HERRMANN [THE FILM SCORES]
バーナード・ハーマン:映画音楽集
Bernard Herrmann (1911 - 1975)

  • THE MAN WHO KNEW TWO MUCH
  • PSYCHO: A SUITE FOR STRINGS
  • MARNIE: SUITE
  • NORTH BY NORTHWEST
  • VERTIGO: SUITE
  • TORN CURTAIN
  • FARENHEIT 451: SUITE FOR STRINGS, HARPS, AND PERCUSSION
  • TAXI DRIVER: A NIGHT-PIECE FOR ORCHESTRA WITH OBBLIGATE ALTO SAXOPHONE

LOS ANGELS PHILHARMONIC
ESA-PEKKA SALONEN, Conductor

Recording 1996 / SONY CLASSICAL

エッサ・ペッカ・サロネン指揮のストラヴィンスキー『春の祭典』は衝撃的だった。その衝撃を与えてくれた指揮者によるオリヴェエ・メシアン『トゥーランガリラ交響曲』にはさらなる衝撃を食らった。このサロネン+メシアンのダブルショックによって僕は現代音楽を聴くようになった。

そしてバーナード・ハーマン映画音楽集。手兵(この言葉、ちとアナクロ)ロス・フィルを率いて「現代音楽作曲家」としてのハーマンの魅力を思う存分伝えてくれる。ナンバー(邦題)は以下の通り。

 ・知りすぎた男:プレリュード
 ・サイコ:弦楽のための組曲
 ・マーニー:組曲
 ・北北西に進路を取れ:序曲
 ・めまい:組曲
 ・引き裂かれたカーテン
 ・華氏451度:弦楽、ハープ、パーカッションのための組曲
 ・タクシー・ドライバー :オーケストラのためのナイト・ピース

有名な映画ばかりで(僕も『引き裂かれたカーテン』以外は知っている)、映像(の残像)のほうに気が囚われがちだが、何より音楽に集中したい。オリジナル・サウンドトラックも忘れよう。ここでは、サロネン&ロス・フィルによるバーナード・ハーマンというアメリカの卓越した作曲家の作品そのものを聴くのだから。

演奏はロス・フィルなので技術的にはまったく問題なし。録音もOK。万全の体制で、自身作曲家でもあるサロネンのアクチュアルな解釈によって知られざる「現代音楽」が紹介される。この上もなくエキサイティングな体験だ。

とくに気に入ったのが『華氏451度』。お、ベルク! と思わせる新ウィーン派風のキラキラした音楽。多彩な打楽器群とハープが奏でるめくるめく色彩感覚には恍惚たる気分にさせられる。官能的というか触感的というかアンニュイ&ダウナーな感覚というか……、そういった性的刺激にも似た音波により、聴者の気分を自在にコントロールしドライヴする違法薬物的テクニックにも舌を巻く。

それと『めまい』。ここでも、新ウィーン派音楽のようなある意味挑発的とも取れる煌びやかな色彩の渦によって目が眩まされる。この映画は独特のテイストを持った心理(ニューロティック)サスペンスであるが、音楽においても、絶妙な転調と巧妙なリズム処理が幻想的な雰囲気を醸し出し、まるで螺旋階段を登り降りしているかのような不安定なバランス感覚をデジャヴさせる。

有名な『サイコ』でもそうだ。ここでは映画のおどろおどろしさよりも、バルトークの音楽のような「おどろおどろしさ」がなんといっても聴き所になっている。弦楽器による鋭角的な音形、ジグザグに進む音形が無類のサスペンスを生む。実にスリリングな展開だ。
そしてあの衝撃的なシャワーでの殺人シーンの音楽にしても、映画での人間を切り裂く凄まじいイメージよりも、一糸乱れない冷徹な弦楽器群が鋭い攻撃的な不協和音によって空間を切り裂き、圧する、その容赦のない音響の凄まじさにこそ、恐れおののいてしまう。

多分、ホラーやサスペンス(しかもヒッチコックだ)、SFという特殊な心理状態や設定を扱った映画の音楽だったため作曲者は、わりと自由に前衛的実験的な手法を採用しその才能をあますとこなくぶつけることができたのかもしれない。そういった意味からすると、『タクシー・ドライバー』は、ハーマンの器用な一面を垣間見ることができるとはいえ、それほど「現代音楽」としてはピンとこなかった。たしかに孤独な感情を吐露するようなサックスのメロディーはなかなか印象的だが、これは別にサロネン&ロス・フィルがやらなくてもいいような気がしてしまうのも正直な感想だ。

