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”あたしたち、映画とそっくり同じようにしたわ、服もなにもかも脱いで。だからいま、結婚しなくちゃいけないのよ”
ストーリー
失踪したクリーオウ・ジャズパーは数日前に、トム・アラゴンに面会した「少女」だった。ホルブルック・ホールという裕福な家庭の問題児を集めた学校に通う二十二歳になる知恵遅れの娘。彼女は自分の権利について知りたがっていた。クリーオウの兄、ヒルトン・ジャスパーに彼女の捜索を依頼されたアラゴンは、ホルブルック・ホールのカウンセラー、ロジャー・レナードとクリーオウの関係を知る。二人は「結婚」しようとしていたと。
滑稽な空/滑稽な海/滑稽なわたし/滑稽なわたし/滑稽なわたし/滑稽なふたり/滑稽なくらい/忘れっぽい
「女」になったクリーオウは、彼女のやり方で、男に求愛する。相手は甥であり、同性愛の男性でもある。その姿は滑稽であり、とても痛ましい。
義理の姉はクリーオウについてこう言う。
あの娘、あのいまいましい、甘やかされた出来そこない娘のせいだ・・・・正しいこととまちがったことの区別もつかず、おぼえようとしない。
子供ができたらどうするの・・・・ろくでなしの低脳連中はみんな不妊処置を施すべき・・・
りんごはひとつでも腐ったら樽ごと腐らせる・・・・
知的障害者のSEX、しかも知的障害者がもっている性的欲求を描くことは、どんなに残虐な殺人者の内面を描くよりも、はるかに冒険的で難しいのではないだろうか。しかもミステリといった形式を持つ文学で。
ミラーはその困難を見事にやってのけたと思う。優しいまなざしとユーモアで包んで。サスペンスとしてのプロットも良く練られ、読後感も悪くはない。クリーオウの被害者となってしまったロジャーや学校長レイチェル・ホルブルックの描写も慈愛にあふれている。とくにレイチェルが学校を去る場面はすばらしく感動的だ。
「さよなら」とマイケルは言った。「さよなら。さよなら。さよなら。さよなら。さよなら。さよなら」
「ありがとう、マイケル。もうたくさんよ」
「さよなら。さよなら。さよなら」
ホルブルック夫人はできるだけ足早に歩き去った。しかし声はどこまでもついてくる。ほかの子供たちがマイケルの単調な声に唱和したのだ。
知的障害者のための学校ホルブルック・ホールは、クリーオウの「事件」で、激昂した偏狭な市民から閉鎖要求まで起こり、レイチェルはアラゴンの上司スメドラーに休職を助言された。
校舎の角まで辿り着くと、レイチェル・ホルブルックは振り返って手を振った。子供たちも手を振り返した。グレチェン、ふたりの少年、サンディ、マイケルまでが。マイケルが反応を示したのは、有望な兆候だった。ひょっとすると、成長するにつれて、新任の校長の指導のもと・・・・・・・・・だめよ。子供たちのことなんか考えるべきじゃないわ。ここを出て、あの子たちのことは当分、忘れなきゃいけないのに・・・・・。
「さよなら」ホルブルック先生はきっぱりとした口調で言った。
役目を終えた老女教師が、知恵遅れの子供たちから去る場面であるが、この作品は夫ロス・マクドナルドの死後に発表されたことを考えると、繰り返される「さよなら」に特別の重みを感じざるをえない。
この作品ではシリーズ・キャラクターのアラゴン、ローリー、チャリティのドタバタも愉しく、またアラゴンが危機にされられ、ハラハラさせられる場面もある。
「トム、死んでいたかもしれないのよ。死んでいたかも」
一命をとりとめたアラゴンとローリーは抱き合う。チャリティに「ぼうや」と言われていたアラゴンがいっとき「ヒーロー」になる瞬間である。