DISC REVIEW

ロベルト・シューマン / ピアノ三重奏曲第三番
Robert Schumann (1810-1856) / Complete Trio Works
コペンハーゲン・トリオ THE COPENHAGEN TRIO
Søren Elbæk (violin)
Troels Svane Hermansen (cello)
Morten Mogensen (piano)
Ron Chen-Zion (clarinet)

Recorded 1992/1993
Kontrapunkt 32167/68




Rasch! Rasch! Rasch!


何より ピアノ三重奏曲第3番3楽章が好きだ。この曲の指定は Rasch 。ここには、幻想小曲集 Op12 の『飛翔』、ピアノソナタ第2番第3楽章(アルゲリッチの大胆不敵、空前絶後の演奏を聴くこと)と並んで僕を全く夢中にさせるシューマンの Rasch がある。

一聴すればわかるように(ぜひ聴いて欲しい)、このピアノ三重奏曲第3番3楽章は、とても暗い。曲調は(たまらなく!)病的だ。神経過敏とも言えるあのシューマン独特のリズム感に乗って、神経症気味の不安を孕んだあのシューマン独特の情緒を、適切な導入も適切な待機もなしに、どこまでも Rasch させる。
『飛翔』やソナタ等の若い頃の作品ならば、それでも、突き抜けるような激しい情熱がある種のカタルシスを呼び起こすが、この音楽にはそれを期待できない。

まるで先の見えない螺旋階段を、理由もわからずに上へ上へと駈け上がるような、そんな焦燥感に駆られた音楽。
気分は(調 - リズムは)、短い時間の中でめまぐるしく変化するのに、どれも似通ったイメージ(ダメージ)しか与えてくれない異様さ。
そして唐突な、あまりに唐突な解決 - 終結。


空回りしたエネルギーは燃焼することなしに、澱のように、どんよりと溜まっていくだけだ。当然動きは鈍くなり、響きは重くなる。
よって、この曲は一般的な美的感覚では語りにくい。ショパンやリストのそれこそ職人的な手練手管を尽くした美しい音楽と比べたら、明らかに分が悪い。シューマンの他の作品と比べても同様だろう。
シューマンの曲は昔の熱狂的なスタイルで弾くことも、新しいスタイルで弾くこともできない(ほとんど火を使わない「ヌーヴェル・キュイジーヌ」と比較するのもいいであろう)。

ロラン・バルト「シューマンを愛す」(『シューマンのピアノ音楽』ムジカノーヴァ叢書16)
多分、僕がこのシューマンの音楽に特に惹かれるのは、その中にキッチュ Kitsch の魅力を感じるからかもしれない。 Kitsch には真っ当な「理由」や「意味」や「必然性」といった論理的な要素はほとんど省みられない。というより最初から無視している。にもかかわらず、そこには情熱の限りが尽くされている。

つまり偽物/贋物の対象に馬鹿正直に真摯に取り組み、それを最後には限りなく真実/信実のレベルまで高めてしまうウルトラな精神の賜物だ。

僕は中途半端な努力家に対しては、怠け者以上に軽蔑をする。しかし、度を越えた努力家に対しては、天才以上の賛辞を惜しまない。それは尊敬とでも愛とでも言っても良い。
僕がシューマンという作曲家にただならぬ関心を抱くのは、そこにある。

シューマンは果たしてクララ・ヴィークを愛していたのだろうか。
贋物の愛だから、度を越えた性急な情熱的なロマンスが生まれたのではないのだろうか。
シューマンへの愛の表明は、ある意味、今日、時代に「逆らう」ことで(この孤独の理由を素描してきたが)、責任ある愛でのみ可能である。

ロラン・バルト「シューマンを愛す」
シューマンは本当に狂っていたのだろうか。偽物の狂気だから性急な死(自殺)を選んだのではないのだろうか。
彼はいつだって sehr rasch und in sich hinein / とても速く、しかも自分の内部で、のはずだ。

Schumann Rasch Kitsch は、僕の中で、最小限の意味のある言葉(単語 - ワード)同士でリンク - ネットワークしている。
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