POUSSEUR [Dichterlibesreigentraum]
アンリ・プスール:Dichterlibesreigentraum(1993)
Henri Pousseur (b. 1929)


Marienne Pousseur, soprano
Peter Harvey, baryton
Alice Ader, piano
Brigitte Foccroulle, piano

Chœur de Chambre de Namur
Orchestre Philharmonique de Liège

Pierre Bartholomée, direction


Recording 1995 / Cypres

ピアノの音は……まあ美しく、印象的だ(アリス・アデールだし)。しかし続く木管楽器の音はどうだろう。なんか調子が狂っているような・・・・・・リズムも不規則だし。しかし合唱の響きはもっと変だ。わざと音程は外している感じがする。ソプラノソロは唸りのような叫び声のような声。それに全体的な響きは無調のようでもあるし、調性があるようでもあるし……。
まあベルクの『ルル』のような路線なのかな。でも、でもこのメロディーは聴き覚えがある。そう、あれ、あれ、あの超有名な音楽。そうだ! シューマンの『詩人の恋』!!!

まあ、初めからシューマンの楽曲の編曲(もちろん編曲以上)であることは知っていたけど、ここまで換骨奪胎するとは。ソプラノとバリトンのソロ、ピアノは2台、その他に室内オーケストラと合唱付き。ううむ、これはある意味シューマンの音楽に対する冒涜か、それとも・・・・・・。

しかし意外なことにシューマンの音楽の持つあの幻想性、あの憧憬は失われていない気がする。たしかに響きはゴージャスになったし、原曲の長調と短調が入れ替わったり、いかにも現代音楽風の音やリズムが発せられてはいるが、どこかあのシューマン独特の詩的な雰囲気、気まぐれな(ユーモレスクな)進行、そしてあの情熱は、このプスールの音楽からも十分感じられる。
実を言うと、もっとアヴァンギャルドなサウンドを、もっと恐ろしく激烈な音塊を予想(期待)していた。なにしろプスールにはウェーベルン主義、全面的セリー採用、電子音楽といった血も涙もない音楽を書く作曲家のイメージがあったからだ。それがここまで耳障りの良い音楽(もちろん僕の基準であるが)を書くのかと正直驚いた(もちろん嬉しい誤算であったが)。

この曲の題名は "Dichterlibesreigentraum" で、なんて訳したらいいのだろう、詩人の恋の夢の循環? 詩人の恋の夢の輪唱? 
とにかくシューマンの『詩人の恋』(Dichterlibe)を元にした音楽であることは間違いない(しかもそこには「トロイメライ」を含む『子供の情景』の音楽もシンクロしているだろう)。プスールにとってシューマンは敬愛する作曲家であり、『詩人の恋』はその中でもいつも手元に置いてある楽曲であるということだ。彼はその音楽から、様々なモチーフを感得し、分析し、その研究成果を一冊の本にまとめた。そしてこの "Dichterlibesreigentraum" はプスールのもう一つの成果──彼のシューマン研究の音楽的成果、ある音楽家が、霊感を受けたもう一人の音楽家に対する真摯な情熱が果たした一つの、必然的な、そして幸福な芸術的成果である。

アンリ・プスールは1929年、ベルギーのMalmedyに生まれた。リエージェとブリュッセルの音楽院で学びその後、ブーレーズやシュトックハウゼン、ベリオらの知遇を得、それによりプスールはベルギーにおけるアヴァンギャルド音楽の急先鋒となる。雑誌 Marsyas の発行も彼の理論を押し進める役割を果たしている。

