、介錯によって死ぬということ自体が目的だったと想定してみなければすべては理解できないのかもしれない。それとも、あの死に方は他の目的のための大掛かりなトリックだったのだろうか。晩年の異常な思想はこのトリックを効果的に見せるための口上にすぎなかったのだろうか。

p.48(強調は引用者による)

他にも三島を「文章のヴィルトゥオーゾ」とある登場人物に言わせたり、主人公舞はネイサンの伝記を読んだりしている。 ……とすれば、割腹自殺を目論んだ「ポポイ」の首を「生き長らえさせ」、ポポイの「考え」(なぜ、自殺したのか、etc)を探そうとする舞の行動にも注目される。舞はクリヴェルリの「マグダラのマリア」に似ているという設定だ。
何事にも「ニュートラル」な舞が、一つの「べき」に到達したとき、「感傷」とは無縁の文学的「強度」をいやがうえにも感じさせる。




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鏡の中は日曜日
殊能将之 /  講談社ノベルス


面白かった。心地よく騙された。おかげでとても良い気分だ。本格ミステリはこうじゃなくっちゃね。これで今夜はぐっすりと眠れる。

細心に統御された作品である。 フォークナー『響きと怒り』を思わせるアルツハイマー病患者のモノローグ──既にして事件はここに凝縮されている。この患者の意識の流れを、まずは過去と現在という二つの「テイク」に分解し、そして再構築していく(さらに別の次元のテイク1、テイク2、テイク3……が存在する)。
むろんこのプロセスは平坦な一本道ではない。ゆらぎやずれが複数のテイクを交錯し、相互に干渉し衝突し模倣し、作者が仕掛けた──贈与した──至高の迷宮へと読者を誘う。

もっともこれらのテイクが向かう先は両義的である。すなわち生と死。奇妙に捻れたテクスト──ときに性的であり詩的であるテクストは、戯れに<作者の死>を演出し、墓場からの手紙(手記)で死を不動のものとする。その一方でこれほど真面目にあらゆる生を肯定してみせる作品もあまりないだろう。
迷宮の主(作者)は、細心の配慮で持って、「本格推理小説」という虚の文学形式を織り上げ、しかもイデュメアの夜のごとく美しく感動的に収斂させる。

ただ、ちょっとしたことなのだが、わからないことがあった。それは
池袋と高田馬場は、山手線の駅でいうと隣り合わせに位置しており……

p.211
というところ。 これだけ精妙に構築された本格推理小説である。池袋と高田馬場の「間」にある目白の存在が無いのがすごく気になる。目白とくれば目黒、とくれば『虚無への供物』とか? あるいは「目白=白目」つまりガラス体、水晶体が題名の「鏡」と関係があるとか。そうすると「日曜日」という字面も「曜」を挟んで左右対象というのが気になる……気になって夜も眠れない。



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