Gay Passage

シオドア・スタージョン 『たとえ世界を失っても』
 本篇は同性愛を肯定的に描いた最初のSFとして名高い。題材が題材なだけに方々の雑誌から敬遠され、けっきょく<ユニヴァースSF>という二流誌の五三年六月号に掲載されて陽の目を見たという。わが国でもこの作品を収録した短篇集『一角獣・多角獣』(五三・早川書房)が訳出されたとき、割愛されたという経緯がある。(中略)ちなみに題名は、英国の詩人ドライデンの劇詩『恋ぞすべて、世界を失いて悔いなし』によると思われる。
── 中村融
例の「SF論争」がなければ、この本を手に取らなかっただろし、この中村融氏の文章を目にしなかっただろう、このスタージョンの感動作を読むこともなかっただろう。そういった意味で「当事者」の方々に深く感謝している。

この作品は完全にSFである。宇宙人、宇宙船、銀河系、ワープ……様々なSFのガジェットに彩られ、そのことがコアなSFファン以外には抵抗を感じるかもしれない。しかし読み進めてもらいたい。あなたがゲイならば、作者のメッセージをめいいっぱい受け取れる。若く、いろいろな悩みがあるときこそ、強い希望を与えてくれるはずだ。
発表されたのは1953年。まだまだ差別と偏見の強い時期である。多分この作品に出会えた人たちは、多いに力づけられ、「救われた」に違いない。

簡単にストーリーを述べると、二人のラヴァーバードというヒューマノイド(人間もどき)が地球(テラ)にやってくる。彼らは魔法で地球に喜びを与えた。しかし彼らは母星ダーバヌーでは「犯罪者」であった。そのためルーティーズとグランティという二人が、ターバヌーの要請でラヴァーバードを送還する役目を追うことになる。

この作品はラスト近くになるまで、同性愛については曖昧にしか書かれていない。しかし同性愛者ならば、すぐに気がつく「記号」が散りばめられている(引用されている詩人などもそうだろう)。
 指のあいだをテラのマトリクス・パターンが通過したとき、グランディはやにわにテープをふたつにひきちぎり、さらにもう一度ひきちぎった。忌まわしい場所、テラ。頑迷な保守主義にまさるものなし。贅沢好みの社会に、独創性のない娯楽を無限に供給してやれば、狭量で融通のきかない形式主義に縛られた国民ができあがる。数こそ少ないが強固な禁忌にとらわれた、なにかというとすぐ大騒ぎしたがる、視野がせまくて神経質な人間たち。(計算された堕落のルールまで含めて)規則に従い、上品ぶった特殊な礼儀慣習を後生大事に守りつづける人々。そうした集団の中では、嘲笑を恐れてだれも使おうとしない言葉、着ようとしない色があり、八つ裂きの罰を覚悟しないかぎり使えないしぐさや抑揚がある。規則は複雑かつ絶対であり、こうした場所では、人間の心は歌うことができない。自由でのびのびした歓びの歌によって、ほんとうの自分をついさらけだしてしまうかもしれないからだ。
 だから、もしそういう歓びがどうしても必要なら、もし抑圧された自己を解き放つために自由にならなければならないのだとしたら、あとは宇宙へ出かけるしかない。
「嘲笑を恐れてだれも使おうとしない言葉」、「八つ裂きの罰を覚悟しないかぎり使えないしぐさや抑揚」、これらは同性愛者が「仲間」を探し、求め、話すための一種の「言語」である。
クライマックスは、このSF的な設定を背景に、グランディが同性愛者であることが暗示され、そして彼が「仲間」を発見する。そのときグランディは、笑い声をあげ、「仲間」と握手する。 この場面は感動的以外のなにものでもない。
さらに重要なのは、この作品はハッピー・エンドで終わることである。この時代、ゲイに夢と希望を与えてくれたスタージョンの「勇気」を大いに称えたい。

こういった作品を読むと、SFは単に「センス・オブ・ワンダー」のイディオムだけの「理解」で語るべきものではないのかもしれない。
この作品を単行本から割愛した人たちは、彼らの理解がおよぶ「センス・オブ・ワンダー」の度量に限界があったのか、もしくは最初からそんなものはなかったのかもしれない。この作品でダーバヌーの大使が地球の文化を軽蔑したように。
いやしくも考えうることはすべて明確に考えることができる。いやしくも言いうることはすべて明確に言うことができる。しかし考えうるすべてが言いうるわけではない。
── ウィトゲンシュタイン
あなたはシューベルトの音楽を聴いて感動したことがありますか?


シオドア・スタージョン 『たとえ世界を失っても』、河出文庫『20世紀SF2、1950年代 初めの終わり』所収)
Theodore Sturgeon "The World Well Lost"


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