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”正常かどうかの判定は、文化と慣習の問題ですから。常軌を逸した文化のなかで暮すには、分別を捨て去らなければ適応はできません。その一方で、分別を弁えている人には自分を取りまく文化が常軌を逸しているのがわかり、それには頑として背を向けてしまうはずです。でも適応しないということで、その社会では常軌を逸している、つまり正常でないという烙印を押されてしまうのです”
ミラー随一の大作である本書は、ミステリという形式を捨てることなく、その限界に挑んだ野心作といえるかもしれない。各章に設けられたエピグラムは、章の内容を暗示する機能だけにとどまらず、最後には一貫した文章(手紙)になり、ミステリーの解答になる。つまりこの小説は一種のパズルになっている。このパズルの一片一片をはめていく作業工程でサズペンスが生まれ、ゲームとしての快楽を愉しむ。作者はラストの一片の衝撃を創意のすべてに賭け、それを見事に成功させ、ミステリの輝かしいフロンティアをさらに拡げた。
形式の超絶技巧ばかりではなく、内容においても、それに見合う深さと奥行きがある。単に家庭の悲劇といっただけでなく、人種差別も絡めた、アメリカ全体の悲劇を想起させ、ウィリアム・フォークナーやフラナリー・オコナーの世界に通じる普遍性を持っている。
アメリカ現代小説の一つエンブレムといってもさしつかえないだろう。
ストーリー
1955年12月2日。墓の没年月日はそう書かれている。つまり四年も前に、デイジー・ハーカーは死んだことになっている。夢の中で自分の墓を発見してしまったデイジーは、1955年12月2日に何があったのか、”失われた時”を求め、母親や夫の忠告を無視して、偶然父親の問題を扱っていたメキシコ系の探偵スティーブン・ピニャータに調査を依頼した。デイジーとピニャータは問題の墓を発見するが、そこには見知らぬ人物、メキシコ人カルロス・テオドーレ・カミージャという名が刻まれいた。死因は自殺とみなされていた。彼はアメリカで貧窮に喘ぎ、廃人同様になり死んでいった。現場には遺書ともとれるメモと二千ドルもの現金があった
”鼻持ちならぬ心卑しき者どもよ、この金は小生が天国に旅立つ費用として使うべし。カルロス・テオドーレ・カミージャ。1907年出生、1955年死去。この世に生まれ出ることあまりに早く、死することあまりに遅し”
カミージャが死んだ日。それはまさに夢のなかのデイジーの死んだ日であった。二人にはいったいどういう接点があるのだろうか。母親や夫の妨害ともいえる行動のなかに、デイジーは自分を取り巻いている何重もの策略の気配を感じ取った。このまま真相を知らずに後戻りはできる。だが、デイジーは待ちうける破局に向っていった。ピニュータと一緒に。
「なぜこんな町、こんな町っておっしゃるの、まるで地獄の一角みたいに?」
「ここはまさに地獄の一角なんです」
「あなたと一緒に行きます」デイジーは重ねて言った。
「ミセス・ロゼリオの家へ?」
「ええ、あなたがいらっしゃるなら」
「ファニータがいるかも知れませんよ、それに問題の子供も」
たちまち口許が苦悶に引きつったが、デイジーはめげなかった。「大人になるには避けて通れない途でしょうからね。二人に会うことも」
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管理された偶然性
マーガレット・ミラーによって選ばれた私立探偵ピニャータは、「賜物」である。彼はクリスマス・イブに孤児院チャペルのなかで見つかった。シスターが最初名づけたようにまさにジーザス・ピニャータだった。一見ロマンチック思えるこのエピソードも実は、不遇な少数民族の赤ん坊や混血児のたまたま幸運に命を取り留めた一例にすぎないだろう。成長してもピニャータは自分の氏素性や人種的な問題で悩んだ。
この小説のヒロイン、デイジーはそんなピニャータに自分の”失われた日”の再現を依頼した。デイジーにとってはそれは賭けだった。そして、それこそが迷宮に潜む作者ミラーによるこの小説の「投げられた骰子」であり、ぶつかり合い散乱しながら骰子は、「随意のミステリー」の解答へ、デイジーが殺された「墓場」へと読者を導く。恐るべき周到な設計が成されている。
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ボーン・イン・ザ・USA
正直言って、最初この小説を読んだとき、形式のすばらしさには感嘆したが、内容的には、さほど感心しなかったのを覚えている。それはよく知っているようで、実は日本人にはまったく実感がわかない人種差別の問題がこの小説には深く根を下ろしているからである。登場人物たちは、どうしてそこまで、「血」にこだわるのかというのがいまいち共感できなかった。しかし翻ってみれば「砂の器」や「レディー・ジョーカー」に描かれている差別。そういったものは人間性を疑うに十分であることがわかるように、ミラーのこの作品でもモンスターは、人間の歪んだ心が生むものである。
”混血野郎、(チョロ)、混血野郎、混血野郎のメキシコ人め、ナイフの手入れをしておけよ”
──おれの子供たちには、こんな罵声を浴びせかけられたり、頭にこびりつかせたりするよな目には絶対にあわせたくない
ピニャータは小説のラストでこう思う。