BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


マンティス
MANTIS (1987)

K・W・ジーター / K.W.Jeter
猪俣美江子訳、ハヤカワ文庫NV




個人的に非常に気に入っている作品。読むのはこれで3度めになる。ひとことで紹介するならば、「猥雑で幻想的な街ウェッジを舞台に繰り広げられる、ターナー、マイクル、そしてレイの危険で過激で過剰なゲーム。キーワードは血、エロス、死」
しかし、ひとことで紹介できないところにこの作品の奥深い魅力がある。

ストーリーは、カマキリ(マンティス)の生態をなぞるように展開する。雌カマキリは、獲物とパートナーを区別せず、交尾の最中に雄カマキリを貪り食ってしまうというアレだ。
マイクルにとってウェッジにやってくる女は獲物である。彼は女たちに望み通りのものを与え、殺す(それも彼女たちの望みなのだ、と語り手ターナーは言う)。レイはそんな獲物=女たちの血を浴びながらマイクルとのセックスに悦びを感じる危険な女=マンティスだ。
やがてマイクルとレイ(そして語り手のターナー)は、食うか食われるか(殺すものと殺されるもの)の死闘=ゲームをスタートさせる。(語り手ターナーはせいぜい気をつけなければ、と何度も繰り返す)

こんなふうにストーリーはたしかにB級ノリの猟奇スリラーと言える。しかしその一方で、文体はやけにエレガントで文学的でさえある。描写は触感的で精緻を極め、視点は複雑に入り組み、独特の雰囲気を醸し出す比喩、不思議な後味を残す詩的な表現は無類の完成度を誇っている。
この文体がまるで悪夢を見ているような得難い読書体験をさせてくれる。ジーターがフィリック・K・ディックの後継者と呼ばれる理由がなんとなくわかる。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』あたりの作品に通ずる突如として足元を掬われるような「めまい」すら感じさせてくれる。一筋縄ではいかない作品だ。

主要キャラクターはターナー、マイクル、レイ。なのだがマイクルはターナーが生み出した彼のもう一つの人格=キャラクターという扱いになっている。つまり一種のサイコ・スリラーとしての体裁を取るのだが、腑に落ちない文章がところどころに見うけられる(しかもターナーの実際の息子の名前もマイクである)。
さらに、レイがいかにボーイッシュであるか、中性的であるか、あるいはレイとマイクルが背格好のみならずルックスまで似ている等といった、ミステリーの読み手なら迂闊に読み飛ばせない描写に突き当たる。
キャラクター──その一語がすべてを言い表していた。ベネットの目に映る世界、そしてそこに住む人々。本の中のキャラクターだ。彼自身、そのことを承知していた。
-- p.52
そしてターナーは、この作品の語り手「私」としての役割の担い、マイクルとレイの危険なアバンチュールを赤い言葉でコンピューターに逐一記録している。
このターナーの「語り」が実は曲者で、彼の「語り」が信用できないばかりか、ターナー自身も自分の叙述に混乱し慌てふためき、事実(現実)との齟齬をまざまざと見せつける。彼は事実を語っているのか、それとも騙っているのか、それとも彼も読み手と同様騙されているのか、それがこの作品を読む際の居心地の悪さと不思議な感覚を感じさせてくれる。

ただし、作者ジーターの資質はやはりSF系なので、ミステリー的な解決を期待すると、肩透かしを食うかもしれない。




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異邦人たちの慰め
The Comfort of Strangers

イアン・マキューアン / Ian McEwan
宮脇孝雄訳、早川書房




やがてオルガスムの話題が始まった。男と女は似たような快感を経験するのか、それとも根本的に違っているのか。根本的に違っているという点で二人の意見は一致した。だが、それは文化によって誘発された差異なのか?

