ガダカ


GATTACA


「ヒトゲノムの地図は人類がこれまでに作った中で最も重要な地図だ」2000年6月26日、クリントン大統領はヒトゲノムの配列解読の終了に際し、こう発言した。会見にはセレラ社のクレイグ・ベンダー社長、衛生回線を通じイギリスのブレア首相も参加した。米英のトップが発表した全遺伝情報(ヒトゲノム)解読は、確かに、これまで治療困難とされる難病の治療や診断を前進させる画期的な出来事に違いない。
SF映画『ガダカ』は、こういった遺伝情報が実際に実用されている社会を舞台にしたロマンである。基本的にはクラシックなストーリーで、近未来におけるSF的状況とクールな映像が独特の雰囲気を醸し出すが、内容は、ある青年の成長物語=ビルディングス・ロマンに他ならない。設定されている近未来的状況は、遺伝子のデータによって成立している一種の階級社会であって、18、9世紀の身分制社会を想像すれば良い。野心溢れる若者が、不遇な現状を打破するために、一世一代の賭けに出る──非常にわかりやすいストーリーである。だからこそ、スタンダールやバルザック、あるいはディケンズを読むように、主人公(ヒーロー)に共感し、ストーリーの展開に胸躍らせ、感動する──仕組みになっている。
イーサン・ホークとユア・サーマンの「階級」を越えた愛は、「階級」というわかりやすい障害があるために、その成就は十分感動的であるはずだ。またイーサン・ホークとその弟の刑事の思いがけない(あるいは巧妙な)出会いは、競い合う兄弟=宿命のライバル、と言った、一見、近未来的状況には相応しくないような古い言葉──「因果律」や「絆」を思い起こさせる。そして主人公イーサン・ホークの生涯を賭けた夢の企てに寸前のところで暗い影を投げかける殺人事件の犯人とイーサン・ホークとの関係がどことなく「父」と「息子」の関係を思わせるのは考え過ぎだろうか。
イーサン・ホークを始め登場人物たちの暖かみのある人物の造形と希望を抱かせるラストには、20世紀に書かれた名高い近未来小説、例えばザミャーチン『われら』、ハックスリー『すばらしい新世界』、オーウェル『1984』、バージェス『見込みない種子』、そしてフィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』──すべてディストピアだ──等の重苦しいペシミズムから逃れているように思える。
多くの人たちは、これらのフィクションと同様、自分たちと無関係な世界のオハナシとして、ストーリーテリングの妙を素直に楽しめ、感動することが出来るだろう、"VALID"な人達は。


YOR ARE "VALID" OR "INVALID" ?


”ホモらしく見せかけるということは、正常な性欲の持ち主にとっては、四六時中微笑をたやさぬよう務めることと同じで、非常に神経が疲れるにちがいありません”

アントニー・バージェス『見込みない種子』(斎藤数衛・黒柳久邇訳、早川書房)

はこの映画を見たとき、非常に切実な思いがした。
『ガダカ』の設定では、限りなく絶対的な「基準」(階級)"VALID" "INVALID"が存在する。生まれた子供は、もちろんそんな基準を知らない。成長していくにしたがって、自分が"VALID"なのか "INVALID"なのかを知る。
この映画で子供時代のイーサン・ホークが、弟に身長の高さで負けたときの哀しそうな顔は、自分が "INVALID"であることを認めなければならない漠とした苦しみを抱いた顔である。彼は本当の自分を知る。そして彼がそのことで哀しむのは、もうすでに"VALID" "INVALID"の意味を十分理解しているからだ。すなわち自分が社会的に不利な集団(不利な、そして恥ずべき集団だと教えられた、あるいはそう理解していた集団)に属していることを知ったのだ。ちょうど、多様なマイノリティの人々が、自分がマイノリティに属する人間だと知ったとき(知らされたとき)のように。
”きみ、人間には二つの階級しかないんだ、心のひろい人間と、そうでない人間とさ。僕もそろそろ意を決して、好きなものと軽蔑すべきものとを断然きめ、好きなものをまもって、ほかの連中と浪費した時間をとりかえすために、死ぬまでその好きな連中と離れてはならない年ごろになったんだよ”

マルセル・プルースト『失われた時を求めて──スワンの恋』(井上究一郎訳、筑摩書房)

はこの映画を見たとき、非常にセクシーだと思った。
イーサン・ホークとジュード・ロウの関係。この男同士の関係。イーサン・ホークはジュード・ロウ(の替玉)になる。一方がもう一方を真似る。(この段階では映画『リプリー』を見ていないが、パトリシア・ハイスミスの "The Talented Mr.Ripley" はまさにこれと同じ関係である)
二人は、彼らの血液、尿を共有する。この映画では触れていないが、当然あらゆる体液を交換、共有しているだろう。つまり唾液、精液もだ。そして男同士の体液の交換共有は、最も甘美な瞬間であると同時に、現在の視点では最もリスキーな瞬間でもある。
その「危うさ」はたまらなくエロティックだ。
「ぼくたちって、相当いかがわしく見えるんだな」と、ディッキーが言った。トムはうなずいた。

パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』(佐宗鈴夫訳、河出書房)

ヒトゲノムの「正確」な解読によって、『ガダカ』の設定はもはやSFではない。善男善女は生まれてくる「セクシャリティ」をも選択するだろう(子供に「悪魔」と名づけるような「モノ好きな」親を除いて)。当然、同性愛の属性を持った人間は激減するに違いない。映画のイーサン・ホークと同じように、ほとんど「自然な」方法で受精した母体から同性愛者は生まれてくる。
はこの映画を見たとき、ヤラレた!思った。
イーサン・ホークの検尿を実施する医師の態度に、これほど重要な「意味」があったとは。「推理小説」的に全く素晴らしい仕掛けである。

もう一つ。多分マイケル・ナイマンの「仕業」だと思うが、指の数の多いピアニストの弾くシューベルトの『即興曲』はとても楽しい。


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