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巽孝之著 『ニューヨークの世紀末』
 ─ 文学、ゲイカルチャー、セクシュアリティ ─

筑摩書房
「わたしが生涯、堅固な仮面をつけ、それを鐙に外部から身を守らなくてはならなかったのは、必ずしもわたしの本質ならざるヘテロセクシュアルを演じるためではなく、むしろホモセクシュアルなのが発覚しないようにするためだった。ホモセクシュアルであることを恥じているわけじゃない、それが発覚したらいろんな誹謗中傷のえじきになるのを避けるため、そして生計を立て、望まれない仕事でもひきうけていくためだった」(チョーンシー273-274頁)。
 都市にたまたまゲイたちが暮らしているのではない、ゲイライフこそは都市的二重生活の隠喩なのだ。それは、扱い方次第でいくらでもハードボイルド的謀略の萌芽を内部から掘り起こすことのできる、都市文学の構造的条件でもある。

──第Y章ハードゲイ・ハードボイルドより


ハーマン・メルヴィルの『独身男の楽園と乙女たちの地獄』とマルセル・デュシャン「彼女たちの独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」の関係からスタートし、ニューヨークにおけるゲイカルチャーを鋭く論説していく。その射程は、文学から映画、思想史、そしてマドンナと幅広く、それらを結びつける「思考、論理」の「展開」はまさしく超絶技巧で、まるで推理小説を読んでいるようなスリリングな感興を味合わせてくれる。しかも巻末の参考文献は、それ自体、非常に有意義な第一級の資料になっている。

この本は6章からなっていて(「ニューヨークの世紀末」、「ジャズと札束とフラッパー」、「カメレオンのための朝食」、「ウォール街の悪夢」、「窓からベイブリッジが見える」、「ハードゲイ・ハードボイルド」)、どれも少なからずゲイ&独身者、セクシャリティについて触れらているが、とくに興味を覚えたのは第1章「ニューヨークの世紀末」と第6章「ハードゲイ・ハードボイルド」だ。

「ニューヨークの世紀末」では、前述のメルヴィル&デュシャンから、19世紀末から20世紀前半のニューヨークの「サブ・カルチャー」を同性愛/独身者と「都市」をキーに鳥瞰する。
むしろそうした匿名都市だからこそ、独身男性は必ずしも女性嫌いとなる必要もなければ同性愛に走る必要もない。ヘテロセクシャリティを捨てて、ホモセクシャリティを選び取るという決断は、必ずしも要請されないのである。それよりも、都市化のリズムに合わせて、ヘテロセクシャリティの特質を失わないままにホモセクシャリティのほうも大いに楽しむ感性がここで形成される。昼間の仕事のセクシャリティを、娯楽の時間にまでもちこまなくてもよい。
そしてここでのドラック・クイーンやフェアリーの言及がなかなか新鮮で、筆者の論説の「はなれわざ」にとても感激した。
しかし、自然に対する反自然の視点は、もともと自然という概念そのものが高度に制御された人工的な準拠枠であることを露呈させるためにのみ、選択されている。こういう批判的自然観こそが、キャンプ美学、キャンプ的想像力の名に値する。そして、このような視点からメルヴィルを見直せば見直すほどに、独身者たちがフェアリーたちと手に手を取って徘徊する十九世紀末ニューヨークのすがたとともに、二十世紀に入ってニューヨークへ移住したマルセル・デュシャンが、それこそフェアリーを連想させてやまない多重人格的ないでたちで女装したすがたが浮かび上がる。

「ハードゲイ・ハードボイルド」ではまず、トニー・クシャナーの『エンジェルス・イン・アメリカ』から「男と寝るヘテロ」という「高度に論理倒錯的な表現」を使用したロイ・コーンのエピソードが紹介される。ロイ・コーンは赤狩り反共主義者の弁護士で、ジョゼフ・マッカーシーの主席調査官に任命され、多くの共産党員を摘発してきた。その彼が、何とエイズに感染し、そして今度は自分が狩ってきた「少数派」として狩られる側になるのだ。
他方クシュナーの『エンジェルス・イン・アメリカ』は、そうした全体主義的弾圧の構造が、魔女狩りから赤狩りへ、ひいては同性愛者狩りへと、表層こそは異なれど時代ごとに着実に継承されていった歴史を、痛感させるのだから。
そこからさらに『M.バラフライ』の意味するものからサイードの「オリエンタリズム」を超えて「サイボーグ・フェミニスト」へ、ブレッド・イーストン・エリス『アメリカンサイコ』や映画『殺しのドレス』などから都市の二重生活を暴き、そして、ゲイリー・インディアナらの鋭く示唆に富んだ「読み」をへて幻惑的な、めくるめくニューヨーク新世紀末の薄明をイメージさせてゆく。

