THE MIDNIGHT MEAT TRAIN
BOOKS OF BLOOD



ミッドナイト・ミートトレイン
真夜中の人肉列車

宮脇孝雄訳 集英社文庫



ミッドナイト・ミートトレイン The Midnight Meat Train

ニューヨークの地下鉄で起きる凄惨な、あまりにも凄惨な連続殺人事件。被害者は全裸にされ、全身の毛を剃られ──頭髪はもちろん、腋毛、陰毛、睫毛や眉までも、そして産毛は焼かれて──、血を抜かれ、吊り革に逆さ吊りされていた。それはまるで……何か人肉処理場のような光景……。

あるとき、会社員レオン・カウフマンはふとしたきっかけで、その<人肉列車>乗り合せてしまう。そこで彼は肉切り包丁を振り回す殺人鬼マホガニーと対峙する。そしてそれは、さらに言語に絶する陰惨な悪夢、想像を絶する未知の世界の入口であった……。


クライヴ・バーカーの作風を代表する作品であり、スプラッター系ホラーの一大傑作。「血の本」の中では個人的には『丘に、町が』が一番気に入っているけど、まずバーカーを読むならこの作品がお勧め。何よりその目の眩むような非常に非情なヴィヴィットな描写に叩きのめされる。「活字版スプラッター・ムーヴィー」という最大級の誉め言葉に相応しい、無類の、無敵の筆致だ。
しかもそのイメージの連鎖が、途方もない想像力を羽ばたかせ、読み手の世界観に揺さぶりをかけてくる。

例えば、深夜の列車内という暗い密室で吊るされた血の滴る「ホットな」死体。これはまさにフランシス・ベイコンの『絵画1946』、あの巨大で真っ赤に彩られた動物の死骸=肉塊を喚起させる。
『絵画1946』、吊りさげられた肉塊の大伽藍を思わせる壮大なスケール、そしてあくまでも豪奢な色彩。(中略)
F・Bは語る。
「もちろん、我々は肉だ、潜在的な死骸だ。肉屋に入るといつも思うんだが、牛や豚のかわりに自分がそこにいないのが実に不思議だ」

浅田彰『F・Bのための未完のエスキス』
(ちくま学芸文庫『ヘルメスの音楽』より)
不思議なことは何もない。牛や豚と同じように、いや牛や豚の代わりに人間のゴージャズな死骸=肉塊が吊るされている。これはいったい……。
そこには、単に殺人という「掛け捨ての行為」があるだけでなく、食-肉という「肉への慈悲」(ジル・ドゥルーズ)がある。──人肉を食らう魑魅魍魎が跋扈する。
その描写が、その恐怖が、読む者の足元を掬う。価値観をグラグラと転倒させる。読者をあちらの世界へと瞬く間にトリップさせる。恐怖は、第一級の恐怖は、特別な麻薬を放出する。

さらに、この作品で感じられる(そしてバーカーの作品全体を通して感じられる)「平等的な感覚」。この作品における「被害者」は男女両方であり、人種的にもバラエティがある。ヒーローはカウフマンという名前でわかるとおりユダヤ系である。興味本位の視点から女性を強姦し乱暴するのでもなく、あるいは、特定のマイノリティへの憎悪や侮蔑を助長するような「煽り」からバーカーの作品は免れている。

また、「もしかしたら、(あの若者は)今頃、運転士の股ぐらに顔を近づけて、相手の一物を口にくわえているかもしれない」というようなゲイ・セックスのイメージを、さりげなく、ごく自然に描いている。
こういうところにもバーカーの作品を「読む」興味が俄然湧いてくる。バーカーの作品は真にモダン・ホラーである。

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下級悪魔とジャック The Yattering and Jack

悪魔にもサラリーマンと同じように序列や昇進、ノルマというものがあるらしい。上司の命令は絶対。規律や規範も煩い。潰瘍や心身症に悩む悪魔もいるという。決して気楽な稼業ではないようだ(笑)。
この物語は、ある中年男性に付きまとい、彼の魂を奪う役目を仰せつかった下級悪魔の奮闘ぶりをユーモア・タッチに描いたものである。

