DISC REVIEW

SERGEY PROKOFIEV (1891-1953)
SYMPHONY NO.7 in C sharp minor Op.131


プロコフィエフ 交響曲第7番嬰ハ短調 作品131
シンフォニエッタ作品5/48

指揮:ネーメ・イェルヴィ
スコティッシュ・ナショナル管弦楽団

recording 1985 / Chandos
スーザン・ヒルの小説『ぼくはお城の王様だ』をレジス・ヴァルニエ監督が映画化した『罪深き天使たち』を観たことがある。ストーリーはあまり後味が良いとはいえないものの、映像は独特の幻想的雰囲気に満ち、ときにシュールでもあり、なかなか印象的だった。美しくも残酷な心理ドラマをメルヘンタッチに仕上げていた。

もちろんこれだけで僕がこの映画に及第点を与えるわけではない(笑)。感性レベルにおいて、さらなる上位のキャプションを感じさせるのは、バックに流れる音楽の効果だ。心理描写、自然描写いずれにおいても重要な働きを示す。イメージをより豊かに、空想をより深く押し上げている。
この映画でチョイスされた音楽は多分すべてプロコフィエフ作曲によるものだろう。

交響曲7番もこの映画の中で効果的に使用された。作曲者の死の前年に書かれた作品だけあって、他の作品に見られるような鋭いアイロニーや諧謔、邪悪な筆致は感じられない。美しく、いくぶん暗い情緒を湛えたメランコリックな作風である。

一楽章は総じてメロディックで夢見るような心地よさを与えてくれる。ひんやりとした冷たい空気に包まれるような、遠くのオーロラを眺めているような、そんな感じだ。ノスタルジックな感興さえ呼び覚まされる。交響曲3番や『悪魔的暗示』のプロコフィエフとは別人のようだ。

ニ楽章はワルツで、これがまた他のどんなワルツよりも「華麗」で「ラ・ヴァルス」ならぬ「ザ・ワルツ」とても言いたくなるくらい気に入っている。

緩徐楽章である三楽章は、またまたプロコフィエフらしからぬムードを持つ音楽で、夢想するために必要な素材(メロディ)をあれこれ惜しげもなく聴かせてくれる。

フィナーレはとても快活で、古いコメディ映画を観ているような微笑ましさと粋、そしてペーソスを感じさせてくれる。最後のほうで一楽章のメロディが追憶のように、昔見た夢のように回顧される。
このフィナーレには二つの版があり、一楽章のメロディに包まれて静かに終わる版と、快活なリズムで一気呵成に終わる版がある。このCDでは後者が採用されている。

プロコフィエフは、この交響曲の初演5ヶ月後にこの世を去る。同日、スターリンが亡くなったのはあまりにも有名だ。


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