CAGE [THREE DANCES] REICH [FOUR ORGANS]
ジョン・ケージ:3つのダンス/スティーヴ・ライヒ:4台のオルガン
John Cage (1912 - 1992) / Steve Reich (b. 1936)

  • Stravinsky THE RITE OF SPRING
  • Cage THREE DANSES
  • Reich FOUR ORGANDS

MICHAEL TILSON THOMAS    RALPH GRIERSON
ROGER KELLAWAY    STEVE REICH    TONY RANEY

Recording 1972, 1973 / Angel Records

あー、もしかするとショップで大声を出したかもしれない。しかも「ワオ!」って言うつもりがどう間違ったか出てきた言葉が「チャオ!」。でもまあ店内ではワーグナーだかヴェルディだかのオペラがガンガンかかっていたのでたいして目立たなかったようだけど。

というのもこのCD。すごい!の一言。なんていったってマイケル・ティルソン・トーマスとスティーヴ・ライヒの共演。曲はもちろんライヒ作品で、『4台のオルガン:4台のエレクトリック・オルガンとマラカスのための 』。作曲者とMTT、それにラルフ・グリアソンとロジャー・ケラウェイ、トム・レイニー加わっている。他に、ストラヴィンスキーの『春の祭典』(2台ピアノ版)とジョン・ケージの『3つのダンス』(2つのプリペアードピアノのための)がカップリング。
この楽曲とメンツ(プレイヤー)。なにか熱いものを感じさせずにはおかない組み合わせだ。

『春の祭典』は僕のもっとも好きな曲のひとつ。もちろんオーケストラ版のほうが断然好きだけど、このピアノ版もなかなか良い。たしかこのヴァージョンの初演はストラヴィンスキーとドビュッシーというこれまたすごいメンツ。
ただピアノ版に関しては、少し前にファジル・サイの多重録音のやつを聴いてしまったからなあ。あの衝撃の後だからどうしてもちょっと穏当な印象になってしまう。

ケージの『3つのダンス』はすごく良かった。ほんとうにスリリング。ほんとうにエキサイティング。ほんとうにファンタスティック。血騒ぎ肉踊るというのはこういうことを言うんだろうと改めて思う。
これがピアノの音だとは到底思えない(そう、プリペアードされたピアノの)奇妙な音の粒がまるで原子運動のように規則的なんだか不規則的なんだか、要するにその運動のパターンが掴みきれないままに、とにかく、じゃらじゃらとスピーディーに流れ落ちていく……のを見ているようだ(見ているしかない)。
うーん、音楽の聴き方がまた一つ変わったようだ。まさしく HAPPY NEW EARS!

そして『4台のオルガン』。 まあいつものライヒである。単純なフレーズが繰り返し繰り返し流れるミニマル・ミュージック。こういった曲は好き嫌いがあると思うけど、僕はわりと気に入っている。
録音も最新の技術と比べると決して良くはないのだけれども、でも、この「音」ってなんか70年代の熱い息吹のような、なんか当時の若いミュージシャンたちの時代精神ようなものを感じさせてくれる。

このジャケットもそう。ちゃちい電子オルガン(音もちょっとちゃちい)にマラカスを持った若者たち。彼らの表情から服装から(ヘンな長髪)、あるいは眼差しに至るまで時代の刻印を感じてしまう。そうだ、ライヒの最初の活動はアメリカ西海岸であった。彼はそこで自由な空気に触れた。公民権運動を支持する劇団の音楽も担当した。彼の音楽は、シュトックハウゼンやブーレーズらのいるヨーロッパとは違ったやり方で音楽を(そして世界さえも)革新しようとした。

そういえば、ちょうどこのCDの録音時期は、帝王として音楽界に君臨していたヘルベルト・フォン・カラヤンが二度目のベートーヴェン交響曲全集を行っていたころだ。カラヤンの絶頂期でありまた彼がマーラーやシェーンベルクあたりにも手を出していたころである。超一流オーケストラを手中にし、これ以上ないゴージャスな響きで傑作中の傑作であると認められた古典音楽を振る巨匠指揮者。その一方で、新進作曲家の新曲を電子オルガンとマラカスでもってプレイする若手ミュージシャンたち。
なんかこの構図って、いかにもって言う感じで、ちょっと微笑ましい。


