BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


ドルの向こう側
The Far Side of The Dollar (1964)

ロス・マクドナルド / Ross Macdonald
菊地光訳、ハヤカワ・ミステリ文庫




問題のある子供を収容しているラグナ・ペルティダ──”失われた潟”という名の少年院。ここから、実業家の息子であるトム・ヒルマンという少年が脱走した。少年院の院長からトムの行方を探すよう依頼されたリュウ・アーチャーは、しかし、トムが誘拐され、両親のもとには、身代金の要求があったことを知る。

調査を開始するアーチャーだが、彼の前に意外な事実が浮かび上がる。トムはミセス・ブラウンという女性と(彼の母親と言ってもよいくらいの年齢の女性と)一緒にいるところを何度か目撃されていた。
トムは本当に誘拐されたのか? トムとその女とはいったいどういう関係なのか? 

やがてヒルマン家に身代金の受け渡しの電話が掛かり、トムの父親ラルフ・ヒルマンは金を持って出ていった。一方、アーチャーは、ブラウン夫妻が泊まっているモーテルを訪れるが、そこには殴られナイフで刺されたミセス・ブラウンの死体があった。
アーチャーは、トムの少年院の仲間から、彼が脱走した理由を聞いていた。自分は養子で、本当の両親を探したかった……17歳の少年トムは、そう言っていた。
まやかしを認めないということが、新しい時代の、少なくとも、いくらかでもまっとうな新しい世代の、道徳律なのだ、と感じた。かなり正当な考え方だが、実際には、時によると残酷な結果をもたらすことになる。
── p.325

多少大袈裟に言いたい(何しろ読了直後だ)。この結末には、震撼した、入念なプロットがもたらす悲劇には、心底、震えた。「アメリカン・サイコ」とは、ロス・マクドナルド(とマーガレット・ミラー)にこそ、相応しい命名だ。
今年になってロス・マクは三冊目だが(『ブラック・マネー』、『ギャルトン事件』、『ミッドナイト・ブルー』)、彼の作品は、どれも最後のページを読み終わった途端、これは傑作だ! と唸らせるものがある。しかしこの『ドルの向こう側』は、本当に傑作だと思う。『さむけ』、『ウィチャリー家の女』に勝るとも劣らない素晴らしい作品だ。

(読了一日後)
一日経っても、やはり『ドルの向こう側』はロス・マク作品の中でも『さむけ』、『ウィチャリー家の女』に続く傑作だと思う。 もちろん、「ロス・マクドナルドの作品」なので、ストーリーは他の作品と似ている。ひとことで言えば、テーマは「父親探し」で、具体的な事件は失踪(この作品では「誘拐」絡みだが)である。たしかにワンパターンといえばワンパターンである。
また、前作『さむけ』もそうだが、男たちは「去勢」に怯え、女たちは「ヒステリー」というまさにギリシア語源の「子宮」を意味する病に陥っている。
あいつは、ミッドウェイ海戦以後、神経衰弱でだめになってしまったんだ。男がどんどん死んでゆく最中に、あいつを本国へ療養のために送還しなければならなかったのだ。男が死んでゆく最中に
── p.348
「あのブラウンの娘がイゼベルのような女でした。私の息子の身を滅ぼしたのです。世の中の穢れたことをすべて教え込んだのです」
声が変わった。かすかに頭の狂った何者かが、腹話術で彼女を通して説教しているようである。
── p.199
それにしても、この作品の張り詰めたような雰囲気、やりきれなさは、通常のエンターテイメントを超えているのではないだろうか。非常に暗くシリアスで重い。
しかしここでの感動はかなり深いものがある。文章は悩ましいくらいに魅力的で、そして何よりミステリとしての感興には──謎の真相に至る過程には、まるでエクスタシーのような快感さえ味わえる。

