KARLHEINZ STOCKHAOUSEN
カールハインツ・シュトックハウゼン (b1928)
K O N T A K T E
織られた言葉 / Parole Tissées (1965)
アンリ・ミショーによる3つの詩 / Tois Poèmes d'Henri Michaux (1963)
Plelude and Fugue for 13 solo strings(1972)
Postlude No.1(1958)


ルトスワフスキ指揮、LOUIS DEVOS(テノール)、Polish Radio National Orchestra、 Polish Chamber Orchestra

EMI MATRIX 22

アンチ・アンチ・アヴァンギャルド

最近、とあるデブのジャップ作曲家がうざい。何しろルックスが最悪、非常に醜悪なのだ。成る程、自分も小中学生の頃、音楽の教科書に出てくるヘンテコな顔をした作曲家、例えばドボルザークやムソルグスキーといったお世辞にもハンサムとは言えない人物を見て笑い転げ、その顔に落書きなどをしたものだ。しかし教科書に載っているような作曲家は、それなりに功なり労を成し遂げたグレートな人たちに違いない。なんだかんだ言っても愛着があるし少なからず尊敬もしている。
僕だってネオ・ロマンティックな音楽は嫌いではない。嫌いなのは、その薄汚いマーケット戦略と卑屈なプロパガンダである。 そのジャップの音楽は、どれくらい凝視に耐えうるものなのだろうか、彼のルックス並み? まさかそんなことはないだろう。
ノーノのように政治的信条をカッコ良く打ち立て、そして死んだ作曲家ではないし、ブーレーズのように最も大きなレーベルでしかも最恵国待遇を受けている指揮者でもない。

松平頼暁の『現代音楽のパサージュ』(青土社)によるとシュトックハウゼンは音楽を構成するパラメーターとして「音高」「音価」「強弱」「音色」「音の位置」を設定している。



Parole Tissées はルトスワフスキの作品の中でも非常に耽美的あるいは官能的な響きがする。ピーター・ピアーズによる委嘱、オールボロ音楽祭での初演(もちろんブリテンも一緒だろう)という経緯も考慮してよいだろう。

シュールレアリストの詩人 J.F.Chabrun の詩が織りこまれたこの<室内オーケストラとテノールのためのソング・サイクル>は、4つの”タペストリー”(Tapisserie - Tapestry) からなり、緻密で、滑らかでもありザラついてもいる、ちょうどセラミックのようなキメ(肌理)を感じさせる肌触りの音楽である。
特に個々の楽器が(ちょっとしたズレによって)ぶつかり合うようなデリケートなリズム処理には、音色のすばやい交代模様とあいまって、実に不可思議な音響空間が構築される

そこで待ち受けている快感は、微細な力のせめぎあうの中で、身体に点在する性感帯をくすぐられるような陶酔感に似ている。
しかも分割された不規則なリズム、意表を突くアタック、気まぐれな音色の変化は、まるで直情的にクライマックスへ進もうとする意思を萎えさせる=撹乱するかのようだ。
一方、第4タペストリーではそれとは反対に、できるだけクライマックスを長引かせようとするような感触 - なだらかな愛撫を要請しているのかのように聴こえる。

この音楽に織りこまれたサブ・テクストはいったいなんだろうと過剰な、余計な思いに捕らわれる。


アンリ・ミショーによる3つの詩は、内省的な『織られた言葉』に比べ、格段にスケールが大きく、より大胆な音響を追求した音楽である。指揮者も二人を要する。
ここでは「歌」としての「言葉」ではなく、「音響」としての「言葉」が重要で、その 発声 - 発語が耳慣れない特殊な音の世界を創造する。すなわち混声合唱団による囁き、叫び、おしゃべり、語の音節である。
それはときに饒舌で、ときにノイジィーだ。嗚咽を漏らすような激しい感情表出だ。打楽器も豪快に打ち鳴らされる。

しかし、非常に前衛的で実験的要素を含んでいるにもかかわらず、ルトスワフスキの音楽は、決して独り善がりにならず、手応えのある音楽的感興をリスナーに与えてくれる。この曲にしても、新鮮な音響に驚きはしても、かなりエキサイティングで楽しい時間を確実にプレゼン(ト)してくれる。
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