THE INHUMAN CONDITION
BOOKS OF BLOOD



ゴースト・モーテル


大久保寛訳 集英社文庫




ゴースト・モーテル Revelations

「愛のスローターハウス」──トルネードのため巡回牧師夫婦が泊まったモーテルの部屋はかつてそう呼ばれていた。今から30年前、そのモーテルにある夫婦が泊まり、妻が夫を射殺した。殺人を犯した女性サディは、とても潔かった──犯行を否定しなかった、精神錯乱を申請しなかった、殺したかったから殺した……そう言い切った。
そんな彼女を「ふてぶてしいアマ」と見なした当局は死刑を求刑し、彼女を電気椅子に座らせた。

30年経った今、サディは幽霊として惨劇のあったモーテルに戻ってきた。彼女が殺した夫バックの幽霊を引きつれて。かつて夫婦であった「幽霊」は、彼らの結婚生活がなぜ殺人で終わったのか、その理由はなんであったのかを「明かにする」(Revelations)するためのチャンスを与えられたのだ。

しかしそこには一組の夫婦が泊まっていた。狂信的な牧師ジョンと彼の横暴な振る舞いに怯える妻ヴァージニア。
やがて、幽霊夫婦と人間夫婦との間に奇妙な交感が始まる……。
「ああ、いつもそうなのよね」サディが不意に言葉をさしはさんだ。「女が真実に近づくと、男っていつもそう言ってごまかすのよね。”きみは疲れてるんだ”って言って。”少し眠ったらどうだ?”」

p.162
バーカーはなかなかのフェミニストだ。この作品を読むと、それがよくわかる。もし貴女がホラー特有の残虐シーンや血みどろのグロさでもってバーカーを敬遠しているならば、このコメディ・タッチの作品から読んでみたらどうだろうか。
たしかにこの作品でも殺害シーンはある、血も飛び出る。 しかし殺されるのは、殺されてしかるべきイヤな男だ。 バカなやつらは皆殺し、というわけでもないけど、そこには映画『テルマ&ルイーズ』のような爽快感がある。
「馬鹿な女ね」サディはヴァージニアに言った。「抵抗するのよ、さもないとまた同じことされるわよ。男に一センチでも譲ったら、国の半分をぶんどられるんだから」

p.163
ここに出てくる二人の「夫」は本当にどうしようもないやつらだ。サディに殺された男バックは、幽霊になってまでも女を強姦しようとする(幽霊が肉体的にだ。すごい皮肉かも)。
まあ、30年前の「男の論理」と言ってしまえばそうなのかもしれないが、要するに「男らしさ」を自分勝手な論理でもって、何でもかんでもベッドの上で証明しようとする単細胞的思考。まさに時代錯誤の滑稽な振る舞いだ。

もう一人はもっと性質が悪い。この「洗練された時代」(サディの言)に、大袈裟な言動、空疎で悪意のこもった言葉で女=妻を抑圧する狂信者。こちらは精神的に強姦するタイプだろう。
どちらの男にしても女性の意思や感情をまったく尊重していない。

だから妻たちは、女たちは連帯しなければならない。人生の先輩、殺人者の先輩であるサディのヴァージニアに対するアドヴァイス「それが賢明?」という言葉は実に説得力がある。

どこまでもバカな男を殺して深まる女同士の絆。いいじゃないですか! もっとも女同士と言っても片一方は「幽霊」なのだが…。
彼女たちの友情に乾杯!。

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欲望の時代 The Age of Desire

ヒューム研究所で発見された惨殺死体──肉を引き裂かれ、心臓が抉り取られていた。まるで獣に襲われたようだった。唯一、動物の仕業ではないことは、徹底した性的暴行──膣周辺の打撲、ぶちまかれたおびただしい量の精液──がされていたことだった。傷害と強姦は同時に行われた。
やがて警察は被害にあった研究者が「ブラインド・ボーイ・プロジェクト」という秘密の研究に携わっていたことを知る。 研究所には無数の猿たちが実験用に檻の中で飼われていた……。


この作品にはバーカー流のセックス、つまり本来の意であるエロスが充溢している。同時にそれは死(タナトス)を呼び覚ますことも意味している。最初はちょっと滑稽に思えた物語も、次第に、哀しい結末を予感させる。
「恋をすると、目では見ない、心で見る、
だから翼をもったキューピットは盲目に描かれている、

p.276
この作品でキーになる「ブラインド・ボーイ」とはキューピット(エロス)のことで、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』から取られている。主人公はジェロームという男。彼は人間性を無視した人体実験によって催淫剤を投与され、自分ではどうにもならない押さえ難い性衝動を持つ狂暴な人間にされてしまう。

彼が憐れなのは、その特別な性衝動が永遠に満たされことがなく、飢えや喉の乾きのような渇望に始終苛まれていることだ。しかも彼には罪の意識があり、さらには死の予感=破滅まで感じ取っているのだ。ここには、ある種のエロス、特別なエロスを断罪された者の悲哀が感じられないだろうか。
だが、もはや体がなんだというのか? 体なんて、そそり立つ記念碑のような肉茎の台座にすぎないではないか。頭など無だ。心も無だ。

p.285-286

そ・れ・に・し・て・も・だ。「性的人間」と化したジェロームは男女問わずファックしまくる。ただし、彼を「獣」に変えた女性研究者の惨殺は自業自得としても、他の女性の強姦は未遂に終わる。というより、そういう場面は(女性研究者も含め)具体的には描かれていないのだ。

代わってあるのが男性をファックするシーン。とても詳しい……頭を押さえつけ、ズボンと下着を剥ぎ取り、そしてインサート。
しかもそれだけでなく視点はファックされている男(ボイル)に変わり、恥辱と痛みに耐えながらも、感じてはいけないはずの快感、彼の許し難い部分が頭をもたげる。ボイルはジェロームに見透かされ、「愛情の対象」にされたのだ(何故ボイルだったのか?)

全体的にみても、この作品に漂うエロスはゲイ的なものだ。猿たちが繰り広げる饗宴(Three Ways する猿とかね)がそれを象徴している。そこにW.H氏にラブレター(ソネット)を書いたシェクスピアの『夏の夜の夢』が絡む(『夏の夜の夢』といえばそれを音楽化したのがメンデルスゾーンとベンジャミン・ブリテン)。

また、この作品で描かれる「禁断の果実」はエヴァが蛇から唆されたリンゴではなく、イチゴだ。バーカーお気に入りの画家ヒエロニムス・ボッスの『快楽の園』にはイチゴを貪っている男がいる。さらにその絵には、二つの耳にはさまれたナイフという明かに男根を模した図がある。そして音楽地獄。

その絵の中に、男根を突きたて、イチゴの匂いに誘われ、ラジオの音楽に悶える「ジェローム」が見当たらないだろうか。

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