なるほど、悪魔とはこういうふうに人間に接近してくるのか、と衝動的に後ろを振り返ったり、壁をじっと見つめたくなる。(愛すべき)悪魔のキャラも立っている。多分作者には悪魔の知り合いがいるのだろう、とさえ思わせる。オーブンから頭のない七面鳥が出てくるシーンもまるで映像を見たかのような鮮烈なイメージを残す。荒唐無稽な感じは一切ない。それほど、リアルな描写なのだ。
そして皮肉な結末も、この下級悪魔にして、当然のなりゆき。ハッピー・エンド!

その他特筆すべきこと。最初のほうで主人公ジャック・ポロの娘が自分がレズビアンであることをカミング・アウトする。すると父親は困ったような顔をしながらも「まあ、妊娠はしないわけだね」と淡々と応える。その後も親子はクリスマスを一緒に過ごし、彼らの愛情は変わらない。こういうところにもバーカー作品の持つ自由闊達な感性が感じられる。
もっとも悪魔に打ち勝つような男は、自分の子供が同性愛であっても動じない強さを持ち合わせているものだろうが。

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豚の血のブルース Pig Blood Blues

グロテスクさと耽美さが同居したアルジェント風の作品、特に『サスペリア』を思わせる。眩いばかりの色彩感と背徳的な美。『サスペリア』の舞台が少女用バレエ寄宿学校であるのに対し、ここでは、<テザーダウン少年補導センター>という少年院が舞台になっている。そして何度も挿入されるイメージは少年の裸体だ。三島由紀夫がホラーを書いたらこんな感じになるかもしれない。

元警官(pig)のレッドマンが新しい職場<テザーダウン少年補導センター>に赴任するところから物語が始まる。その少年院は無能な職員と抑圧的な精神科医レヴァーサールが支配していた。
この女(レヴァーサール)は何かというと罪の意識を持ちだしてくる。だが、別に意外なことではない。精神分析医はこの言葉をお題目のように唱えるのだ。昔の狂信的なキリスト教信者が、地獄の業火を相も変わらぬお説教の題材にしたのと似ている。ただ、精神分析家の場合は、使う言葉があまり派手はでしくないだけだ。しかし、基本的には同じことをいっている。教えを守りさえすれば、どんな病でもたちどころに治ってしまう。そして、見よ、天国の門は、正しい者の前に開かれるのだ。

p.105-106
ここでレッドマンはトマス・レイシーという少年に興味を抱く。彼は少年たちにいじめられ、レヴァーサールは彼を「不健全な」少年と見なしていた。少年と信頼関係を結ぼうとするレッドマンに、レイシーは、「ヘネシーが戻ってくる」と口走る。レヴァーサールによるとヘネシー少年は数ヶ月前に少年院を脱走したという。しかしレイシーはヘネシーは農場の豚小屋で首を吊ったのだという。
豚小屋には巨大な雌豚がいた。まるで少年院の主のようだった……。


レイシー少年は明かにゲイとしての属性を持っている。レヴァーサール女史が彼を「不健全」と呼ぶのはそのためだ。彼女はレイシーとヘネシーがいっしょに何かをやっていたこと──ドラッグだかマスターベーションだかと口を濁らせながら、嫌悪の表情で──を仄めかす。そしてレッドマンはそんなレイシーに「少女のような顔」を認め、彼に愛情を感じる(作者バーカーはさらにレッドマンにレイシーの裸体を欲望させる)。

また、突然いなくなったヘネシー少年は黒髪の美少年と形容されている。彼の特異な振る舞いと特異な思想(やっぱりニーチェの影響がある)、レイシーとの関係はまさに耽美的だ。
だからラストの想像を絶するシーンは、グロテスクの極みなのか、それとも、退廃的(退嬰的か)な異形の美を描いたものなのか、読み手の判断が分かれるところだろう。
どちらにしても非常なショックを呼び起こす強烈なシーンだ。

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