ハンサムな青年コリンと恋人のメアリ(離婚歴あり、前夫との間に二人の子供もいる)は、ある美しい観光地で地元の盟主らしい夫婦(ロベルト、キャロライン)に出会う。精力的で男性的な夫と、身体が不自由で病的な妻。彼らは、コリン(とメアリ)に対し、押し付けがましいほど親切だった。
ある時メアリは発見する。ロベルトの本に挟まれたコリンの写真。そして夫婦の寝室の壁一面に貼られた膨大な数のコリンの写真を…。

この作品は、一言、”猟奇殺人版「ヴェニスに死す」”と言えるだろう。ヴェニスとおぼしき(はっきりと特定されない)幻想的な土地で、美青年を付け狙う異常な夫婦。
と言うと、単に耽美的な色物に堕してしまう恐れがあるが、そこはブッカー賞受賞のマキューアン。丹念な描写と、伏線を凝らした技巧的な構成、エレガントな文体など、非常に読み応えのある「文学」になっている(この作品もブッカー賞にノミネートされた)。

冒頭に、レズビアンで急進的なフェミニズム詩人エイドリアン・リッチの詩が掲げてあるように、この作品では男女間の絶望的な「溝」を描いている。解説では「性差戦争(セックス・ウォーズ)」とある。

最初はセックスの描写がかなり露骨で、まるでポルノグラフィー?とさえ思ったが、読み終わると、なるほど、と思う。
コリンとメアリのセックスは、平等と言うか、対等と言うか、俗に言う「攻め」「受け」が感じられない。二人は結婚することさえも考えていない。一方、ロベルトとキャロラインの夫婦には、凄まじいほどのSM行為が存在し、それによって夫婦が一体になっている。
誰かに恋をしたときには、その必要があれば、相手に殺されてもいいと思うんじゃない?
この落差はあまりに図式的であるが、この作品を貫くテーマでもあるだろう。

また、美しい男性を中心に据えているわりには、あまりホモセクシュアルな展開にならないのも、通常「見られる側」としての女性の代わりに、(文字通り)被写体としてコリンという男性を倒置している「作者の意図」があるからだろう。


この小説は、ポール・シュレーダー監督により映画化されている(邦題は『迷宮のヴェニス』、コリン役がルパート・エヴェレット、ロベルト役がクリストファー・ウォーケン)。
ルパート・エヴェレット主演なので(当然!)見たことがあるが、原作にほぼ忠実で、なかなか面白かった。なにより、ルパート・エヴェレットの美しさは際立っており、クリストファー・ウォーケンも圧倒的な存在感を示していた。
ただ、この本の解説にもあるように、映画の方はサイコ・スリラーとしての面が強調され、観念的なサディズム・マゾヒズム/性差戦争というテーマまでは踏みこんでいない。




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消された時間
The Longest Second (1957)

ビル・S・バリンジャー / Bill S. Ballinger
仁賀克雄訳、ハヤカワ文庫




初バリンジャーであるが、これはツボに嵌った。こういった技巧的(いや、超絶技巧的)なサスペンスは大好きだ。
最初は、男性の全裸(死体)が登場するというので、ミステリでは数少ないシチュエーションに指を鳴らし、エラリィ・クイーン『スペイン岬の謎』あたりも思い浮かべながら、映像化するならメル・ギブソンがいいかな、もっと理知的な感じでレイフ・ファインズがいいかな、と不埒な妄想に耽っていた。が、しかし、第一章から第二章に移ってから「?!」とさせられ、もうあとは一気読み。のめり込むように読んでしまった。
それもそのはず、原本は返金保証の「袋とじ」になっているということだ。

この作品では一人称で語られる部分と三人称で語られる部分が交互に現われ、「それぞれ」のプロットがスタートする。

まずは一人称部分。「わたし」が目を覚ますと病院にいた。場所はニューヨーク。彼は喉を切られ、靴だけを履いた全裸の状態で、ビアンカ・ヒルという女性に発見された。その靴には千ドル紙幣が入っていた。しかし彼は記憶喪失に陥っている……。

次、三人称部分。ニューヨークで発見された男性の「死体」は靴だけを履いた全裸の状態であった。被害者は喉を掻き切られ殺害された。発見者はビアンカ・ヒル。死体の靴には千ドルが入っていた。身元はわからない……。

そう、これは同じシチュエーションなのに、一方では一命を取りとめた男の物語として、もう一方では殺人事件を追う刑事たちの物語としてストーリーが進行していく。これはどういうことなのか。SFだったらパラレル・ワールドみたいな展開になるけど、これは純然たるミステリー。論理的に処理される/されなければならない。
つまりこの作品では、その構成自体がミステリーであり、トリックであり、マジックであるというわけだ。そして最後の最後、ラスト一行でその仕掛けが華麗に明かされる。

