DISC REVIEW

アルヴォ・ペルト / アリーナ
Arvo Pärt (b1935) / ALINA

ウラディミール・スピヴァコフ(ヴァイオリン)、セルゲイ・ベズロードヌイ(ピアノ)、ディートマール・シュヴァルク(チェロ)、アレクサンダー・モルター(ピアノ)

ECM produced by Manfred Eicher


私の音楽は、あらゆる色を含む白色光に喩えることができよう。プリズムのみが、その光を分光し、多彩な色を現出させることができる。
__アルヴォ・ペルト

most beautifull sound next to silence (musée)
マンフレート・アイヒャーという人物の美意識に貫かれたレーベル ECM 。もともとジャズ系の音楽をリリースしていたレーベルだけあって、そのレパートリーは他のクラシック系メジャーレーベルと比べ一味も二味も違う。
雰囲気が違う、そういう言い方をしたくなるレーベルだ。

サウンドは例外なく美しく、カヴァー・ジャケットはそれに劣らず美しい。つまり「音楽そのもの」とCD(商品)の間には差別的な深い溝はない。
この商品=CDは、コンサートにおける素晴らしい「音楽体験」の代用ではなく、それとは別な、購買者に美しい妙なる時(夢=無意識)を”今”授けてくれる一種の(文字通りの、そして見たとおりの)プリズムに他ならない。
音楽はその本質(エッセンス)──そんなものがあればだが──だけを、まるでブイヨン(コンソメ)を作るように抽出しそれを獲得するのではなく、空間の中で、他のノイズとともに、自然と現前(プレゼンス)する音を慈しむように感知し、何の予備知識なしにその音の存在(イグジステンス)と交感=戯れてよいと思う。
そんな自由な聴き方があってもよいはずだ。
何も作曲者を神に見立て、演奏者が聖職者のマネをして、まるで神と聴衆の間に立つように、神=作曲家の大言壮言を忠実に、畏怖の念を抱き、ビクビクしながら、解釈/翻訳を述べなくてもいいだろう。それは無粋なだけだし、何しろ見苦しい。
さらに言えば会ったことも、電話で話したことも、メールでやり取りしたこともない作曲家のいったい何がわかるというのだろう。(もっともカルト/チープな自称プロの○○は逝ってもよいが)

ECM のプロデュースする音楽=製品にはそういった教条的な作曲家や演奏家が巧妙に避けられているように思える。購買者も自由で自発的な楽しみを期待しているはずだ。
このエストニアの作曲家ペルトの音楽は、何か主義主張を声高に叫ぶタイプの音楽ではない。携わっている演奏家も専門教育の「成果」を誇らしげに自慢するタイプではない。
CDから聞こえてくる音楽は、静謐な時間の中にあって、ただ静かに感動を呼び起こす。
1. 鏡の中の鏡(ヴァイオリンとピアノによる)
2. アリーナのために
3. 鏡の中の鏡(チェロとピアノによる)
4. アリーナのために
5. 鏡の中の鏡(ヴァイオリンとピアノによる)

『鏡の中の鏡』は、シンプルで澄んだ響きのするピアノの和音上に(これ自体もメロディようだ)、ヴィブラートによって微かに震える線──息の長い弦のフレーズ──が接近してくる。このデュエットは暖かく甘い気分に満ち、幾分瞑想的でありながら、二つの楽器の戯れは微かな微笑みを誘う。
それに対し『アリーナのために』はどこか儚く脆い、触ったら壊れそうな非常に繊細な音楽である。ネジが切れ掛かっているオルゴールのような響き──ピアノは、そんな儚く脆く、そして幽かな音を奏でる。
いつ、音が絶ち消えるかもしれない。いつかは、機械/オルゴールが壊れるかもしれない・・・。いやがうえにも感傷的な気分の淵に立たされる。

厳密に言えば、このCDにはこの2曲しかない。各曲はそれぞれ約10分。しかし意図的に配置されたであろうこの順番でこれらの曲を聴くと、一続きの長い音楽にも取れる。
またこの『アリーナのために』を『鏡の中の鏡』の中に配置することによって(意味深なタイトルにより、意図することは明白だろう)、楽曲は相互にリンクする。張り詰めた時間の後に、再帰される『鏡の中の鏡』の暖かい大らかなメロディに安堵する。
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