アーメンの幻影
- 創造のアーメン
- 星たちと、輪のある惑星のアーメン
- イエズスの苦悶のアーメン
- 欲望のアーメン
- 天使、聖者、鳥の歌のアーメン
- 神の裁きのアーメン
- 終わりのアーメン
この曲は、1943年に作曲され初演された2台ピアノのための作品で、メシアン特有の狂信的とも言えるカトリック神秘主義の妖しさ、不気味さ、激しさ、凶々しさ、そして畏怖の念が強く表出された、一種独特の世界観で貫かれている。まさにアポカリプス的「終焉」と「救済」がドラマティックに展開される。
それは、皮張りの聖書を紐解きながら、大聖堂の鐘が重く鳴り響くフランス、カルカソンヌあたりでこの音楽を聴くならば、なにかしら宗教的体験に近いものを感じ取れるかもしれない。
しかし、東京の「集合住宅」の一室で、明るい蛍光灯の下、DENON のアンプ、 Rojers のスピーカーから流れるメシアンの音楽は、カラフルでポップ、ファニー=ファンキーでエキサイティングな「サウンド」に他ならない。
この音楽を聴きながら時々考えるのは、アルゲリッチ/ラビノヴィチの男女ペア、高橋/ゼルキンの男性ペアが、この作品のクライマックスとも言える『欲望のアーメン』をどういう心境で演奏をしているのかと言うことだ。
作曲家メシアンはこの音楽を、「肉体的方法で表現される」(淫らな)アーメンと言い切っている。
『欲望のアーメン』でのアルゲリッチ/ラビノヴィチはかなり闘争的で、ぶつかりあうピアノの音は凄まじい限りだ。
一方、高橋/ゼルキンはアルゲリッチ/ラビノヴィチよりは一見穏やかに、よりデリケートに聞こえるが、細かな衝突が意外に耳に付く。そのため、この演奏に対し、「エロティック」という言葉を短絡的に使いたくなる……。
もちろん二つの演奏とも、感極まった絶頂状態(エクスタシー)は十分に感じられ、持続され、演奏自体に過不足はない。まったく「満足」のいく演奏だ。
それにしてもこのメシアンの音楽は本当にもの凄い。もの凄いサウンドだ。「天使」や「鳥」、「虹」、「惑星」まで登場する。本当に「錯乱」している。