とはいえ、このCDによりもっとバーナード・ハーマンの音楽を聴きたくなった。とくに『知りすぎていた男』のクライマックスを飾る『カンタータ』とか(なぜか僕はこの曲をマーラーの8番だと長い間勘違いしていた)。この曲はマーラーを積極的に録音しているリッカルド・シャイー&ロイヤル・コンセントヘボウなんか向いていると思うのだが。


[The Berrnard Herrmann Society]
http://www.uib.no/herrmann/

[imdb Berrnard Herrmann]
http://us.imdb.com/M/person-biography?Herrmann%2C%20Bernard

[Esa-PekkaSalone.com (Sony) ]
http://www.esa-pekkasalonen.com/

[Los Angeles Philharmonic]
http://www.laphil.org/index.cfm

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UTE LEMPER [BELIN CABARET SONGS]
ウテ・レンパー:キャバレー・ソング集


  • Alles Schwindel (Mischa Spoliansky)
  • Sex-Appeal (Friedrich Hollaender)
  • Peter, Peter, Komm zu mir zurück! (Rudolf Nelson)
  • Das Gesellschaftslied (Spoliansky)
  • Wenn die beste Freundin (Spoliansky)
  • Ich bin ein Vamp! (Spoliansky)
  • L'heure bleue (Spoliansky)
  • Zieh dich aus, Petronella (Hollaender)
  • Raus mit den Männern! (Hollaender)
  • Der Verflossene (Berthold Goldshmidt)
  • Gesetzt den Fall (Hollaender)
  • Ich weiß nicht, zu wem ich gehöre (Hollaender)
  • Das lila Lied (Arno Biling {=Spoliansky})
  • Maskulinum - Feminium (Spoliansky)
  • Mir ist heut so nach Tamerlan! (Nelson)
  • Eine Kleine Sehsucht (Hollaender)
  • Wir wollen alle wieder Kinder sein! (Hollaender)
  • Münchhausen (Hollaender)

UTE LEMPER
MATRIX ENSENBLE
JEFF COHEN, piano
ROBERT ZIEGLER

Recording 1996 / DECCA

例えば、『嘆きの天使』のマレーネ・デードリッヒのような。例えば、『地獄に堕ちた勇者ども』のヘルムート・バーカーのような。

ウテ・レンパーが歌うのは、そういった彼=彼女のイメージが(どうしたって)ダブるワイマール共和国から第三帝国にかけてのベルリン──当時のヨーロッパにおける最大の快楽都市──のキャバレー・ソング(カバレット)、甘美な毒と禁断の匂いを放つ爛熟しきったとしか言いようのない──それゆえ、かけがえのないくらい魅力的な──「頽廃音楽」である。

もちろん「毒」も「禁断」も「頽廃」も意識的な言い回しである。このCDはデッカの壮大なプロジェクト「ENTARITE MUSIK」シリーズのひとつで、それは第三帝国により抑圧され抹殺された音楽や音楽家の再現、つまり音楽における「頽廃芸術展」のカタログを目指している。

よって、このレンパーが歌うキャバレー・ソングは、そんな「頽廃」に相応しいものであることは言うまでもない。なにしろほとんどの曲のテーマはセックスである。それもかなり露骨なもの(「Sex-Appeal」や「Ich bin ein Vamp! 」)。彼女はそういった音楽を見事にパフォーマンスする。

さらに、このCDの解説書にあるマレーネ・デードリッヒがマルゴ・リオンという女性と手をつなぎ親密な視線を交わしている写真が象徴しているように、ここには「危険な」ホモセクシュアルなテーマも含まれている。
例えば「Das lila Lied 」(ラヴェンダー・ソング)。行進曲風のリズムを持つ、意外に歯切れの良い音楽の中で「禁じられた愛」が切々と、しかしときに堂々と歌われる。英語訳(元はドイツ語)からいくつかのフレーズを取り出してみると(かなり意訳です)、こんなことが歌われている。

「たとえ神が悪徳と決めつけても、たとえ天国から追放されても」
「僕たちはプライドを持って愛する」
「ラヴェンダー色の夜は僕たちのかけがえのない宝物だ」
「僕たちの愛を絶対に消滅(destroy)させはしない」
「僕たちはラヴェンダー色の昼と夜を必ず勝ちとってみせる」
「僕たちは "queer" であることを恐れない」