[ANGEL RECORDS ]
http://www.angelrecords.com/

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STOCKHAUSEN [Zyklus / Refrain / Kontakte]
シュトックハウゼン:コンタクテ/ツィクルス/ルフラン
Karlheinz Stockhausen (b. 1928)

  • Zyklus (1959)
  • Refrain (1959)
  • Kontakte (1960)

Florent Jodelet, percussion
Gerard Fremy, piano & percussion
Jean-Efflam Bavouzet, celesta & percussion   

Recording 1992 / ACCORD

「芸術は爆発だ!」と言ってその名を轟かせたのは岡本太郎だが、「テロは芸術だ!」と言って顰蹙を買ったのはカールハインツ・シュトックハウゼンである。しかもその反発のあまりの大きさに腰を抜かしたのか(予定されていた彼の作品のコンサートは中止された)、取って付けたようなあまりにイタい弁明(「あれはルシファーの仕業だと言いたかったのだ」とか)には、ほとほと苦笑させられた。

同じようにテロリストを擁護するような発言をしたスーザン・ソンタグやルース・レンデルの毅然とした雄々しい態度と比べるとちょっと哀しいものがある。かつての前衛の旗手シュトックハウゼンももう年なのかな、とある種の感慨すら沸き起こってくる。

たしかにシュトックハウゼンの名前には、最近では、すっかり過去のイメージがついてまわる。例えば、彼とともに当時の「前衛の三羽烏」の一人だったブーレーズは今や人気スター指揮者として商業的に成功を収めているし、もう一人のルイジ・ノーノも最後まで政治(左翼思想)にコミットし続けたその潔い態度に多くの尊敬を集め、死後の評価もますます高まっている。

それに比べシュトックは・・・・・・あんなワーグナーの『指輪』を超える誇大妄想なオペラを作曲したり、(その一部として)ストリング・カルテットをヘリコプターに押し込めたり・・・・・・と。

とはいえ、僕はシュトックハウゼンが好きだ。特に50年代60年代の音楽に関しては、ブーレーズやノーノよりもずっと気に入っている。このCDではそんなシュトックの一番輝いていた時期の代表作をなんとデジタル新録音で聴くことができる。
曲は、泣く子も黙る『コンタクテ』、打楽器奏者も震えて黙る『ツィクルス(サイクル)』、ウィトゲンシュタインも沈黙せざるを得ない『ルフラン(リフレイン)』。

各曲の詳しい(あるいは正しい、あるいはアカデミックな)説明は、
[Stockhausen Home Page ]
http://www.stockhausen.org/

「シュトックハウゼン音楽情報」
http://member.nifty.ne.jp/stockhausen_info/index.html

というウェブサイトで公開されているのでそちらをどうぞ。以下は僕の勝手な感想です。

『コンタクテ ── 電子音、ピアノと打楽器のための』は、電子音楽の「これぞ嚆矢」ともいうべき作品で、その「驚異のサウンド」は未だ古びていない。いや、正確に言うと(と言っても弁証法ではない)、いかにもな(単音の)電子サウンドであるがゆえに、Windowsの起動サウンドを聴き慣れている耳には、その「音」はまったく「楽音」には聞こえない、がゆえに、クラシック音楽的「ノイズ」として、まったく新しいサウンドとしての「新しさ」を保っている。不規則に(のように)鳴らされるピアノと打楽器、そのクラシックな楽音をガハハハとせせら笑うかのように響く電子音。とんでもなく面白い音楽だ。
これに比べると、オリヴィエ・メシアンが好んだ電子楽器オンドマルトノや最近話題のテルミンは、なんて美しく上品に響くのだろう(シュトックの「電子音」が下品だなんて口が裂けても言えない)。

『ツィクルス(サイクル)』は打楽器独奏曲。打楽器に独奏させるという(当時としては)なかなか独創的なアイデアを誇っていた音楽。まあ、ほとんど「ノイズ」なんだけど。
しかしそれにしても、この楽曲のライナーノーツ(上記のサイトの情報参照)にはずいぶんと複雑で奇々怪々な指示が書き連なれている。なんだか演奏者の方には、まるで口煩いクライアントの支離滅裂な「設計仕様書」を懸命に読み解かなければならないようで、まったく同情を禁じえない。ただしこのCDでパーカッションを演奏している Florent Jodelet は1962年生まれと若く(しかもハンサム)、高度な技法もものとせずバリバリとやってくれている。