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ミステリマガジンのゲイ関連記事
 ─ 雑誌、特集記事 ─

2001年8月号
二十代のころ、バイセクシャルとしてカミングアウトした。悩みの多い、鬱屈した時期だったが、いま思うと、あのときあれだけの悩みをくぐり抜けておいてよかった。もう不安材料はなにひとつ残っていないからね。でも、自分を”ゲイ作家”とは考えていない。性的志向で人を定義するのは気が滅入る。八〇年代にはそれは政治的なものだったし、このごろはもっと悪い。マーケティング用のレッテルだ。
──ジェイク・アーノット(ミステリマガジン2001年8月号、松下祥子「英国ミステリ通信」より)


2001年8月号のミステリマガジンを読んでいたらジェイク・アーノットのインタヴュー記事が載っていた。アーノットが1999年に出版した『暗黒街のハリー』がBBCでテレビ化されるいう。
この作品は、60年代に活動していた実在のギャング、ロニー&レジー・クレイ兄弟を扱ったもので、ロニーがゲイであったことにヒントを得て、ゲイの主人公ハリー・スタークスが活躍する犯罪小説だそうだ。(このギャングを扱った映画にフィリップ・リドリーが脚本を書いた『ザ・クレイズ/冷血の絆』がある)

クレイ兄弟はあの時代が大好きで、ロニーは映画「ハルトゥームのゴードン将軍」を観て涙したという話だ。男の中の男で、しかもゲイだというんでね。大英帝国の英雄はゲイばかりだ。ゴードン将軍、アラビアのロレンス、ペイデン-パウエル将軍……。必要性からだろうな。たぶん、ゲイであることを隠していた精神的抑圧がさまざまな驚くべき行動となって表現の道を見出した、というところにぼくは興味を惹かれるのだと思う。
──ジェイク・アーノット

この記事のジェイク・アーノットの言葉がとても素晴らしかったので是非とも紹介したかった。
ミステリマガジンにはときどきこういったゲイ関係の話題が載ることがある。ついでにこれまでミステリマガジンで載ったゲイ関連記事をいくつか紹介しておこう。


1991年11月号No.427「ゲイフィクションの新しい波」

柿沼瑛子氏による「クロゼットから出た文学──アメリカン・ゲイ・フィクションの流れ」という第二次世界大戦以後のアメリカンゲイ文学史が掲載されている。これは永久保存版だ。ゴア・ヴィダール、トルーマン・カポーティからジョン・レチー、エドマンド・ホワイト、マイケル・カニンガム等の紹介、そしてストーンウォール事件やエイズ・パニックといった社会史にも言及されている。
他に北丸雄二氏による「ファッキン・ストレートが多すぎる」、
短編小説は、
  • デイヴィッド・レーヴィット『無償の愛』
  • クリストファー・デイヴィス『ボーイズ・イン・ザ・バー』
  • クリストファー・ブラム『媚薬』
  • エドマンド・ホワイト『生きながら皮を剥かれて』
が収録されている。
この号は古本屋で見つけたら即ゲットしよう(ちなみに作家特集はパトリシア・ハイスミス)

1992年11月号No.439「イギリス文学は面白い──最新ゲイ小説」
1991年11月号とともに手元に置いておきたい号だ(何しろ作家特集はマーガレット・ミラーだ)。ここでも柿沼瑛子氏による「ワイルドの子供たち──英国ゲイ文学の歴史」が非常に役に立つ。イギリスのゲイ文学を概観できる。
短編小説は、
  • トム・ウェイクフィールド『牡鹿』
  • ニール・バートレット『汝の右手を上げよ』
の二編が収録。


1990年6月号No.410「作家特集ジョゼフ・ハンセン」
  • ジョゼフ・ハンセン・インタビュー「ひげを生やしたゴシック・レディ」
  • 田川律「もっとも現実に近いフィクション」
  • 柿沼瑛子「ゲイ探偵の系譜(ハンセン以前以後)
  • ジョゼフ・ハンセン中篇小説『タンゴを踊るクマ』


1993年3月号No.443「さよならブランドステッター」
  • 特別寄稿エッセイ、ジョセフ・ハンセン「ブランドステッター、その誕生から最後まで」
  • 柿沼瑛子「ブラインドステッター・シリーズ全作紹介」
  • 柿沼瑛子編「ブラインドステッター名言集
  • ジョゼフ・ハンセン中篇小説『アンダースン少年』

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