また、フランスの作家ミシェル・ビュトールとの親交、その影響から、オペラ『貴方のファウスト』(Votre Faust、1961-1968)、『La Rose Des Voix』(1982)らが生まれ、プスールはビュトールの前衛的手法を彼の音楽に導入している。例えばビュトールの『時間割』の解説にはこんなことが書いてあったのを思い出す。
彼は音楽における輪唱(カノン)形式にのっとってこの小説を構成した。『時間割』はいわば時間の──時間の地平における記憶と回想の──巨大な輪唱(カノン)なのである。ちょうど輪唱(カノン)がはじめ一種類の声部ではじめられ、そこにつぎつぎと第二、第三の声部が加わって複雑化し、作品の幅と奥行を増してゆくように、(中略)積み重ねられて語られてゆく。しかも輪唱(カノン)において、ときに、ある声部(旋律)が同じかたちで繰り返されるのではなく、裏返しのかたちにされて繰り返されることがあり、(中略)時間の流れに沿って過去を語る語り方に、遡行的に過去を語る語り方を重ねあわせた。

ミシェル・ビュトール『時間割』(清水徹訳、中公文庫)解説より
この部分なんかを読むと、まるでプスールの音楽構造を語っているかのようだ。音楽家と小説家の幸運な出会いが互いの作品に影響を与えているのだろう。
そういえばロベルト・シューマンは最も文学的な音楽家であった。


[UNIVERSAL EDITION]
http://www.universaledition.com/

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MURAIL [Mémoire/Erosion]
トリスタン・ミュライユ:記憶/侵食、エーテル、空間の流れ
Tristan Murail (b. 1947)

  • Mémoire/Erosion (1976)
  • Ethers (1978)
  • C'est un jardin secret, ma soeur, ma fiancée, une fontaine close, une source scellée (1976)
  • Les courants de l'espace (1979)

Sylvie Altenburger, Pierre-Yves Artaud, Janne Loriod, Alain Noël, Ensenble l'tinéraire, Orchestre National de France, Charles Bruck, Jacques Mercier, Yves Prin

Recording 1978-1991 / ACCORD

フランスの作曲家でオンド・マルトノ奏者(ラトル指揮のメシアン『トゥーランガリラ交響曲』で演奏している)でもあるトリスタン・ミュライユの音楽は「スペクトル音楽」と呼ばれている。これは、通常のセックスに満足できない……もとい、通常の音響に満足できなくなった人たちに人気がある「テクニック」で、一言で言えば、音そのものの分析(スペクトル分析)を行い、これまで聴いたことのないまったく新しい音響を発明、これまで体験したことがないめくるめく「快感」を追求する、ものらしい。

とりあえず、『記憶/侵食』(Mémoire/Erosion )を聴いてみよう。この曲は、解説にも書いてあるように、非常にシンプルな構成でできていて、現代音楽にはめずらしく、楽譜や(くどい)説明がなくても、耳で、その「やりたい事」が確認できる。すなわち楽器がナマで鳴らされると、それがテープに録音(コピー)され、すぐに再生される。これが繰り返される。
例えば冒頭、鳴らされたホルンが次々と録音/再生されるのがまるで科学の実験のように見て取れる──それともこんな例はどう? 自分(たち)の行っているセックス/マスターベーションをビデオに撮り、同時にそれ再生しながら、それを見て、またセックス/マスターベーションに励む……そんなセルフXXX(失礼しました)。

しかし、次第に楽器が増えるにつれ(それらは主役のホルンを模倣する)、再生される「音」も倍増していき、音響が複雑になっていくのは容易に予想がつく。そして「コピー元」と「コピー先」が入り乱れ、フィードバックがフィードバックを生み、それらのタイムラグが時間を撹乱し、「音」は合成され堆積/膨張していく。これが「再注入ループ」(reinjection loop)──ちなみに"injection"ってコカイン注射とか浣腸液とかエグイ俗語ばっか──状態になり、耳慣れないまったく不可思議としか言いようのない音響(ノイズ)を形成する。

『エーテル』(Ethers )はあの揮発性、引火性のある液体。化学式は(C。澗滑剤KYジェリーとはちょっと「分子的」に違うようだ。しかしこの曲は、滑(なめ)らかで滑(すべ)るような感触を与えてくれるまさにスペクトルな音楽である。グリッサンドやトリルなどが多用され、小刻みに震える音響をバックに、<大小さまざまな>「フルート」(バス・フルート、ピッコロ・フルート)が滑(なめ)らかに滑(すべ)ってゆく。