また、この作品では、リュウ・アーチャーの「過去の女性」スザンナ・ドルーが登場する。このスザンナ、ちょっと注目してよいだろう。というのも彼女はワーナーで脚本を書いていた、という設定なのだ。そう、マーガレット・ミラーも若い頃ワーナーで脚本を書いていた経験がある。そう思うとリュウとスザンナの「不思議な関係」は意味深だ。
「ハロー」
「リュウ・アーチャーだ。朝の三時にしては、ばかにばっちりしてるね」
「横になって、あなたやその他の出来事や人のことを考えていたの。誰かが──スコット・フィッツジェラルドだったと思うけど──魂の真の暗夜は、つねに夜明け前の三時のようだ、という意味のことをいってるの。私はそれをひっくり返したの。夜明け前の三時には、魂はつねに真の暗夜に包まれている」
「私のことを考えると、気が重くなる、ということかい?」
「ある考えの系列のなかではね。それ以外ではそうじゃないわ」
「謎のようなことをいうね、スフィンクス」
「そのつもりでいっているのよ、オイディプス」
── p.227
しかしこのスザンナとの邂逅も実は、精巧なプロットの重要な伏線になっている。ラストでの「犯人」に対するリュウ・アーチャーはある意味冷酷だ。それはこのスザンナとの出会いが影響していると思われる。
そしてそれは、ミステリ作家ロス・マクドナルドのシリーズ作品に対するストイックな態度を表明しているのかもしれない。




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ブラック・マネー
Black Money (1966)

ロス・マクドナルド / Ross Macdonald
宇野輝雄訳、ハヤカワ・ミステリ文庫




依頼人は銀行理事の息子ピーター・ジェイミスン。婚約者であった ヴァージニア・ファブロンが突然彼のもとを去り、身元の知れない自称フランス人フランシス・マーテルのもとへ走ってしまったというのだ。ヴァージニアを連れ戻し、そしてマーテルの素性を探って欲しい、そう依頼を受けたリュウ・アーチャーは、偶然別の人物もマーテルの素性を探っているのを知る。マーテルはいったい何者なのか? 
やがて悲劇は起こる。ヴァージニアの母親が銃で撃たれ、そしてマーテルも……。

ヴァージニアがマーテルのもとに走った理由は、彼がヴァージニアの死んだ父親と似ているからということだった。……彼女の父親ロイ・ファブロンは7年前に自殺していた。
この言葉には思わず唖然となった。わたしはあらためて自分の胸にいいきかせた。この女にはもやは清純な娘ではなく、みじかい悲劇的な結婚生活をすでに経験した一人前の女なのだ。それに、ながい悲劇的な少女時代らしきものを経験した異常な女である。自分の父親を”ロイ”と呼びはじめたときから、口調は明かに変貌していた。あたかも少女から中年女へ一足とびに成長したようにだ。
── p.266

とにかく。これほど一冊の本に様々なタイプの女性が登場する作品も珍しいのではないかと思う。まるである種女性のカタログだ。しかもそれらすべてがリュウ・アーチャーの冷徹で皮肉なコメント付きで「分類」される。
しかし読み終わってから感じるのは、どこかで見知ったような女たち……すなわちマノン・レスコーであったり、マダム・ボヴァリーであったり、テレーズ・ラカンであったりと。
実はこの作品、もう一つのキーが「フランス」で、フランスの文学作品がいくつか登場し、これが重要な伏線になっている──というより一種のメタフィクションになっていると言ってもよいかもしれない。

また、全体を通してフランス文学特有の「姦通」のテーマがあちこちで覗え、今回は何故か女にモテモテで(キス・シーンさえある)、めずらしく「明るい」リュウ・アーチャーの態度にもそういったフランス的な「洒脱」があるのかな、と思った。そう考えるとこの作品、相当実験的で凝った造りになっている。つまりこの作品はポストモダンなミステリなのかもしれない。非常に野心的な作品だと思う。

もちろん通常のミステリとしても、真犯人はとても意外で、後半の「謎解き」はとてもエキサイティングであった。




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ロス・マクドナルド傑作集
ミッドナイト・ブルー

  Midnight Blue and Other Stories

ロス・マクドナルド / Ross Macdonald
小鷹信光訳、創元推理文庫




ロス・マクドナルドの短編集。どの作品もプロットは入念に練られていて、ミステリー(本格)としてなかなか面白く読めた。しかし、ちょっと物足りない気がしないでもない。
やはりロス・マクドナルドは長編向きなんだろう、「悲劇」を盛り上げるためには、ある程度の「長さ」が必要だ。

『女を探せ』
1946年ケネス・ミラー名義で発表された、最初の商業誌掲載作品。最初の作品にはその作家のすべてがあるというが、この処女短編には、まさに以後のロス・マクドナルドの作風のすべてが含まれている。
失踪した女性の行方を探すリュー・アーチャー、本格を思わせる大掛かりな殺人方法(トリック)、ラストのどんでん返し、異常心理への言及、会話にトルストイやマゾッホが登場する文学趣味など。
荒削りな部分も見られるが、ロス・マクドナルドの原点を知る上で重要な作品だと思う。ロス・マクはやっぱり「本格」だった!

