あわれ彼女は娼婦
Tis Pity She's a Whore
(1627)
ジョン・フォード / John Ford
小田島雄志訳、筑摩書房世界文学体系89
<ヒポリタ>
──熱い、地獄の火のよう、──だけど死ぬ前に、──ああ、むごい炎、──私の呪いを受けるがいい。おまえの結婚の臥所が心の拷問台になれ、復讐に血が燃えて沸騰せよ、──ああ、胸が、たえがたい炎、──おまえは生きて私生児の父親になれ、彼女の腹からは化け物が生まれよ、──二人とも罪に汚れて死ね、憎まれ、軽蔑され、憐れみもかけられず、──おお、おお。
<フローリオ>
何というひどい女だ。
<リチャーデット> 色情と高慢の最後だ。
── 第四幕第一場 ──
スーザン・ソンタグが<キャンプ>として列挙した中には、ルキノ・ヴィスコンティによる『あわれ彼女は娼婦』の演出が含まれている(「キャンプについてのノート」)。近親相姦と血腥い復讐を扱ったこのフォードのドラマは、ヴィスコンティ演出により、さぞかし<キャンプ>的な人工美に彩られていたに違いない。実際にその劇を観た鈴木力衛氏は、月報でこう書いている。
ヴィスコンティ演出の主眼は、ジャン・ルイ・バローの主張する綜合演劇の線をねらったようで、装置、衣裳ともに豪華ケンラン、演技もできるだけはでに、観客の視覚、聴覚のみならず、五感のすべてをゆすぶるよう要求したとのことでした。
──フランスで上演された『あわれ彼女は娼婦』をめぐって
ストーリーはイタリア、パロマの青年ジョヴァンニと彼の妹のアナベラの近親相姦を中心に、陰謀と復讐が渦巻く血で血を洗うドラマが展開される。実に陰惨なドラマで、特にジョヴァンニが妹の心臓を剣に突き刺し、それでもって相手に襲いかかるところなんてホラー並みのグロテスクさだ。
こういうドラマを子供の頃から観て/読んでいると、ルース・レンデルやクライヴ・バーカーみたいな作家が生まれるんだなあ、と改めて思った。
そう。よくエリザベス/ジェームズ1世時代の演劇は、シェイスクピア以外日本人に馴染みがない、と言われているが、海外ミステリーファンならそんなことはないだろう。特にP・D・ジェイムズやルース・レンデルらの作品を読んでいると、ウェブスターやフォードへの言及やその引用が盛んに見られる。ジェイムズの『皮膚の下の頭蓋骨』なんて、エリザベス朝演劇名セリフのオンパレードと言ってよいだろう。
多分、こういった古典悲劇作品自体が──シェイクスピアもそうだが──ミステリーと親和性があるのかもしれない。この『あわれ彼女は娼婦』でも、「推理」めいたところがあるし、様々な「動機」を内に秘めた登場人物たちを配し、緻密なドラマが織り成される。しかも単に暗い雰囲気だけではなく、例えばバーゲットのバカぶりを笑うユーモラスなところや、教会権力──人間の知、すなわち「哲学」を危険視している──に対する諷刺なんかも効いていて、こんなに古い作品でありながら、とても面白く──エンターテイメントとして──読めた。また示唆に富んだ印象的なセリフに溢れており、作家だったら自作に引用したくもなるだろう、なんて思った。一部紹介しておこう。
しかしフローリオさん、言葉の暴力は不機嫌を知らない鳩でさえ怒らせるものですよ。
── 第一幕第二場 ──
貞節な女性たちが、処女と呼ばれるたわいもないものを貴重な損失のように思うのはなぜだろう。失ったところで風通しがよくなるぐらいなものだ。そしていぜんとしておまえはおまえだ。
── 第二幕第一場 ──
そのような侮蔑にみちた言葉は、あなたのつつましさにも年齢にも不似合いだ。
あなたさまは鏡ではございませんでしょう。そうでしたら、あなたさまを見て私の言葉を化粧しましょうに。
── 第三幕第二場 ──
痴人と死
Der Tor und der Tod
(1894)
フーゴー・フォン・ホフマンスタール / Hugo von Hofmannsthal
檜山哲彦訳、国書刊行会ドイツの世紀末1「ウィーン 聖なる春」
おれは人工をもてあそんだがため、
死んだ眼で太陽をながめ
死んだ耳で音を聞くようになった。
16歳にしてすでに完成された典雅な詩を発表し、世紀末ウィーンの寵児となったホフマンスタール。ユダヤ系の何不自由のない裕福な家庭に育った彼の作品には、しかしどこか苦い後味を残す。喪失感と若さに似合わないため息の連続。もっともその「優しく、哀しみとともに老いる」感覚こそが得難く、それは倦怠感となんとも言えない甘さが綯い交ぜになっている独特のもの──愉しい不健康さだ。
この『痴人と死』は、ある青年が、真実の生を味わったこともなく、真の苦悩に身を貫かれたこともない自分のことを延々と被害妄想気味に省察し、そこにヴァイオリンの音とともに「死」が忍び寄る、というもの。
「死」と「ヴァイオリン」とくれば、多くの人はシューベルトの『死と乙女』を思い出すだろう。実際、この文章を読んでいると、シューベルトの音楽、特に2楽章のあの旋律が自然と頭の中で鳴り響いてくる。それくらいこの雰囲気的には合っている。
ただ……ただ、読みながら、おいおい、何一人でナルシスティックな妄想に酔っているんだよ、君のところは近侍もいる裕福な家じゃないか、何が「不満」なんだ、と、じれったくなったことも確かだ。
