テルレスの青春
der junge
Törless
















神田には二つの大きな新刊書店がある。ひとつは三省堂書店。もうひとつは書泉グランデ。両方とも品揃え豊富な有名書店であることはいうまでもないだろう。普段は三省堂によく行くのだが、ある日、ちょっとした目的を持って書泉グランデに行ってみた。
その目的とは・・・・。

ヴィクトリア朝の小説。例えば、ディケンズでもいいし、ドイル、コリンズなどの大衆小説でもいい。あるいは他のヨーロッパの19世紀の小説でもいいだろう。こういった小説には、よく「卒倒するレディ(貴婦人)」が出てくる。美しく、かよわい女性は、ある種の衝撃には耐えられなく、人前で(主に男性の前で)卒倒する。映像で印象に残っている淑女の卒倒シーンは、E.M.フォスター原作、ジェイムズ・アイボリー監督の映画『眺めのいい部屋』で、ヘレナ・ボナム・カーター演じるルーシーがイタリアの街角で倒れる場面だ。彼女は美しかった。計算された絵画的な映像も素晴らしかった。
しかし、こういった「卒倒する女性」は、現代では皆無であろう、そう思っていた。だが、そうでもないらしい。
「耽美小説(マンガ)」とよばれる、主に男性同性愛を扱った、独特の美意識と深い芸術的造詣に根ざしたと思われる「文学作品」の愛好家の女性たちは、「卒倒」しないまでも「卒倒」しそうになった経験が多いらしい。「耽美小説(マンガ)」とは、実は独特のフォルムを持ったライトなポルノグラフィーに他ならない(と思うのだが)──そして僕にとってはポルノグラフィーとは最もエネルギッシュな芸術作品だと思うのだが──彼女たちにとっては「ポルノ」とは何か侮蔑的なものらしく、何かしらコトバの置き換えに励んでいる。そんな彼女たちが、リアルなゲイ・カップルやゲイ・ポルノ(といっても別にフィスト・シーンやハードなボンデージSMでもないらしい)を見たときに「卒倒」しそうになる。そんな言動や文章を何回か目にした。むきむきの筋肉質の男性同士が抱き合うのが耐えられないそうなのだ。

とても奥ゆかしいと思った。ハデなケバケバしい化粧で渋谷を闊歩する若い女性を見なれているせいか、ぜひそういった女性を見てみたいと思った。(興味本意ですみません)

それで、書泉グランデへ行ったのだ。「卒倒するレディ」を捜しに。どういう思考回路か知らないが、「審美的」に同性愛を語れる、聡明な女性。ウォーターハウスやバーン・ジョーンズなどのラファエル前派の描く、美しくはかない女性を捜しに。書泉グランデには同人誌コーナーがあり、そのテの女性がたくさんいるという情報をつかんで。

一歩踏み入れた。どおってことはない普通の本屋だ。
そして、エレベーターで同人誌コーナーがある階へ上がる。エレベーターのドアが開くと、そこは・・・・
REVENGE 異界・・・だった。(京極夏彦風)
肥った女、ガリガリに痩せた女、そういった両極端な女が、集団で固まりながら、もさもさと歩いている。服装も「意味不明」なもさもさとしたものだ。上目遣い、あるいは斜視気味のトローンとした眼が、それとは反対にサッと機械のように動く骨ばった手が、薄い本のようなものを漁っている。美しい女は皆無だった。彼女たちには年齢がなかった。ウォルター・ベイター『ルネッサンス』の中でモナリザを評したように、少女は中年女性よりも老いていた。みんなバージンかお粗末なセックスしか経験なく、これからもそうであろうという宿命を自ら受け入れているかのように。

自分の勝手なイメージとあまりにも違う「現実」を目の当たりにしたときに「卒倒」するのはいたしかたないと感じるようになった。




MOVIE さて、映画『テルレスの青春』も、そのテの女性、とくにムージルの原作を読んだことのない人たちにもてはやされている映画だ。そのせいだろうか、ゲイの人たちに敬遠されがちである。

残念なことだ。この映画は原作同様、かなりポルノグラフィックな作品である。もちろんハードコアではないし、ファック・シーンがあるわけではない。あるのは「支配」と「服従」という暴力的な、SM的な関係。それを覗き見るかのような倒錯。鳥の羽根でペニスの先を責められているような、切ないような、苦しいような、身悶えするような官能。まさにポルノグラフィックな想像力を掻き立てるエロティックな作品である。

