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グレアム・ヤング
毒殺日記


THE YOUNG POISONER'S HANDBOOK
1994年イギリス
監督:ベンジャミン・ロス
グレアム・ヤング:ヒュー・オコナー
サイグラー博士:アンソニー・シュール
ウィニー:シャルロット・コールマン
ビデオ:クロックワークス


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最近日本にもやっと本格的な毒殺魔が誕生したが(毒婦ってうまい言い方だな)、英国のグレアム・ヤングほど人気者になれるかどうかは疑問だ。この映画は実在の毒殺魔グレアム・ヤングの一生を描き、犯罪(とくに少年犯罪)、罪と罰、贖罪、精神の暗部、人生の意義、と言った重いテーマを投げかける一大ヒューマンドラマ・・・・。
ではまったくなくて、シニックに屈折して、ブラックな笑いを誘う、ちょっと邪悪な英国風コメディーである。

個人的な趣味を押し付けるわけではないが、これほど「楽しい」作品があまり話題にならないの(ならなかった)には納得がいかない。引き合いに出して悪いが、ゲイに人気のある同じ英国のデレク・ジャーマンやヘン(変)が売りのアルモドバルなんかよりずっと面白い。
まあ、ジャーマンにしてもアルモドバルにしてもインビな同性愛表現やイイ線いってる男のヌードはそれなりに「楽しい」場合もあるが、ハードコアを見なれている目には、それ以外(ヌード)ではどうなんだ、と言いたくなる。はっきり言って、陰気でうざい。
『グレアム・ヤング』にはそういった性表現やヌード、思わず反射的に目を背けるような残酷な暴力シーンは一切ない!全くない! しかし、それにもかかわらず、この映画は、「栄光のR指定」である。ジャーマンやアルモドバルの「毒」は、未成年でも「解毒」できるが、『グレアム・ヤング』の「毒」は、彼らゲイの監督の(一見)毒々しい作品よりも強力だということだろう。

まず、グレアム・ヤング本人について書いておこう。グレアム・ヤング(Graham Young 、本によってはグラハム・ヤングと表記)は英国生まれ、幼いころから毒薬に魅了され、化学や薬学に関する本を読みまくり、様々な実験を行っていた。彼の「実験」はエスカレートし、彼の家族や友人が次々に体調を崩し始める。
まさにアンファン・テリブル。
そして遂に継母が死亡。彼の「実験」が発覚し、これによってグレアムはブロードモア精神病院に送られる。このとき彼はまだ14歳。10年後、特別な治療により退院、写真会社に勤めるが、そこで同僚二人を毒殺、さらに他六人も毒殺しようとした殺人未遂で逮捕される。彼は熱心なヒトラーマニアだったと言う。
冷酷な殺人者にもかからわず、グレアム・ヤングは(映画になるほど)愛されている。
”ウィンブルドン市立図書館には、グレアム・ヤング事件を扱った本が四冊もあった。その一冊──ハークネスという男が書いたもの──は四百ページの長さで、二十四枚の白黒写真と、三つの付録と、いくつかの地図と図表がついていた。それは作曲家のアントニン・ドボルザークの標準的伝記より八十ページ長く、ロンメルの北アフリカ作戦に関する歴史的記述の決定版より、わずか七十ページ短いだけだった。”

