これよりさき怪物領域
"BEYOND THIS POINT ARE MONSTERS"


あなたは一年間聞くことでしょう
罰を受けたあなたの頭の上に
狼どもの歎きの遠吠えや
ひもじがる魔女たちの泣き声を、
みだらな老人たちの慰みごとや
黒い盗賊どものはかりごとを

ボードレール『悪の華』





”ほかの人間はみんな、心に怪物をもっているんです。ただ別の名前で呼んだり、怪物なんかいないと信じているふりをしたり”

マーガレット・ミラーの小説世界をそのまま表現したような題名。物語はためらいがちに進行し、他の作品に感じられる息苦しいまでの緊迫感はない。女のため息と周囲のノイズが「犯罪の事実」を「確認」するだけだ。

姿を消した人間と、その彼を愛しすぎてしまった人間が「怪物領域」=「人間性を失った境界線」で再会するまでの記録。これこそがこの作品のモチーフで、この成就を奥に秘めたまま、物語は異様に静かに、そして緩慢に展開していく。
この作品はアダージョなのだ。

失踪した夫ロバートの死亡認定を求める妻デヴォンの訴訟。それを拒み、息子ロバートの死を絶対に認めない母親アグネス。ミラーの描く、夫婦関係、親子関係は一種の地獄(インフェルノ)で、その関係を結んだために、登場人物が何かしら罰せられているかのようだ。

”ロバートの地図の世界はきれいで、平たくて、単純でした。人の住む場所と、怪物の住む場所を区別していました。その世界がほんとうは、丸くて、場所はみんなつながっており、怪物とあたしたちをへだてる何者もない、と知ることはたいへんショックなのよ”

「ロバート」は何処へ行ってしまったのだろう。とり残された妻と母親。男がいない部屋の静寂。老いた母親の弾くピアノ・・・。

ストーリー
農園主のロバート・オズボーンが家を出たのは、姿が見えなくなった飼い犬を探しに出かけただけだった。「誕生日おめでとう」と料理人の女に気軽に声さえかけていった。しかしそれきり彼は帰ってこなかった。

食堂にはおびただしい血が流れ、農場に雇われていたメキシコ人の出稼ぎ労働者は全員いなくなっていた。状況からロバートは金銭目当てに労働者に殺されたと判断された。
ただ、どうしても死体が発見されなかった。
ロバートの妻デヴォンは夫の死亡認定の訴訟を起こす。だが、ロバートの母親は、息子の死を信じないばかりか、多額の賞金を用意し、息子の消息に関する情報を求めていた。

しかもそれだけでなく 母親のアグネスは、デヴォンが処分したはずのロバートの持ち物を密かに隠し持ち、家の寝室を改造し、新たな「ロバートの部屋」を作っていたのだ。ペナントを壁にかけて、サーフィンのポスターを貼って、彼のめがねを磨いて、そしてドアに「これよりさき怪物領域」と書いた紙を貼り付けて。

アグネスは「息子」が「存在」した子供部屋を再現し、「息子」が帰ってくるのを静かに待ちつづけていた。しかも窓という窓には、細工をほどこした鉄格子がはめてあって、外から侵入したり、中から外へ脱出できないようになっている
それはまるで罠である。
彼女はやってきた(あるいは帰ってきた)「息子」を今度は、絶対に手放さない覚悟でいるのだ。「息子」は絶対に自分のもと(母親のもと)を離れてはいけないのだ。子供部屋には子供がいるべきなのだ。
ここで象徴的に描かれる「母親」というモンスターほど空恐ろしいものはない。

怪物領域に踏み込んでしまった人間たち。そこから戻れなくなってしまった人間たち。ミラーは水を伝う波紋のような静かな筆致で、哀しいモンスターたちを描いていく。




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