わが目の悪魔


A DEMON IN MY VIEW

まず、主演のアンソニー・パーキンス。そして映画のタイトルA DEMON IN MY VIEWを挟んで、次に原作者のルース・レンデル。タイトルロールはこの二人のビック・ネームが他を圧倒して現われる。
はっきり言って、他の出演者はどうでもよくて、音楽、美術、そして監督さえも二人を前にして、遠慮がちに、彼らのレイヤーが一段階低くなっている。

映画の全体的な印象は、ドイツのペトラ・ハフターが監督をし、ドイツ=アメリカ合作映画(余談だが、この表記、どういう意味があるんだろう?ピエール・ブーレーズがシカゴ交響楽団のために作曲したら、”仏=米音楽”になるのだろうか?)になっているにもかかわらず、どうしてもBBC制作のTVドラマをNHKで見ているような感じがしてしまう。メディアは関係なく、スクリーンで見てもそう思うだろう。(同じくレンデル原作の『身代わりの樹』も大女優ローレン・バコールが出演しているのにもかかわらず、同じく地味で”慎ましい”印象を受けた)

ストーリーはまるで原作者に脅迫でもされたかのように、バカ正直なくらい原作に忠実で、小説のエピソードもほぼ完璧に映像化され、ラストも無垢なくらい原作通りだ。
しかし、原作のエピソードを忠実に、完璧に網羅し、映画としての自立的なオリジナルなエピソードを加えるという誘惑に打ち勝ったからといって、原作の印象が忠実に伝わるか、と言うとそうでもない。それどころかズレまくっている。

映画では、観客へのサービスも兼ねているのか、不倫カップルのセックス・シーンから始る。この映画の重要人物の紹介と人間関係を出来るだけ説明的でなく「説明」した配慮だろう。
音楽は明るく、”アンソニー・ジョンソン”の希望に満ちた新たな生活の「船出」を感じさせる。

一方、レンデルの原作では、まず、”アーサー・ジョンソン”が地下室でマネキンの首を絞めるシーンから始まる。読者は本のページを開いた途端に、”アーサー・ジョンソン”(レンデル)の異様な世界に取り込まれてしまう。

ここでのズレは、かなり大きい。映画では、”アンソニー・ジョンソン”が引っ越してきた先に「狂人」”アーサー・ジョンソン”が住んでいた、結果として、”アンソニー”は変態性欲者”アーサー”を退治する「英雄」になる。そう感じてしまう。

原作では、”アーサー”が人知れず、マネキンの首を絞める「だけ」の大人しい生活を営んでいたところに、”アンソニー”が現われ、”アーサー”の慎ましい生活を破壊する。
確かに”アーサー”は以前、”絞殺魔”として殺人を犯していたが、現在では、マネキンと戯れることによって、害のない「単なる変態性欲者」として社会生活をしていた。そこへ”アンソニー”が侵入し、”アーサー”の生活を掻き乱し、彼を追いつめることになるのだ。
「正常な性的指向」を持つ”アンソニー”は、”アーサー”の「特別な性的指向」など当然理解することもなく、”アーサー”があれほど「愛していた」マネキンを無残にも焼いてしまう。
マネキンを失った”アーサー”は再び「人間の」女性の首を絞める。しかしそれは、”アーサー”が”アーサー”であるために必要なことなのだ。彼のアイデンティティなのだ。生きるためには、彼の生存の為には必要な「純真な行為」なのだ。
マネキンで「代替行為」をしていた小市民を再びモンスターにしたのは、”アンソニー”の余計なお世話、偽善的行為に他ならない。

そしてレンデルは、性的指向は「正常」だが、「不倫」を犯している人物に”アーサー”狩りを無意識に行わせ、結果として、その「不倫=不純」がラストで「純真な」サイコ・キラーを殺す原因になるという、すさまじい「皮肉」を見せている(さすがレンデル!)。

小説では、無垢で無力で無防備な”アーサー”が追いつめられていく姿に哀れみを感じ、同情を禁じえない。そこには小説のエピグラムで引用されたエドガー・アラン・ポウの『孤独者』が切実に響きわたる瞬間があるのだ。

ほんの子供のころから、私はいつも他の人達とは違っていた。
他の人達が見たものを、私は見ずにきてしまった。
情熱を、みんなと同じ泉から汲むこともできず
みんなと同じ源から悲しみを引き出すこともできず、
みんなと調子を合わせて、喜びに胸おどらせることもできず、
何をするにしても、一人きりで愛した。

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アンソニー・パーキンスはエイズで死んだ。この映画は、彼の遺作になってしまった。彼は最期まで「サイコ」の役者だった。
仮に、『わが目の悪魔』は『サイコ』の続編で、「完結編」であると「嘘」をつくとしよう。上手い具合に『わが目の悪魔』でアンソニー・パーキンス演じる”アーサー”は殺される。さらに、この映画の撮影当時には、すでにエイズの告知を受けていたであろうパーキンスが、渾身の力を振り絞って『サイコ』シリーズを完成させた、と気の効いた挿話を加えることも──可能だ。
実際、この映画での彼の姿は痛ましかった。着ているスーツがぶかぶかだった。肉体はすでに痩せ衰えているようだった。

精神異常者を演じきったアンソニー・パーキンスについては、野崎六助著『異常心理小説大全』(早川書房)に興味深い文章が載っている。ついでに言うならばルース・レンデルについての章もあり、さらにこの本で最も重要視され、深く明晰に、しかも愛情を持って考察されているのは、マーガレット・ミラーである。

『サイコ』で悲痛な異常者を演じ、『審判』では社会から不当な告発を受ける人物。『オリエント急行殺人事件』では、極度のマザーコンプレックスを持つ気弱な青年。『クライム・オブ・パッション』の狂信的な禁欲主義者。映画は見ていないが、やはり社会の不条理を描いた『キャッチ22』に出演。最後の作品が『わが目の悪魔』。

これらすべての役を、悲劇的なゲイの役であると想定したら、ゲイの人達から反感を買うだろうか?

彼は、エイズで亡くなった。
彼は、どの作品でも、眼が哀しそうだった。

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