DISC REVIEW

ジェルジー・リゲティ / Mechanical Music
Gyrgy Ligeti (b1923)

ピエール・シャルリ(パレルオルガン)、フランソワーズ・テリュー(メトロノーム)、ユルゲン・ホッカー(プレイヤー・ピアノ)

Sony Classical


import java.applet.*;


最高にメカニックで音楽的なプレイヤー登場

public class PreMotionEvents
{

未来の(といっても数年先の)優れた演奏家=ピアニストは、リゲティの『練習曲』を JAVA(サン・マイクロシステムズが開発したオブジェクト指向言語) C# (マイクロソフト社が開発した新オブジェクト指向言語)のどちらを用いてプログラミングしているだろう。
どちらの言語を使用するかによって「ピアニスト」の好みやタイプがわかり、(プログラムの)ソースを見れば、彼がどんなアルゴリズム(構成)を考え、どんなライブラリ(流派)を継承し、どんなバグ(欠点)を有しているかもわかるかもしれない。
}
/*
そんな不埒なことを考えてしまうのは、よく話題にあがる<音楽性>というものがいったいどういうものなのか知りたいときに、<メカニック VS 音楽性>という二項対立を設定し、<音楽性>を優位に示そうとする安易さに吐き気をもよおすからだ。
いったいメカニックの難点から解放されたら、「誰」が「ピアニスト」なのだろうか。

この<メカニック VS 音楽性>議論がうんざりさせられるのは、最初から結論が見えているからだし(例えばオセロゲームで、「筋道の通った」やり方をした場合、必ず、先手が勝つ原理に近い)、またこの話題がやりきれないのは、<音楽性>の優位を唱える者は<メカニック>に対する嫉妬や嫌悪を露骨に(恨みがましく)表明するか、もしくは<メカニック>に乏しい者に何かしらの「救済措置」を施すような尊大な態度を取ることだ。
どちらの態度も見ていて(読んでいて)気持ちの良いものではない。それは「筋道の通った」議論をした場合<音楽性>に分があるのは当然で、何を今さら言っているのだろうかとも思うが、よくよく読んでみると、議論の主体者たちの目的は、対象となるあるピアニストを貶めるだけでなく、自分たちが絶対の判断能力を持つ選ばれた人間であることを示したい欲求につきる。
これは人が年を取れば取るほど増す特権意識と、年を取れば取るほど目下の者に示したくなる虚栄心の高まりに近いと思う。つまり老醜である。

*/
synchronized void Etudes(PlayerPiano)
{

プレイヤー・ピアノのために作品
この曲はリゲティがコンロン・ナンカロウの作品に刺激を受け作曲した<ピアノのための練習曲>を、プレイヤー・ピアノのための作品に編曲したものである。
『魔法使いの弟子』に聴かれる痙攣(ライブ・フレッシュ)のような音形、鍵盤をスピーディに翔け抜ける『眩暈』、気味が悪いくらい不安定なリズムを刻む『不安的なままに』、まさに「ヴィルトゥオーゾ」作品で爽快感すら漂う『悪魔の階段』、全鍵盤を使って「激情」が迸る『無限柱』、息のあった2台ピアノ作品『悲しい鳩』
どの曲も聴いていて面白く、目の覚めるような刺激と手に汗握る興奮を与えてくれる。また、この演奏をしている「ピアニスト」のまれにみる高度なテクニックと豊かな<音楽性>に感激した。
}
synchronized void MusicaRicercata(BarrelOrgan)
{

パレル・オルガンのための音楽
解説によると、パレル・オルガンはペーパー・ロールを使用したレトロな機械らしい。素朴ながらとても印象的な音を奏で、どことなく懐かしいような気分にさせてくれる。
『ハンガリアン・ロック』『カプリッチョ』などのアップテンポの曲では自然と体を動いてくる。軽快でノリがいい。そこには、音楽を聴く快感がある。
また『ムジカ・リチェルカータ』はまるで80年代テレビゲームの音楽を思わせるキュンキュンと小賢しく動き回るチープすれすれのキッチュさが楽しい。
}
synchronized void PoemSymphony(Metronome,100)
{

100台のメトロノームのための「ポエム・サンフォニック」
この怪作、問題作はどれほど聴衆の支持を獲得できるのことを「期待」して作曲されたのだろうか。いや聴衆だけではない。実際どれほど「プレイヤー」の支持を得られるのだろうか。この曲の一ファンとして(嘘)心配になる。

リゲティの他の音楽、例えばピアノのための『練習曲』などは、「挑戦」する「プレイヤー」の自尊心を小気味良く狡猾にくすぐってくれる作品なので、「プレイヤー」の支持は高いだろう(聴衆は、そのあまりに痛々しい演奏に失笑するか、ハラハラドキドキのサスペンスを味わうかの二つに一つであるが)。
しかしこの曲は100台のメトロノームが延々と鳴りつづけるだけの本当にシンプルな「音楽」である。本当に<音楽性>だけで勝負する作品だ。
だから苦労して<ピアノのための練習曲>を演奏したのに、「技術屋」と蔑まされたピアニストは名誉挽回のために演奏してみるとよいだろう。

1962年に作曲され翌年オランダで10人の「プレイヤー」により初演された(ジョン・ケージも招待されたそうだ)。
リゲティはこの初演に際し、ウォルター・マースという人物の不屈さと愛すべき天真爛漫さが必要だったと述べている。
僕だったらピアノのための『練習曲』で恥をかくより、「ポエム・サンフォニック」の天真爛漫な演奏=冗談を取る。
}
INDEX /  TOP PAGE