まさしく最高のゲイ・ソングである。

こういった音楽を聴くと、ワイマール共和国時代のベルリンは──後の悲劇を知っている僕たちにとって──本当に存在したのかどうか疑わしい「時空」、まるでSF小説のような異次元空間にすら思えてくる。
しかしワイマール共和国は、短いながらも、確実に存在した「リアル・ワールド」であったのだ。たとえ短い時であっても、そこで暮らし、笑い、泣き、歓び、愛し合った人たちが確実に存在したのだ。

だから、ワイマール共和国を生きた人々のために、彼らの生死をかけた愛を、下卑た視線と下卑た視点で搾取しているとしか言いようのない「ファンタジー=ポルノグラフィー」の素材にさせられないためにも、「毒」も「禁断」も「頽廃」も一つの別な言葉に集約させたい。「自由」という言葉に。


[ウテ・レンパー(ユニヴァーサル)]
http://www.universal-music.co.jp/classics/special/ute/f_ute.htm


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TURNAGE [GREEK]
マーク=アントニー・ターネジ「GREEK」
Mark-Anthony Turnage (b. 1960)

GREEK
  • Eddy Quentin Hayes
  • Dad   Richard Suart
  • Wife  Fiona Kimm
  • Mum  Helen Charnock



Recording 1994 / argo

ギリシア神話「オイデプス(エディプス)王」の物語は多分ご存知であろう。実の父親を殺し、実の母親を娶ってしまう悲劇の王オイデプス。フロイトが「エディプス・コンプレックス」として精神分析に援用したことでも有名なこの物語を、イギリスの作曲家マーク=アントニー・ターネジは、舞台を現代のロンドン(しかもイースト・エンド地区)に移し変え、オペラ「GREEK」として再現する。

原作はSteven Berkoffの戯曲。主人公はエディプス王ならぬ青年エディー(Eddy)。ギリシアのテーベを襲った災厄は、このオペラでは、(当然のごとく)現代ロンドンの社会問題、すなわちレイシズムや暴力、貧困、失業等となって物語の背景を覆う。さらにロンドンらしいパブやカフェといった場所、若者たちのナイトライフ、警察とのいざこざといった典型的な風俗風刺も効かれ、その中である家族 ──「エディー」「父親」「母親」「妻」──の葛藤、そして秘密が描かれる(暴かれる)。

音楽は、賑々しい。ターネジはパニアグア『古代ギリシャの音楽』を聴いたことがあるかどうかはわからないが、あんな感じのエキゾチックな響きと強烈なリズム、妙な歌唱のコーラスで音楽はスタートする。
確かに最初は新奇な響きに意表を突かれるが、しかし耳が慣れてくると、どこかで聴いたような、ちょっと懐かしいような気がしてくる。もしかしてこれってロック? いや、それよりもっとアナクロな感じの「ロカビリー」かな。そう、警官隊と女たちのやり取り(掛け合い)なんかは、ちょっと古めのイギリスのポップスを思わせる。それにちょっとジャズっぽかったり、ブルースっぽかったりする場面もあったりする。

まあこれは、作曲技法としてのジャンル折衷というよりも、イギリス・ローカルな雰囲気が濃厚なオペラとして見た(聴いた)方が良いのだろう。そしてこういったロンドン・ローカル風味とギリシアっぽいエキゾチック香り、さらに現代音楽としての洗練され計算された構成によって(複数のスフィンクスによるデュエット等)、映像抜きのオペラCDの宿命ともいえる物足りなさと歯痒さをなんとかカヴァーしている(もちろん実際の舞台を見たほうが楽しめるだろうことは言うまでもないが)。

マーク=アントニー・ターネジは1960年生まれ。ロイアル・カレッジでオリヴァー・ナッセン、ジョン・ランバートらに学び、1981年「Night Dances 」を発表、Guinness Composition Prizeを得る。オペラ「GREEK」は、ターネジの才能を高く評価したハンス・ヴェルナー・ヘンツェの勧めにより1988年のミュンヘン・ビエンナレーレ・フェステバルで委嘱されたものである。

その後、サイモン・ラトル&バーミンガム市交響楽団の委嘱によるフランシス・ベイコンの絵画をモチーフにした「絶叫する教皇」(Three Screaming Popes 、1988/89)、東京フィルハーモニー交響楽団が委嘱した「沈黙の都市」(1998)──プロムスでも演奏された──、BBCテレビ委嘱によるミレニアム祝賀音楽等、当代随一の人気(ポピュラー)作曲家として多彩な活動を続けている。


