MARTIN [Concerto / Ballade]
フランク・マルタン
Frank Martin (1890 - 1974)

  • Ballade for flute, piano & strings (1941)
  • Ballade for alto saxophone, piano & orchestra (1938)
  • Ballade for piano & orchestra (1939)
  • Ballade for trombone, piano & strings (1940)
  • Concerto for 7 wind instruments, timpani, percussion & strings (1949)

Royal Concertgebouw Orchestra
Riccardo Chailly


Recording 1992 - 1994 / DECCA

たしか、映画『第三の男』でのオーソン・ウェルズのセリフだったと思う。「スイスの平和がもたらしたものは、鳩時計だけだ」と言うやつ。
バカも休み休み言え!
この映画を作った人は、スイスの作曲家オネゲルやエルンスト・ブロッホ、そしてこのフランク・マルタンらの音楽を知らなかったのだろうか。少なくとも音楽に関しては、スイスはイギリスなんかよりずっと先進的であったことは周知の事実である。
しかも、このCDに入っているマルタンの代表作の作曲年代を見ればわかるように、これらの作品は、1938年から1949年、つまり第二次世界大戦から、オーストリアがまだ四カ国に分割統治されている時期に書かれている。
スイスと平和(永世中立)をなめるなよ!

と柄にもなく、スイス贔屓な発言をしてしまったが、それは、これらマルタンの作品をとても気に入っているからだ(正直、スイスという国自体には興味ないかもね)。

それでマルタンの音楽。一言で言えば、とてもデリケートである。ガラス細工のような壊れやすさとでも言おうか。12音技法やジャズのイディオムを採用しているが、決して威圧的な音楽になっていない。調性感を残した、控えめで、たゆたうような微妙な色彩変化が自然と滲み出てくるようなサウンドになっている。
特に『フルート、ピアノ、弦楽のためのバラード』、『ピアノとオーケストラのためのバラード』には、そのデリケートな色彩変化が顕著で、感覚的な、非常に魅惑的な音を響かせる。

一方、『7つの管楽器、ディンパニ、打楽器と弦楽のための協奏曲』は多少動きのある音楽になっている。これはバロック時代のコンチェルト・グロッソ形式を模したもので、各楽器の音色の美しさ、端整なソノリティ、愉悦に満ちた音の遊び(ゲーム)を聴かせてくれる。

『アルト・サクスフォーン、ピアノとオーケストラのためのバラード』は、サクスフォーンと言う楽器を使用しているためか、たしかにジャジーである。その都会的な雰囲気、都会が持つグルーミーでアンニュイな雰囲気を見事に感じさせてくれる。サクスフォーン・ソロもクールにキメてくれる。

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XENAKIS [PERSEPOLIS]
ヤニス・クセナキス:ペルセポリス
Iannis Xenakis (1922 - 2001)

  • PERSEPOLIS (1971)


Recording 1971 / FRACTAL RECORDS

(クセナキス)によるエレクトロニック・テープ音楽。もちろんただの「音楽」ではない。 このの「音楽」が持つ凶暴さには、ブーレーズの理知もケージの発明もシュトックハウゼンのプレゼンテーションも到底太刀打ちできないだろう。唯一、立ち向かえるのは、メシアンの狂信的錯乱ぐらいか。

とにかく言語道断な音響だ。やわな「理性」を打ち砕く、破壊的な音。唖然とする暴力的な音塊。獰猛さ。まるで、人類を破滅に導く最終破壊兵器が発する轟音のよう。僕は史上最強の「音楽」だと思っている。

この「音楽」を前にして言えるのは、本能的な情動を露にした音楽や「野蛮」を売り物にしている音楽(いきがっているロックとか)は、「理知的」なもの(例えば机上の理論を振り撒くある種の現代音楽)と同様、まったくの敵ではないということだ。 それはこのの音楽が、至高の「理性」によって無慈悲なまでの「徹底した野蛮」を生み出しているからである。

アジア的蛮行は、たんに蛮行であるにすぎないが、ヨーロッパ的な蛮行は、野蛮や無知を克服したと称する至高の理性の名において、逆説的にも、アジア的な野蛮でさえ鼻白むような徹底的な野蛮を実現するんだから。

