私たちにとって、性の転換は夢物語であり、恐怖である。私は短編『マドンナ』(1985)で、性の逆説と、性の転換を描こうとした。
「逆もまた同じ(ヴァイス・ヴァーサのV)」
『クライヴ・バーカーのホラー大全』(日暮雅道訳、東洋書林)
都市の中にある異界──閉鎖され廃墟と化した公営プールに、彼女たちは住んでいた。
ジェリー・カラコーンはその公営プールを娯楽施設に改良すべく、投資を募っていたが、彼の投資話に乗ってきたのはエズラ・ガーヴィ──汚い手段で金を稼いできたいかがわしい男だった。
二人の「男」は荒廃した「渦巻き状」のプール施設を訪れる。彼らを待っていたのは全裸の少女たち、奇怪な赤ん坊、そして「マドンナ」だった。
少女に誘惑されセックスをする(強要される)二人の「男」。少女と交わったことによって彼らは変身していく……「男」から「女」へ。
……二人はそれぞれ別々の運命を選択する。
バーカーの数ある「変身もの」の中でも、とりわけ印象的で考えさせられる作品である。ここでは「異性」という「怪物」(メタファー)に変身してしまった人物たちの恐怖と苦悩、その解放を描いている。
一人の男は、その(新たなイメージに編み直された)性転換を受け入れる。
この変身した体──割れ目、この滑らかな肌、この奇妙に重い乳房は、すべておれのものなのだ。
(中略)
だが、こんな目にあわされて、かえってよかったのではないだろうか。これからは、男であることにしがみつかなくてすむのだから。富や権力と同じように、目の前にぶら下がっていた男らしさが、誰かの手で奪い去られただけのことなのだ。
(中略)
怖くはなかったが、有頂天になっているわけでもない。赤ん坊が自分の体に順応するように、ジェリーはこの既成事実を受け入れた。これからさき、得をするか損をするかは、別の話だ。
p.152-153
ジェリーは
「目の前に広がる新しい領域、新しい世界に飛びこむ覚悟を決める」(クライヴ・バーカー『クライヴ・バーカーのホラー大全』より)。
しかしもう一人の人物ガーヴィーは、自分は女性が好きだが
「自分がそのひとりになることは受け入れられない。男性性だけでなく、彼という存在自体に対する脅威と感じる」(同クライヴ・バーカー)のだ。
細胞に取り憑いたこの狂気を消し去る薬を買う。外科医に余分な部分を切り取ってもらい、失われた器官を縫いつけてもらう。
(中略)
風は冷たかったが、血は熱かった。自分の体に肉切り包丁を突き立てると、燃える血がほとばしった。
(中略)
おれの死体を見るのは、どうせ魚だけなのだから。水に飲まれたとき、最後に彼は祈った。死神が女ではありませんように、と……。
p.147-148
バーカーの作品が素晴らしいのは、解答を二つ用意したことだ。性転換を受け入れる受け入れないは、まったく、個人の判断である。そしてこのことはトランス・セクシュアルに関する認識を、まともな方向へ、真摯でこうあるべきだろう議論へと導いてくれる。
当然、「やおい」のように、セクシャル・マイノリティを戯画し、愚弄し、その苦悩を弄び、ゲイ男性間の「関係性」を単純化矮小化する、つまり対象をレイプするような「文章上のハラスメント」を、バーカーはしていない。
最後の詩のように美しい文章。別種の人生を歩もうとした無防備なジェリーの生きる場所はどこだろうか。
前方に光が見える。距離は見当がつかなかったが、そんなことはどうでもいい。あの光の場所にたどり着く前に溺れ死に、旅路の半ばで挫折しても、それがどうだというのだ。ジュリーが長いあいだしがみついてきた《男性神話》と同じように、死もまた不確かなものだった。人間の言葉は、覆され否定されるためにある。地底は明るく、一面に星が輝いている。そうでないとは誰にもいわせない。どんどん光が近づいてくるなか、ジェリーは大きく口を開け、渦巻きに向かって声を上げた。その叫びは、生と死の逆説を讃える讃歌だった。
p.157
「そうでないとは誰にもいわせない」。このジェリーの言葉ほど悲痛な「逆説」はないであろう。