結末はショッキングだった。不思議な読後感が後々まで残る。ベルリオーズ『幻想交響曲』第4楽章「断頭台への行進」を思い浮かべた。




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殺意のシナリオ
The Last of Philip Banter (1947)

ジョン・フランクリン・バーディン / John Franklin Bardin
宮下嶺夫、小学館




恐怖は夜となく昼となく人を襲う。おぞましさの感情は、当然ながら、人の心のなかで、暗黒の色調、耳障りな物音、棍棒の打撃、腐朽の悪臭と結びついて現われる。(中略) 自己暗示のゆえか魔力のゆえか、一つの予言がひとりの人間に悲劇をもたらすこともある。

冒頭エピグラフより

広告代理店に勤めるフィリップ・バンターのデスクに置かれていた奇妙な原稿──「告白」。そこには彼の未来の出来事が記されていた。アルコール中毒で神経症気味のフィリップには、それが自分で書いたものであるのか、それとも誰かの悪意に満ちた策略であるのか、判断はつきかねた。しかし、「告白」に書かれたことが現実に近づいていくにつれ、恐怖は募り、神経はますます病み疲れ、そして……。
いま彼は恐怖のうちに孤立していた。すぐ後ろで一本の恐ろしい指が自分をさし、沈黙のうちに自分を告発している(いったい、自分の何を告発しているんだ?)。そのことをはっきり意識していた。振りかえらなくても彼にはそれがおぼろげに見えた。そして、恐ろしい考えが浮んだ。こんなことを思うこと自体、精神異常の証明かもしれないのだが。──おれは正常と異常を隔てる境界を踏み越えたのではないか。おれは妄想の世界に文字どおり歩み入ったのではないか? おれの背後にうずくまるこの不気味なしろものは、今後ずっとおれを取り巻くことになる歪んだ世界の光景なのではないか?

p.182

マーガレット・ミラー派──なんてのはないが、ぜひそう言いたい──ジョン・フランクリン・バーディンの第2作。提示される不可解でなんとも魅力な謎、繊細な心理描写、異様でショッキングな結末と、まさに「ミラー派」と呼ぶに相応しい。何と言っても、現実と非現実の境が次第に曖昧になり、幻想的な雰囲気が濃厚になっていく様がたまらない。こういう系統の作品は大好きで、手放しに絶賛してしまうが、実際1947年発表とは思えない斬新なアイデアと強烈なサスペンスに夢中にさせられた。

こういった作風の作品には「サイコ」と言うよりは、個人的には、「ニューロティック」という言葉を使いたい。 それは、「ミラー派」が「サイコスリラー」の先駆的作品と見なされ、そのように紹介されことがあるが、しかし、ローレンス・サンダースの『魔性の殺人』とトマス・ハリスの『レッド・ドラゴン』以降の、そしてこれら両作品の「劣化コピー」のごとき量産される「サイコスリラー」とは一緒にされたくない気がするからだ。これら一連の「サイコスリラー」は、異常で残酷な殺害「方法」を競い合い、取って付けたような幼児虐待と心理学テクストの「丸写し」がほとんどの工業製品に過ぎない。どれもこれも代わりばえがしない(ある意味「負のキャラクター小説」だ)。

しかし「ミラー派」(バーディン、バリンジャー、スタンリー・エリン、リチャード・ニーリィあたり)は、叙述と構成に凝った──賭けた──独創性と緻密な心理描写で勝負し、しかもミステリー・マインドを決して疎かにしていない。何よりラストで鮮やかな幕切れと余韻を導くための文章力がものを言う。

最近は本格古典のリヴァイバルが目覚しいが、バーディンのような「ミラー派」、もしくは「ニューロティック・サスペンス」の紹介も待望したい。


それと個人的なメモ。『殺意のシナリオ』の主人公フィリップ・バンターの造形にはちょっと気になるところがあった。彼は妻を「母親」のように見ていること(二人の間に子供はいない)、「自分では女性を値踏みできない」(p.117)に加え、T・S・エリオットの『荒地』を朗読したり、ちょっとしたエピソードなのだが、彼はバーで「少年のような」兵士と話し込み、兵士が「プラトン」を読んでいるのではないかと勘ぐる。そしてフィリップはハンサムでナルシスト(文字通り、鏡に見惚れ、妻に「ナルキッソス」のようだと詰られる)という設定だ。別にどうってことないのだが、ちょっと気になる。




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