笠井潔『ユートピアの冒険』(毎日新聞社)

『ペルセポリス』はイランのシラーズ・ ペルセポリス・フェステヴァル・オブ・アート(Shiraz-Persepolis Festival of Art)で委嘱され、1971年ペルセポリスの廃墟で演奏された。演奏といっても、これは電子音楽である。8チャンネルの電子音が100のラウドスピーカーから流される。

また音(耳)だけでなく、この作品の実演では、ビジュアル(眼)な要素も加わっていた。スピーカーから強烈なエレクトロニック・サウンドが響き渡る中、ペルセポリスの廃墟には、レーザー光線やサーチライトが放出され、まるで星空のような輝きに包まれる。そして150人のシラーズの少年たちがトーチカを持ち、山の谷間を横切り、森の中へ消えてゆく──「聴衆」はそれを「見る」。

アケメネス朝ペルシャの王都ペルセポリス(そしてゾロアスター=ツァラトゥストラのペルセポリス)は、再び、火と光の栄光を取り戻す。そのときは「私たちは地球の光を産み出す」と言った。



[Iannis Xenakis]
http://www.iannis-xenakis.org/

[XenakisWorld]
http://www.xenakisworld.com/

[IEMA Xenakis Pages]
http://www.iema.culture.gr/xenakis/index_en.html

[FRACTAL RECORDS]
http://www.fractal-records.com

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HINDEMITH [Ludus tonalis ]
パウル・ヒンデミット:ルードゥス・トナリス
Paul Hindemith (1895 - 1963)

    Sergei Prokofiev
  • Visions Fugitives, op22 (1915-1917)

    Paul Hindemith
  • Ludus tonalis (1942)

オリ・ムストネン(ピアノ)

Recording 1994 / DECCA

「対位法、調性およびピアノ奏法の研究」と、サブ・タイトルはかなり威圧的だ。実際『ルードゥス・トナリス』はヒンデミットの作曲理論の実践とも言うべき作品で、実に緻密に、厳格に構築されている。

すなわち曲の冒頭に「前奏曲」、曲の最後尾にその「前奏曲」の逆行形を取る「後奏曲」が置かれ、その前奏曲と後奏曲の<間>に12のフーガと11の間奏曲が配置されている。フーガの「12」はもちろん1オクターブすべてのキーをカヴァーする数であり、「長調」「短調」の区別を無効にするものだ。Cからスタートし、G−F−A−E−E♭−A♭−D−B♭−D♭−B−F♯と円環する。

そしてフーガとフーガの<間>に配置された「間奏曲」は、独立した曲でありながら、各フーガ間の調性感を絶妙に調整し、全体のフレームワークを見事に統一させる。これはバッハの『平均律クラヴィーア曲集』の精神を受け継ぐもので、まさにドイツ的としか言いようがない弁証法的な作品であろう。

しかしこういったことを書くと、無味乾燥的で詰まらない教科書のようなイメージがするかもしれない。そう、それはある意味正しい。この作品は非常に人工的で無機質、ロマンのカケラもない冷酷な作品であると思う。ある種の感情を喚起する機能を、この楽曲は元から有していない。が、しかしその熾烈厳格な「構成」こそが面白い。その隙のない異様な情熱によって体系化された音楽になぜか心を奪われる。
問題は、こういった特殊な音楽を従来の音楽観で聴くことあるのだろう。いや、むしろ、音楽を情緒的に、あるいは感傷的に聴くこと、それこそが特殊なことであると力説したい。
理論ということばの起源は宗教的なものにまでさかのぼる。理論家(見る人)とは、ギリシャ都市が公共の祝祭劇のためにおくりだした代表者のことであった。(中略)かれは、自然のうごきや、音楽の調和的な進行のなかに直感される均衡を、自己のなかで表現し、模倣によって自己を形成する。理論は、たましいが宇宙の秩序だったうごきに同化する過程で、生活実践のなかに入りこみ、生活にみずからの形式をおしつける。