『空間の流れ』(Les courants de l'espace )はオンド・マルトノという官能的な音色の電子楽器につきる。編成も大規模で非常に聴き応えがある。その音響は未来的というかSF的というか、要は超音波のような音が響き渡り、脳を直撃するのだ。
もちろんセリエルな音楽(自己中)と違って、決して耳障りではない。次から次へと様々な音色が変遷/推移していき、休む暇もなく耳を脳を刺激し、くすぐり、興奮状態へと導く。やっぱりスペクトル音楽はいい。脳内物質、放出しまくり。この快感=エクスタシーが永遠に続けばいいのに。


[IRCAM]
http://www.ircam.fr/

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MAYUZUMI [NIRAVANA-SYMPHONY]
黛敏郎:涅槃交響曲(1960)
TOSHIRO MAYUZUMI (1929 - 1997)

「涅槃交響曲」
  1. カンパノロジーI
  2. 首楞巌神咒
  3. カンパノロジーII
  4. 摩呵梵
  5. カンパノロジーIII
  6. フィナーレ
奈良法相宗薬師寺聲明「薬師悔過」


岩城宏之、指揮

東京混声合唱団
東京都交響楽団


Recording 1995 / DENON

「ラディカル」な現代音楽作曲家、黛敏郎には「ラディカル」とは言い難い顔があった。
まず思い出すのが『題名のない音楽祭』の「ダンティ」な司会者。あの優しそうな眼差し、穏やかな話ぶりには親しみやすさどころか愛嬌さえ感じさせ、稀に見る好感度キャラクターぶりを発揮していた。

そして「コンサーヴァティブ」な思想信条を持った政治的な顔。日本を守る国民会議議長を務め、天皇陛下御在位60年奉祝パレード実行委員会委員長という大役も果たした。彼の歯に衣着せぬ発言も潔くなかなか爽快だった。

しかし彼の音楽は紛れもなく「ラディカル」である(あった)。黛は1953年、日本初のミュジック・コンクレート『X・Y・Z』を発表し、1955年にはやはり日本最初の電子音楽『習作T』も世に問うた。まさしくラディカルなモダニスト黛敏郎の面目躍如といったところだろう。

そして1958-60年の『涅槃交響曲』。この作品もまた若きモダニスト作曲家の才気が遺憾なく発揮された傑作である。その巨大な編成、圧倒的な音量、華麗な色彩感はスクリャービンの『プロメテウス』、メシアンの『トゥーランガリラ交響曲』にも匹敵されよう。

まず3つの『カンパノロジー』。『カンパノロジー』は高度の音響分析(プリズム解析)を施した極めてラディカルなアヴァンギャルド音楽で、ここで黛は、奈良東大寺他の梵鐘の響きを分析解析し、それをオーケストラに移し変えるというまったくユニークな作業を行っている。

もちろんこれは、鐘の響きをオーケストラが単に「模す」のではない。梵鐘が持つ「響きの要素」を完全に記号化(データ化)し、そのデータを基に再構築された「音」により──データを割り振られたオーケストラの各楽器によって──梵鐘の「響き」が再現される。これは理論上、梵鐘の響きの「要素」とオーケストラの響きの「要素」の一致を意味している。つまり、耳にどう聞こえようが(誤差を考慮すれば)、音響学上は(観測上は、データ上は)、梵鐘=オーケストラということが導かれる。まったくラディカルなことを考えるではないか、黛は。

第二楽章も負けず劣らずラディカルだ。メシアンがガムラン・リズムと鳥の声を楽曲に散りばめたなら、黛は男性合唱団(大人数だ)に天台声明を歌わせる……と言うより読経させるのだ。オーケストラをバックに朗々と響き渡る大合唱団による「読経」。この部分の異様な迫力と興奮の渦、その凄まじい音響にはまったく圧倒させられる。

