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”できたらあの子の力になってやってくれ。いい子だよ。ちゃんとした人のもとで育ててやるべきだ。大きくなっても、おれのようにならないから心配しなくていい”
ストーリー
「ロン・ギャラウェイの妻が最後に彼を見たのは、四月のなかごろ、土曜日の晩だった」
ギャラウェイは出かける前に妻のエスターと軽い痴話喧嘩をしたものの、「おやすみ、子供たち」と二人の子供に声をかけ、家を出ていった。長年の友人たちの待つロッジへ向ったのだ。そしてそれきり消息を絶ってしまった。
ロッジでギャラウェイの到着を待っていた友人たちは、彼が最後に立ち寄ったと思われるハリーの妻セルマ・ブリームと連絡をとる。だが、友人はセルマの衝撃的な告白を聞くことになる。彼女は妊娠をしていて、その父親はロン。ギャラウェイ。彼女は夫のハリーを裏切り、ロンと関係していたと。そしてそのことをロンに告げたばがりだと。
やがてエスターのもとへロンの悔恨の手紙が届き、崖から車ごと湖へ飛び込んだロンの溺死体が発見される。
わたしの心に、殺す風が
遠くの国から吹いてくる。
なんだろう、あの思いでの青い丘は、
あの塔は、あの農園は?
あれは失われたやすらぎの国、
それがくっきりと光って見える。
幸せな道を歩いていった
わたしは二度と帰れない。
A.E.ハウスマン「シュロップシャーの若者」
A.E.ハウスマン(1859-1936)の詩集「シュロップシャーの若者」はイングランドの中西部、草深いシュロップシャー州から大都会ロンドンへ出てきた若者が、故郷へのノスタルジアを託す想定で、美しい自然描写、若者たちの生と死、そして愛が歌われている。
この美しくて、どこか郷愁を誘う詩はまさに「殺す風」のイメージにフィットしている。まるで詩人がミラーを読んで献呈したのでは、と思うくらいだ。「殺す風」は「鉄の門」や「狙った獣」のような強烈なサスペンスはなく、穏やかな口調で登場人物たちの運命がゆっくりと、ときに生々しくそして激しく、ときに優しい慈愛とあふれる共感を持って語られる。
あれこれとスポーツに励んでいるにもかかわらず、三十代の半ばを過ぎたいまでもまだ、彼の動作にはぎこちないところがあり、その丸顔には、十代のニキビと思春期の不安が名残をとどめていた。
ロン・ギャラウェイ
善良なるハリー、いつも最後のシャツの一枚まで友達に与える気でいるひと・・・というか、ポーカーで負けて、取られてしまうんだわ。ハリーは負けっぷりいいのよ、だからこそみんなにあれほど好かれるんじゃなくて?でも、負けは負け。ハリーはいつも船に乗り遅れるんだわ。
ハリー・ブリーム
「彼と知りあったとき、わたしはもう三十を過ぎていたでしょう・・・それまで真剣に求婚されたこともなかったし、これが最後のチャンスだとわかっていたの・・・そう、豊かな人生を、子供のいる家庭を獲得する最後のチャンス・・・ああ、ほんとにわたし、子供がほしくてたまらなかった」テーブルに押しつけられている大きなおなかに目を落として、彼女は弱々しくほほえんだ。「こんなにつらいものだとは夢にも思わなかったわ」
セルマ・ブリーム
何人かの論客がいうように、普通小説のような、とくにスコット・フィッツジェラルドの小説のような雰囲気が、たしかに感じられる。夢が潰え、その残照にかろうじて身をおいている敗北した男と女。セピアカラーの懐かしい思い出。冒頭で引用した子供のことを「いい子だよ」というセリフを読んだときには目頭が熱くなるのを感じた。ハウスマンの美しい詩とあいまって、これほど胸をいっぱいにさせるミステリはそう多くない。
にもかかわらず、「殺す風」はミラーの作品のなかでもっとも本格ミステリに近い。犯人側に綿密な犯罪計画があり、それがほとんど達成されていた。そしてそのことによって、彼(あるいは彼女)は、やすらぎの国を失い、もう二度と帰れなくなってしまった。