『ルフラン(リフレイン)』。これも実に煩雑な仕様を持つ──まあ、語り得ぬもの(音楽)について、莫大な言語(説明)を注ぎ込んでしまうのもそれも人情なのかな──高度に抽象的で怜悧なまでにメカニックな音楽。
しかし、あるセリー批判者が言ったように、ここまで複雑な「仕様」を持つ音楽を、実際聴取者は、その「音象」に関し、どれほど精確に、作曲者の「意図」通りに感得できるものなのかな、と思わされるのも事実。

もっともこの曲は、ピアノに加え、チェレスタとアンティーク・シンバル、ビブラフォン、カウベルからなる煌びやかな音響がなかなか魅力的で、その立体的な音象もそれなりに(下手なりのデッサン能力で)イメージできる(演奏時間も11分だし)。また奇妙な「掛け声」もユーモレスクなアクセントになっていて、意外に親しみがもてる余地も残されている。

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DUTILLEUX [Symphony]
アンリ・デュティユ:交響曲第1番、交響曲第2番<ル・ドゥーブル>
Henri Dutilleux (b. 1916)

  • Symphony No.1 (1951)
  • Symphony No.2 'Le Double' (1959)

BBC Philharmonic
Yan Pascal Tortelier, conductor   

Recording 1992 / CHANDOS

メシアンより8歳若く、ブーレーズより9歳年上のアンリ・デュティユ。世代的に、何かと話題のメシアンとブーレーズの「ゴージャス師弟」に挟まれているためか知名度において多少損をしているかもしれない。また、いわゆるアヴァンギャルドとは一線を画く作風で、しかも幾分内省的であるためか、その作品はどうしても地味な印象を与えてしまう。
しかしデュティユの音楽は一曲一曲が本当に素晴らしい。聴きこむほどにその美しさを堪能させてくれる──しかも響きの美しさだけでなく、構造の美しさまでもだ。彼のアプローチは、聴き手を挑発し驚かすことではなくて、聴き手を美の中に取り込み閉じ込めることである。キー・ワードは「鏡」。

例えば交響曲一番。この精緻に織りこまれた響きの美しさはまったく筆舌に尽くせない。まるで密やかに漂う香りのようなものである。
第一楽章はパッサカリアという熾烈厳格な形式を持つ楽章でありながら、印象的な色彩がパッと煌き、重々しく慇懃な主題の流れの中で、瞬く間に消滅──まさしく「瞬間の神秘」を生む。
切れ目無しの第二楽章(スケルツォ)では、オーケストラのヴィルティオジティが遺憾なく発揮され熱狂と興奮が渦巻く。そこから詩的なインテルメツォ(第三楽章)へと移行しクールダウン。この楽章が中核となり、そしてここから、音楽の流れは(時間は)逆行をし始める。
渦巻く興奮と熱狂のフィナーレ(第二楽章と照応する)──しかしここでも形式感は決して崩れない、精密にプログラムされた変奏がコードを引き締める。そして次第にテンポが遅くなり、音量も下がり、フェイドダウンしていく──それは鏡面構造を形成するかのように第一楽章の始まりへと回帰していく……。

交響曲第二番<ル・ドゥーブル>(ダブル)はボストン交響楽団75周年記念にクーセヴィツキー財団より委嘱されたもので、シャルル・ミュンシュが初演した。この曲の特徴は、オーケストラ内に12人の室内楽のグループ(チェンバロ、チェレスタを含む)を設定し、その室内楽のグループとオーケストラの対応関係がまさしく「鏡」の構造(反映=リフレクション)になっている、ということである。

解説によるとデュティユは「二つのキャラクター、一方はもう一方のイメージの反射である」と述べている。さらにもう一つの例として、ゴーギャンの絵画「われわれは何処から来たのか、われわれは何者か、われわれは何処にいくのか」(ボストン美術館所蔵)が引き合いに出されている。多分これは響きの方向性の問題、その存在(感)を扱っているのだろうと思うがどうだろうか。
とにかくミステリアスな構造を持った作品であることは間違いない。ただしこの曲も、構造を意識するよりも前に、独特の感性が宿す色彩感覚に惑わされてしまう(隠微されてしまう)。そしてそこがデュティユの音楽が持つ強烈な魅力、抗し難い魔力である。

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