『追いつめられたブロンド』
後年の「有名作」を思わせる展開。やはり複雑で、堕落した家族関係を扱っている。ここでは、筆者のかなり辛辣な女性観が覗える。

『ミッドナイト・ブルー』
昼の明かりのなかでは、できないかもしれませんが、真夜中(ミッドナイト)になると、ものの形も人の心もかわる
文章は、まさしくロス・マク調。比喩もキマッている。内容も、人間関係の機微に深く分け入り、かなり読み応えがある。そして、悲劇的なラストも圧巻だ。

『眠る犬』
知り合いの女性から犬を探して欲しいと頼まれたアーチャー。しかし、犬は銃で撃たれ、地面に埋められていた。そして殺人事件が起きる……。

他に中篇『運命の裁き』が収録されているが、これは長編『運命』の元になった作品ということだ。よって今回はパス。
また評論『主人公(ヒーロー)としての探偵と作家』はとても興味深い。ここでロス・マクドナルドはレイモンド・チャンドラーとの作風の違いを如実に述べている。いわく
私はプロットを、作品の意味を伝える手段とみなしている。プロットは現代社会と同じように複雑に入りくんでいるべきだが、語られる物語について真実を述べるべく充分に均衡が保たれていなければならない。探偵小説の結末の意外性は、作品全体の構成を通じて逆行する悲劇的な振動をそなえていなければならない。つまり、物語の骨組みは単一で、しかも意図されたものでなければならないということである。
ここに同じハードボイルド派にカテゴライズされるチャンドラーとロス・マクドナルドの決定的な違いを読み取れる。もちろん僕は断然ロス・マク派だ。




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ギャルトン事件
The Galton Case (1959)

ロス・マクドナルド / Ross Macdonald
中田耕治訳、ハヤカワ・ミステリ




まるでグリムの童話みたいなお話ね。羊飼いの少年がじつは王子さまのかりの姿だったといったところだわ。それともオイディプスかしら。ジョンにはエディプス・コンプレックスそのままといったところもあったわ。自分を王国から追放したというのでエディプスは父親を殺したわね。あたしにはとても悧巧なこどだったような気がするけど
アンサニイ・ギャルトンは二十年前に家出し、行方がわからなくなっていた。彼は富豪の息子で、その家柄と不釣合いな女と結婚したため、家族が彼を許さなかったのだ。しかし、年老い重い病気に罹っている母親マリア・ギャルトンは、死ぬ前に息子と再会することを切望する。
ギャルトン家の弁護士ゴードン・セイブルにより、アンサニイの調査を依頼されたリュウ・アーチャーだが、彼が捜査を開始した途端、セイブル家の召使ピーターが何者かに殺されてしまう。
やがてアーチャーは、アンサニイがジョン・ブラウンという名でルナ・ベイに住んでいたことをつきとめるが、彼が住んでいた家から、数ヶ月前に首のない白骨死体が発見されていた。どうやら殺人らしい。その死体はアンサニイなのか? そんななかアーチャーは、ジョン・ブラウン(アンサニイ)の息子と名乗る若者と出会う。彼もまた父親の行方を探していたのだった……。



どうも『ウィチャリー家の女』、『縞模様の霊柩車』、『さむけ』ばかりに話題が集中してしまうロス・マクドナルドだが、初期の作品や後期の作品もとても面白い。何よりミステリーとしての緊密なプロット、カタルシスを確実に与えてくれる真相(エンディング)、暗く陰惨でありながら文学的感動さえ感じられる深みのあるストーリー、そして美しい文体。

もちろん初期作品には少しばかり当てはまらないものあるが、この『ギャルトン事件』は、前述の『ウィチャリー家の女』あたりとなんら遜色のない優れた作品であると思う。
ロス・マクドナルド自身も『ギャルトン事件』をターニングポイントになった作品であったと認めているそうだが(『縞模様の霊柩車』後書きより)、そのとおり、まさにロス・マク円熟期の傑作であると思う。ミステリー的な複雑さと人間関係の不可思議さが、これほど見事にマッチした作品もそう多くはないはずだ。
素晴らしい文章に酔い、謎解きの妙にエキサイトし、奥深い内容に感動した読書だった。
タラサ、海だ、ホメロスの海だ。われわれはここにまた新しいアテネの町をつくることができるんだ。前からいつかサン・フランシスコで新しい町をつくろうと思ってきた。大いなる丘の上に新しい人間の町を建設するんだ。すべてのことに寛容をもって律する町をつくるんだ。ああ、すばらしいな。




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