映画のストーリーは(原作と混同しているかもしれないが)、全寮制の男子校生テルレスのクラスメート、バージルに対するアンビヴァレントな感情のメカニズムを追ったものである。弱みを握られたバージルは、クラスメートから残酷ないじめを受ける。集団リンチと言ってよいだろう。殴られたり、ゴミを食べさせられたり、鞭で打たれたり、ロープで逆さに吊るされたりと。まさにSMである。さらにバージルは、インド哲学に関心がある人物に、精神までも支配されていく──破壊されていく。儀式めいた究極のSMである。主人公テルレスは、クールに装いながらも、「バージルいじめ」に魅了されていく。

よくある解釈としては、バージル=ユダヤ人、彼を虐待する少年たち=ナチス、テルレス=一般市民、という図式になる。この解釈を採用するならば、『テルレスの青春』は、ますますエロティック作品となる。なぜなら、スーザン・ソンタグが明快に分析したように、ナチス(ファシズム)の美学は、SMの美学に直結する。”サド・マゾヒズムとくらべればファックもフェラチオも面白いだけのもの、刺激のないものになってしまう”(ソンタグ『ファシズムの魅力』

『テルレスの青春』のパンフレットには、女性が書いた解説がある。彼女は原作にあるテルレスとバジーニのベッド・シーンが省かれているのを残念に思いながら、ハヤリの”ポルノまがい”の耽美小説よりも”清々しい”『テルレス』の肩を持つと発言している。この部分がよくわからなかったのだが、自分なりに意訳すれば、彼女はファックやフェラチオの描写がないのはちょっとサービス不足だが、凛としたSM的美学を抽象的に表現している『テルレス』を評価する。ということだろう。




DIRECTOR 監督フォルカー・シュレーンドルフは、ドイツ生まれで、ニュー・ジャーマン・シネマの・・・・なんていまさらですよね。ギュンター・グラス(ノーベル賞おめでとう!)原作の『ブリキの太鼓』が代表作らしいのですが、まだ本を読んでいないので、映画も見ていません。(ただシュレーンドルフと『ブリキの太鼓』のことについては、かなり幼いころから知っていました。
何故かというと、子供のころジャパンというイギリスのバンドのファンで、彼らのアルバム『ブリキの太鼓』がシュレーンドルフの映画から採ったものだったからです。このジャパンのアルバムは、同時としてはかなり斬新な音の創りでデビット・シルビアンの「美意識」が感じられるものでした。あの腰が砕けたような歌い方は、子供心に「いやらしさ」を感じ、とても好きでした)

シュレーンドルフで気になることは、その原作のチョイスです。プルーストやマルグリット・ユルスナール(『ととめの一撃』)といったゲイ・レズビアン作家はもちろん、アトウッドの『侍女の物語』なんかを選ぶあたりに何か感じるものがある。『侍女の物語』(小説のほう)は、オーウェルの『1984』と同じような管理された近未来を描いたもので、そこにフェミニズムの視点が加わったもの。というのが無難で一般的な読みだろう。ただ僕が読んで面白かったのは、全体主義体制を肯定するために、自由主義体制だったころのポルノ(レイプもの)を見せて、昔はこんなに酷い時代だったのよ、と諭す場面や、料理の趣味を持った男性のことを、”昔だったらね、男はそんな趣味を持つこと自体が許されなかったんだよ。そんなことをしているとオカマって言われたんだ”などと言ったりするところだ。






音楽はハンス・ヴェルナー・ヘンツェ。現代音楽の作曲家の中でも飛びぬけて多作家で、交響曲やオペラといった古典的様式をもつ作品を多く作曲している。複雑精緻な音楽であることは、他の現代音楽と変わりないが、ヘンツェの場合は、耳になじみやすい。神経をすり減らすような過酷な不協和音の嵐に耐えるような音楽ではない。また『トリスタン』『アポロンとヒアキュントス』MUSIC オーデンのテキストによる『若き恋人たちのエレジー』といった、作曲者の性的趣向を暗示させるような作品もある。シュレードルフの『スワンの恋』でも音楽を担当した。映画関係では他に『弦楽のためのファンタジー』『エクソシスト』で使用された。個人的にはエンツェンスベルガーのテクストをテープで流す、不思議な音響を持つヴァイオリン協奏曲2番が気に入っている。


MEMO

『テルレスの青春』 (UPLINK)
ロベルト・ムージル 『若いテルレスの惑い』(中央公論社、岩波文庫、松籟社)
スーザン・ソンタグ 「ファシズムの魅力」(『土星の徴しの下に』収録、晶文社)
マーガレッド・アトウッド 『侍女の物語』(新潮社)
ギュンター・グラス 『ブリキの太鼓』(集英社)
マルグリット・ユルスナール 『とどめの一撃』(岩波文庫)



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