ナイジェル・ウィリアムズ『ウィンブルドンの毒殺魔』(早川書房)
グレアムがこれほどまでに「愛される」のは、彼が大英帝国伝統の殺人方法、つまり最もエレガントな殺人方法である「毒殺」を行ったからだろう。英国人はこういった穏やかでノスタルジックな殺人を好む。事実、アガサ・クリスティの小説で最も利用される殺人方法は毒殺だし、ジョージ・オーウェルも「イギリス風殺人の衰退」と言うエッセイで「非のうちどころのない」殺人は「もちろん選ばれる方法は毒殺でなければならない」と書いている。
また彼の風貌も、アメリカの粗雑なヒッピー然としたシリアル・キラーと違って、スーツを着込み、髪をきちんと撫でたジェントルマンタイプである。ルックスもハンサムと言ってよい。
こうした言わば「国民的」な犯罪者を扱った映画はどうなるか。マジメなアメリカ人なら、犯罪のおぞましさ、犯人の狂気をこれでもかとリアリスティックに、シリアスにそして「悲劇」を忘れずに描くだろう。薄気味悪い『ヘンリー』や『悪魔のいけにえ』なんかが思い浮かぶ。ところがこの稀代の毒殺魔を扱ったイギリス映画は違う。非常にポップである。そしてなんとなくふざけている。シリアスどころか、ところどころで微笑(爆笑ではない→)してしまう(→だから)コメディータッチである。題材は近親者を殺害した少年の物語なのに、映画は一種のファルスになっている。

例えばグレアムが継母を殺そうと思う契機となった「ポルノ事件」。これはグレアムの姉の部屋にポルノ雑誌があったのだが、継母はグレアムのものだと思って彼を叩く。しかしグレアムは見に覚えがない。「あなたの他に誰がするの」と継母に問い詰められたとき、グレアムと目があったのは彼の父親である。このときの父親の居心地の悪そうな情けない姿と言ったら──思わず頬が緩んでしまう。
継母のタリウム中毒(アガサ・クリスティの『蒼ざめた馬』と同じだ♪)による死亡過程もまるでマンガだ。
また主人公グレアム・ヤングを演じるヒュー・オコナーのハンサムなルックスといったらどうだろう。まるで BelAmi のビデオに出てくるようなキュートな "Twinkle Boy" である。
目を丸くして、好奇心溢れる表情で、熱心に毒薬の「実験」に励み、記録を取るグレアム少年ほど愛らしい登場人物は他にはいない。彼の家族にしろ、会社の同僚にしろ彼以外の登場人物達はみんな醜い俗物である。
ボリス・ヴィアンじゃないが「醜いやつらは皆殺し」なのだ。好意を寄せるのは殺人犯人であるグレアムの方なのだ(実際のグレアムのサディスティクな性格や親ナチ的な思想については全く言及されない)。
彼はヒーローとしてこの映画で描かれる。
アングロ・マニアにとってもこの映画は見逃せない。グレアムのグレイのセーター姿や赤いブレザー、紺のロングコートなどまさにイギリスの少年スタイルだ。大量にケチャップをかけて食べる「フィッシュ&チップス」も、ジャンクフードが好きな僕にとっては非常に食欲をそそる。
またグレアム・ヤングが別名 Tea-cup Poisoner と呼ばれているように、お茶を飲むシーンが多いが、二回目の殺人が発覚する原因に(そして一見クールに描かれるグレアムが、例外的に焦りまくる要因に)そのティーカップが非常に効果的に使われている。
この映画で最も強調しておきたいのは、そのテンポ感だ。何しろ軽快。スムーズ。使われている音楽はセルジュ・ゲンズブールをはじめ、60年代70年代のポップス、実際のグレアム・ヤングが「活躍」した時代のものである。そういった古く、なじみのある、懐かしい音楽の「安定した」リズムに乗って、ストーリーは滑らかに一直線に進む。主人公の行動を次から次へとリズミカルに描いているだけである。余計な省察を求めず、真善美といった理想を披露せず、陳腐なラブシーンなんかで感情を鼓舞しない。
DVDでカスタマイズして見る場合は別だが、このテンポ感、時間の感覚はポルノグラフィーに極めて近い。主人公の一生がまるで一つの性行為のように、先に進むことが唯一の目的であるかのように描かれる。到達点はおのずと見えている。性行為なら「エクスタシー」、人生なら「死」である。映画を見た後思うのは性行為も人生も後腐れもなく、終結し、完結する──それ最高だ!

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