[Mark-Anthony Turnage / Van Walsum Management]
http://www.vanwalsum.co.uk/amd/amdmat.htm

[Sequenza21]
http://www.sequenza21.com/turnage.html

[BBC Music]
http://www.bbc.co.uk/orchestras/so/whoswho/turnage.shtml

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TOMITA [DIFFERENT DIMENSIONS]
富田勲「DIFFERENT DIMENSIONS」
Isao Tomita (b. 1932)

ドビュッシー
  • 雪が踊ってる
  • 夢想
  • 雨の庭
  • 雪の上の歩み
  • アラベスク1番
  • 亜麻色の髪の乙女
  • パスピエ
  • ゴリウォークのケークウォーク
ムソルグスキー
  • 卵の殻をつけたひな鳥の踊り
  • キエフの大門
  • 古い城
  • プロムナード
ヴィラ・ロボス
  • dawn chorus
  • whisle train
ストラヴィンスキー
  • カスチェイの凶悪な踊り
ラヴェル
  • ボレロ
シベリウス
  • a world of different dimensions
パッヘルベル
  • カノン

BMG

富田勲のシンセサイザーアレンジ集。これまで別々にリリースされていたアルバムからのアンソロジーで、その革新的、その未来的な音響デザインは発表当時センセイションを巻き起こし、大きな話題になった(1974年にリリースされたドビュッシー・アルバムはグラミー賞を受賞)。

もちろん冨田以前にもシンセサイザーを使って、古典音楽を未来の音楽に変えようとした人物がいた。ウォルター・カーロス。彼の『スイッチト=オン・バッハ』はベストセラーにもなったし、彼が音楽を担当したキューブリックの映画『時計じかけのオレンジ』でもあのベートーヴェンがなんともユーモラスに「トランスフォーマー」されていた。

しかし今、カーロス氏の『スイッチト=オン・バッハ』を聴いてもどれほど「熱く」なれるかは正直自信がない。
ただ、カーロス氏自身の「トランスフォーム」にはとても「熱く」なった。なにしろ彼、ウォルター・カーロスは性転換をしてウェンディ・カーロスになったのだから……。

この富田勲のCDはそんなセンセイショナルな事件がなくても音だけで十分「熱く」なれる。なにより 刺激的な「音」が飛び交い、そのスペクタクルな音響に圧倒される。意表を突く、つまり真に独創的なアレンジには本当に恐れ入る。もちろん「音」そのものだって独創的だ。しかもそれらの「音」には、時々、奇を衒ったかのようなジャンクな部分(要は遊び)も当然あり、そこがまた楽しい、楽しすぎる! 

とくに『カスチェイの凶悪な踊り』。オーバーに書くと、「音」が空中を飛び回り、散乱し、屈折する……のが見えるようだ。そして右のスピーカーから左のスピーカーへと(それ以上に部屋の右隅から左隅へと──もともとは4チャンネル録音)旋回しながら急速に(目に見えて)移動する。まるでびっくり箱から勢いよく飛び出てくる、固形の、原色の、エッジのくっきりした点と線のよう。
これって強烈。面白すぎる、愉しすぎる! 25年も前のテクノロジーはかくも大胆でダイナミックで(目に見えて)エネルギッシュだったのか。本当に「熱く」させられる。

それに『卵の殻をつけたひな鳥の踊り』(展覧会の絵)。ねずみの鳴き声のようなチューチューっていう音がとってもキュート。愛らしい音楽だ。何かの記事で富田勲の「音楽室」を見たことがあるが、あの無数の鍵盤と無数の配線が絡み合ったエントロピー係数の高いマシン・ルームからこんなにも可愛い「音」が生まれてくるなんて、ある種の感動さえ覚える。

しかしこれらのアレンジ自体には違和感は感じない。他の楽器のアレンジと同じように、クラシック音楽の有名曲をシンセサイザーというちょっと特殊な(当時は特権的であった)楽器で編曲/演奏したような感じがするだけだ。つまりまったく自然で極めてまっとうな編曲/演奏なのだ。
もともと奇抜な作曲技法のオリジナルには(『カスチェイ』や『雪が踊っている』)それこそ奇抜な「音」を嵌めこみ、美しい曲には(『夢想』や『アラベスク』)それに見合ったニュアンスのアレンジを施している。
ところどころちょっと懐かしいような気分にさせるところもニクイ。その人工的であるが広がりのある(広がりを感じさせる)音場にいると、不思議と気分が落ち着いてくる。

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