ユルゲン・ハーバマス「認識と関心」(長谷川宏訳、平凡社ライブラリー『イデオロギーとしての技術と科学』)

「ルードゥス・トナリス」の意味は「音の遊び」、つまり「音のゲーム」である。過剰な思い入れなど捨て去り、その精緻なプログラミング、その爽快なメカニズムの快感さえ手に入れれば十分だと思う。
そういった意味でオリ・ムストネンのピアノはうってつけである。軽やかで刺激的、明快で感覚的。技術不備によるノイズも勘違いからくる鬱陶しさもない。実にクールにピアノと戯れている。

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YASHIRO [Piano Concerto, Symphony]
矢代秋雄:ピアノ協奏曲、交響曲
Akio Yashiro (1929 - 1976)

  • ピアノ協奏曲 (1967)
  • 交響曲 (1958)

岡田博美(ピアノ)、湯浅卓雄(指揮)
アルスター管弦楽団


Recording 2000-2001 / NAXOS

ナクソス・レーベルによる「日本作曲家選輯」シリーズの第2弾。このシリーズは、武満徹ら一部の作曲家を例外として、国内レーベルでも決して充実しているとは言えなかった日本人作曲家の作品を、外国のレーベルであるナクソスが本格的に紹介していこう、というものである。
ナクソスという国際的なレーベルが手がけていることにより、そのCDは世界中に販路を得、多くの国でこれら日本人作曲家の音楽が手軽に聴けるようになる。まったく素晴らしい企画で、本来ならば国がバックアップしても良さそうなものだと思う。

もちろん多少の危惧がなかったわけではない。国際的なマーケットを視野に入れているということは、もしかして「フジヤマ、ゲイシャ」レベル、あるいは「美しい日本の私」的な、まるで観光ビデオのBGMみたいのが量産されるのでは、と訝っていた。しかしそれは杞憂に終わった。もちろんエキゾチックな日本を代表する音楽も中にはあるのだろうが、この矢代秋雄作品のような堂々の絶対音楽もラインナップされている。今後のリリースも期待したい。

矢代秋雄は、いわゆる前衛や実験音楽とは一線を引いているが、厳格でモダニズム溢れる音楽を書いている。解説によると矢代は、来日したジョン・ケージの「パフォーマンス」に対し、「こんなものは音楽ではないぞー」と野次を入れたそうだ。なかなか頼もしくて良い。まるでドイツ人に対し「きみのフッサールの理解は間違っている」なんて言っているようだ。

まあ、矢代は、パリ音楽院に留学したエリートでもあるし、あのナディア・ブーランジェにも学び、オリヴィエ・メシアンのクラスにも出入りしていた。しかもパリでの卒業作品はフローラン・シュミットに絶賛されたということだ。また記録映画や演劇のための音楽を書き、その中には三島由紀夫とのコラボレーションもあるという。しかし矢代の作品は決して多くない。彼は寡作家だった、それは彼が完璧主義者であったからだ。
ちなみに矢代の父親は日本を代表する西洋美術史家、矢代幸雄である。

ピアノ協奏曲は矢代の代表作で、NHKの委嘱により作曲、1967年中村紘子のピアノ、若杉弘指揮NHK交響楽団により初演された。
曲は「美しい日本の私」的なエキゾシズムや安っぽい感傷とは完全に無縁で、プロコフィエフやバルトークを思わせるバーバリズム、圧倒的なヴィルティオジティ、稠密に設計された形式、色彩的でゴージャスなオーケストラレーションを持つ真にインターナショナルな音楽になっている。岡田博美のピアノも、そういった「硬質の美」を放つ音楽にうってつけの冷徹でシビアな音を奏でている。

交響曲は日本フィルハーモニー管弦楽団の委嘱で作曲され、1958年に初演。1963年にはフランス国立放送局管弦楽団により、パリ初演を果たした。こちらもモダニスト矢代を十分感じさせる、ダイナミックかつエネルギッシュな音楽。ストラヴィンスキーやメシアンを思わせる絢爛たる響きを堪能できる。

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