再び『カンパノロジー』を挟んで合唱による読経「摩呵梵」。続いて最後の『カンパノロジー』。ここでは最大級の規模の梵鐘が掻き鳴らされる。合唱団は雄叫びのような”O”の音を轟かせる。法悦、狂乱、混沌。
そしてそこから神秘のフィナーレに突入する。天台声明が響き渡り、世界は打ち震え、やがて終末に至る。その後立ち現れる清廉な世界。それこそ涅槃の境地であろう。

これ以降黛は、日本的な美、その伝統に回帰する。フランス帰りのモダニスト音楽家の「まなざし」は、東洋の美意識、東洋が持つ美観へと向かう。『曼荼羅交響曲』(1960)、1976年のベルリン・ドイツ・オペラ委嘱によるオペラ『金閣寺』、モーリス・ベジャールのバレエ用音楽『カブキ』『M』(三島由紀夫のオマージュ)等。


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SORABJI [Piano Sonata No.1]
カイホスロー・ソラブジ:ピアノソナタ第一番
Kaikhosru Shapurji Sorabji (1892 - 1988)

  • Piano Sonata No.1 (1919)

Marc-André Hamelin, Piano

Recording 1990 / Altarus

メシアンの音楽がカトリック神秘主義を代表しているなら、ソラブジのそれはゾロアスター教である。

ゾロアスター教──ゾロアスター(ツァラトゥストラ)が創始した古代宗教。火を奉ることから拝火教とも呼ばれ、善神アフラマズダと悪神アンラマンユの戦いが続いている。
なんだかとんでもなく仰々しくファンタジックな宗教であるようだ。

実際このピアノソナタ一番も実に仰々しくファンタジックな作品である。華麗なしかしショッキングなスタート、ダイナミックというよりも凶暴とでも言いたい激しい打鍵、大胆な跳躍、痙攣する和音連打、呪術のような意味ありげな妖しいリズム、目の覚めるような煌びやかなパッセージ、エキゾチックな雰囲気、神秘的な響き……スクリャービンの黒ミサソナタ(9番)や10番ソナタにも通じるヴィルティオジティと誇大妄想な「振る舞い」を孕んだ強烈無比な音楽。しかしこのブゾーニに献呈された「ソナタ一番」は、確かに超人的なテクニックを有するが、ソラブジ作品の中でもずいぶんとマトモな音楽であろう(アムランのテクニックも「健やかに」冴えている)。

例えば『オパス・クラヴィチェンヴァリスティクム』というピアノ曲は演奏時間約4時間を超える異常さ──その異様さがカルト的な人気を誇っている。他にもヨガやハシシ絡みの「ドラッグ・ミュージック」と言うべき尋常ならざる作品がある──その危うさが熱烈な支持を得ている。しかもソラブジは一時期(1930年から1970年代にかけて)彼の作品の演奏を禁じ、自身はツァラトゥストラのごとく(恣意的な)隠遁生活をする。つまり早い話がソラブジは相当なエキセントリックな人物=変人であったのだ。

ソラブジはイギリス生まれ(本名レオン・デュトレー)であるが父親はイラン人(パールシー人)、母親はスペイン人。ピアノと作曲もほとんど独学である。こういった経歴の人物は実は現代音楽の作曲家では珍しい部類に入るだろう。多くの現代音楽の作曲家はインテリジェントな高学歴者で理科系(技術系)出身者も多い。
しかしそれゆえソラブジの音楽は研ぎ澄まされた感性が──システムの罠に囚われず──飛翔しまくる。時流に囚われない超然とした音楽がそこにはある。ソラブジはその音楽を通して、どう語っているのか。


[Kaikhosru Sorabji(The Sorabji Archive )]
http://www.88keys.com/sorabji.htm

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