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”自分のまわりに目の壁を築いたのです。それは、わたしたち、彼女以外の者たちの健全な眼、彼女を憎み、彼女を見張り、彼女が死ぬのを待っている者たちの眼です”
盲導犬に導かれ、女が歩いている。行き先は精神科医。だが彼女は盲目のふりをしているだけだ。盲目なのは彼女の妹で、その妹は「眼の壁」に怯えていた。眼の見えない彼女を見詰める「眼」とは?
この異様なプロローグは強烈だ。「鉄の門」の悪夢、「狙った獣」の不気味な電話と同様に、こうして「恐怖」の幕が開かれる。たしかにこの作品は、ミラーとしては水準作だが(特に動機が現在の視点からみると違和感があるし、最後に事件の経過をサンズ警部に逐一語らせているが、後年のミラーならもっと洗練されたラストを用意している)、殺伐とした人間関係、バラバラな家族、女性に支配される男たち、巻き起こる疑心暗鬼、そういった状況で起こる不可解な殺人を繊細な心理の糸でたぐいよせる様は、まさにアリアドネの技に称えられる。
ストーリー
悲劇は数年前に起こっていた。ケルジー・ヒースの運転する車は事故にあい、兄のジョニー・ヒースのガール・フレンドは死亡し、ケルジー自身は失明した。ケルジーはフィアンセのフィリップ・ジョームズとの婚約を解消したが、それにもかかわらず、彼女はフィリップを屋敷に引き止めていた。フィリップだけではない。ケルジーは富豪の母親から受け継いだ莫大な遺産で、家族を支配していた。それは死んだ母親そのままだった。
そんななか「眼の壁」に怯えるケルジーはモルヒネを服用し自殺を図るが、未遂に終わり一命を取り留める。だが助かったのもつかの間、次の日ケルジーはナイフを胸に突き刺されて死んでいた。
ヒース家、女の支配する家、イザベルの影。(この家にはおよそあらゆる神経疾患があるな)
”もしある家庭で父親が重要な存在だったら、その子供にとってその後の人生で、男性はすべて重要な存在になるのね”
このヒース家では母親のイザベル・ヒースの存在が圧倒的だ。それは彼女が死んでからも見えない幽霊のごとく登場人物に、彼女の存在が重くのしかかる。特異な遺言状はイザベルの作成したものだし、ケルジーはまるでイザベルが乗り移ったかのように振舞う。そういった家では父親の憐れで悲惨だ。召使の一人がこう言う”あなたのお話しぶりだと、まるで家族全員が旦那様を虐待しているように聞こえますが”
実際にイザベルはマントルピースのギリシャ壷の中にいた。灰になって。夫のヒース氏(ミラーはこの人物にファーストメームを極力使わない)は、サンズ警部に壷の中身(イザベルの残骸)を見せたとき、痙攣しながら狂ったように笑い転げる。
ヒース氏はもはや廃人だった。”(ケルジーが死んだって)そのことに慣れるだろう。とにかく娘の数を一人減らして、残りの数に習熟しなくてはならない。これはたんに算術の問題にすぎない” 彼はイザベルの指定した三階の部屋に閉じこもり、もはや二階へは降りてこなかった。イザベルの亡霊が彼を幽閉していた。
”これは頽廃だ。かれらはみな頽廃している。かれらは一人として生きる意思をもっていない” サンズ警部はこう思い、事件の起きたこの家を去っていく。