狙った獣
"BEAST IN VIEW"
"BEAST IN VIEW"





死はドイツから来た名手彼の眼は青い
彼はお前を鉛の弾丸で射つ彼はおまえを正確に射つ
家に住む男がいるきみの金いろの髪マルガレーテ
彼はぼくらに猟犬をけしかける彼はぼくらに空中の墓をくれる
男は蛇とたわむれるそして夢みる死はドイツから来た名手


パウル・ツェラン『死のフーガ』




”血があまりにもきれいで、二度と結ばれることのない真っ赤な無限のリボンみたいだったから”
 

1955年のMWA賞に輝いたマーガレット・ミラーの代表作で、メイド・イン・アメリカの優秀さをまざまざと見せ付けた傑作のひとつ。発表された年代の古さをまったく感じさせない。それどころか現在でもこの作品を越えるサイコロジカル・サスペンスは、そう多くないだろう。
作品の質の高さは、凡百のサイコ・スリラーの追随を許さず、魔術師のように言葉を操り、登場人物の心理に深いメスを入れる Tour de Force は誰にも真似できるものではない。プロットは入念に練られ、構成は洗練を極め、映像的な場面展開と暗示的な言葉を駆使し緊張感を保ちながら、ラストのカタストロフィーまで一気に読ませる。ミステリー・マインドあふれる大掛かりで大胆なトリックをあくまでフェアにプレゼンテーションした世界最高のミステリ!
ミステリのデファクト・スタンダードと長く読まれるべき古典だ。


ストーリー

ホテルで一人暮らしをしている遺産相続人ヘレン・クラーヴォーのもとに、エブリン・メリックと名乗る女から電話が掛かってくる。彼女は、水晶玉に「血を流しているヘレン」が見えると不気味な予言めいた言葉を放っていった。怯えるヘレンは父の投資コンサルタントだったポール・ブラックシアに助けを求める。が、エヴリンは悪意の電話をヘレンや彼女の周囲に執拗に投げつけ、ヘレンの弟ダグラスが自殺を図り死に、写真家のジャック・ティローラが何物かに殺される。
犯人はエヴリンなのか?
ブラックシアは次第にヘレンに同情し、彼女を助けようとするが、「狙った獣」「獲物」に照準を合わせ、狙い定めたようにその核心を射ぬく……物語はすでに破局(カタストロフ)を準備し、ミラーは鮮やかに最後の言葉(カタルシス)を操る。


<「狙った獣」エヴリン・メリック──引き裂かれた被写体>

都会はジャングルのメタファーになり、狂気のエヴリン・メリックが潜み、獲物を求め、さまよう場所になる。彼女は生存(being)している。

"彼女は笑い声を放った。それは普通の笑いではなく、尖った爪でおのが胸を引き裂き、薄い喉をかきむしるような響きがあった。苦痛に体を火照らせながら、彼女は街へふらふらと出ていった。"

エヴリン・メリックは、ヘレンへの電話で自分の姿が国中の美術館に展示されると告げていた。実際、彼女はモデル学校に行き、画家を訪問し、写真家ティローラに会う。
エヴリン・メリックという獣は、自分がさらに複製され、自己増幅することを望んでいるようだ。絵画も写真も鏡の中の映像も、不毛な「エヴリン・メリック」の自慰の対象、あるいは破壊の対象なのではないだろうか。

読者は、ミラーによってカメラ・アイの視点を許され(ミノルタ、あなたがカメラになったとき、カメラはあなたである_ミノルタの広告より)、獣の外面から内面まで観察する権利を得る。ただし限定された視野では、全体を見渡すことはできない。それがミラーの仕掛けた罠でもある。
この作品は「視線」の物語なのだ。

"あたしは誰も見ていないところで、放射線を蓄えているの。まず片方の鼻の穴から深く吸い、つぎにもう一方の穴から有害な化学物質を濾過して排出しているんだから。"

視線。彼女は「イマジナリーの領域」で無限の視線に曝されている。「想像界」は、決して安泰ではなかった。それどころか、<そこ>で
彼女の主体は引裂かれ、嫉妬深い両価性に脅かされている。<そこ>は「鏡の地獄」だった。

吸う。とめる。四つ数える。
吐く。とめる。三つ数える。
数えるところは、とても重要だ。四たす三は七。すべて七にしなければならない。

彼女はマティーニを注文した。martini--七字の言葉。


「言葉を広めなくては」──彼女は「象徴界」への参入を図る。ふいに、<父親>の「禁止の言葉」を思い出す。今は亡き父は命令をした──彼女を規格化した。

"何もしないよりましだった。でも、これではものたりない。気力と興奮が彼女の内部で燃えつきた肉体のように崩れかけていた。口のまわりが、路地にいた牡猫のように灰色の毛でおおわれていた。"

が、彼女は「社会的なわたし」に成ることに失敗する。彼女は、「人間モドキ/オムレツ」(Hommelette)のままだった。

"誰もがあたしを見捨てていく。電話をしても誰も出ず、あたしから離れていく。みんなが歩み去っていく。"

エヴリンは、雨の中、首をのけぞらせて哄笑し、大きく口をあけて雨を飲み込む。彼女の身体は一定のリズムを発し、防水加工されていて、「燃料補給」までできる。ヒステリーと自己陶酔。理性は潰え、獣性が首を擡げる。

彼女はあらゆる人が憎かったが、とりわけ三人のクラーヴォーを憎んだ。三人のなかでは、とくにヘレン。ヘレンは古い友達に背をむけて、歩み去った。 「つかまえてやる」エヴリンは壁にささやきかけた。「かならずつかまえてやる」
口のまわりの毛が、憎悪のせいで、長く濃くのびた。


鏡像の地獄──カオス──に放り込まれた人間は、叫び声をあげる。過剰/欠如に堪えかねて。エブリンは「象徴界」への参入をやめ、「現実界」へと<退行>する。その断念が「小説」──象徴秩序──をも断念させる。
NOTE

ヘンリー・ジェイムズ「密林の獣」(The Beast in the Jungle)との類似性

マーガレット・ミラーは多分ヘンリー・ジェイムズを読んでいただろう。 「密林の獣」の主人公ジョン・マーティンは、若い頃、自分の身になにか恐ろしいこと(獣)がふりかかるのでは、とういう思いに取りつかれ、自分以外の他者やものに何ひとつ能動的に働きかけることなく一生を送ろうとする。 そんなある日、以前の恋仲だった女の墓の近くで、喪服の男を目撃し、動揺する。そしてその瞬間に「獣」をみる。
わが人生にの密林が見え、そこにひそむ獣が見えた。その巨大で忌まわしいものは、彼が見つめてそれを認識する間にも、あたりの空気をふるわすようにして立ちあがり、彼に狙いをつけて身がまえた。目の前が暗くなった━獣が身近に迫って来た。幻想の中でそれを避けようととして、本能的に身をかわすと、彼はうつぶせにメイ(恋人)の墓に身を投げた。


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