『痴人と死』は、当時の若者の心を捉え熱狂的に読まれたそうで、また日本では森鴎外が翻訳したりして文学青年御用達のロマンティックなイメージがあるが、ぶっちゃけた話、これってただ単に「ひきこもり」の戯言ではないだろうか。「真実の生を味わったことがない」っていうのは、実は「真実の性(セックス)」を味わったことがないのをカッコつけて──比喩で──言ってるだけであって、傷つくのを恐れ生身の人間との恋愛の「煩わしさ」を避けているだけの。だから欲求不満が溜まり、何か善からぬコトをしているのでは、と勘ぐってしまう。
善からぬコト……
別の見方をすれば、例えば最後の
たとえば、夢見るひとが
夢の感覚の過剰にめざめることがあるように、
俺はいま、生の夢の感覚にあふれ、
死へとめざめゆくのだ。
という有名な個所は、その「過剰」といい「死へのめざめ」といいバタイユ経由の視点で見れば、これこそ性(セックス)の行為、あるいは「エクスタシー」と関係がないだろうか。
つまり僕の勝手な解釈は、これは主人公クラウディオがマスターベーションの妄想を限りなくエレガントに綴った、世紀末ウィーン版「ポートノイの不満」、つまり「クラウディオの不満」に他ならない。
たとえ、自然の恵みの息吹にふれ
心動かされることがあっても、あまりに醒めた心は、我を忘れることもなく、
ただちに言葉で名付けてしまい……
すると、やってくるのは幾千もの比喩、
もはやそのとき、身を委ねるという幸福は消える。
バッコスの信女
BAKKHAI
エウリピデス / Euripides
松平千秋訳、集英社ギャラリー「世界の文学 古典文学」
『バッコスの信女』は排除の悲劇である。周辺にある者たちが王を放逐し、滅ぼすのである。
ピエール・ヴィダル=ナケ『ギリシア悲劇と政治』(橋本資久訳、現代思想1999・8 特集「甦るギリシャ」)
テーバイの王ペンテウスは、ディオニュソスを排除しようとした。アジア的異邦人あり、淫らで秘教的である新来のディオニュソス神を崇めることなど──「保守派」ペンテウスにとって──出来ないからだ。しかしどれほどディオニュソスが異端で既存の風紀を紊乱しているといっても、実はペンテウスとディオニュソスは血が繋がっている。ペンテウスの母アガウエとディオニュソスの母セメレは先代テーバイ王カドモスの二人姉妹。ただディオニュソスはセメレとゼウスの間に生まれた神の子であるということだ。
それにもかかわらずペンテウスはディオニュソスを捕らえ牢獄に閉じ込める。
<ペンテウス> しかしおまえ(ディオニソス)はなかなかの男前だな。女どもには好かれよう。もっともそれが目当てでこのテーバイに来たのであろうが。髪の長いのは相撲などには縁のない証拠、顎まで垂らして、色気たっぷりの顔付きじゃ。その肌の白さも、ことさらに心をつかって、陽に焼けぬよう、日蔭ばかりを歩いているせいに相違ない。男前で女を釣ろうというのであろう。
そこでディオニュソスによる手の込んだ凄絶な復讐が企てられる。ハンサムな神は、ペンテウスが忌み嫌っていたディオニュソス信者たちの狂態を、魅惑的なものと見えるようペンテウスを洗脳する。そしてまるで麻薬の禁断症状に陥ったかのようなテーバイ王を、言葉巧に女装させ、信女たちのもとへ向かわせる。ペンテウスは次第に錯乱していく。
<ペンテウス> どうも陽が二つに見えるような気がする。いや陽ばかりではない。このテーバイの七つの門まで二重に見えるぞ。先に立つお前の姿が牡牛に見える。頭には立派に角が生えている。だいたいお前は初めから獣であったのか、今はまったくの牡牛の形になっているぞ。
<ディオニュソス> 神様がわれわれに付き添って下さっているのです。これまではご機嫌を損じておられたが、今はわれわれの見方なのです。ようやくあなたも正しく物を見えるようになられました。
しかしそんなテーバイ王を待っていたのが、凄絶で血みどろの死だった。バッコスの信女たちに取り囲まれ、ペンテウスは手足をもぎ取られ八つ裂きにされる。彼女たちは血まみれで王の肉片を投げ合っている。……しかも先頭に立って夢中で狂喜のうちに彼を殺したのは、ペンテウスの母アガウエだった。常軌を失ったアガウエはペンテウスの首を杖に突き刺し、それを持って王宮へと帰ってくる。「他者」を「排除」しようとした君主は、こうして滅ぼされた。
『バッコスの信女』をモチーフとして取り入れた小説にドナ・タートの『シークレット・ヒストリー』(扶桑社文庫)がある。ここでも「他者」の弱みに付けこみ暴君のように振舞っていた人物が、バッコスに憑かれた人々に復讐される。
われわれは宗教的エクスタシーは原始的社会のなかにしかないと考えている。文明の進んだ社会にこそ頻繁に見られる現象なのに。ギリシア人はわれわれと大してちがってやしない。彼らは非常に礼儀正しく、高度な文明を持ち、抑制のきいた人々であった。にもかかわらず、嵐のような熱狂がしばしば社会全体に吹き荒れた──ダンス、精神錯乱、虐殺、幻影──ともかく、そのうちの何人かは──その狂気状態に自由に出入りすることができた。
ドナ・タート『シークレット・ヒストリー』p.70-71(吉浦澄子訳、扶桑社文庫)