金色の盃
The Golden Bowl(1904)
ヘンリー・ジェイムズ / Henry James
青木次生 訳、講談社文芸文庫
ヘンリー・ジェイムズの完成された最後の長編小説。ストーリー自体は図式的というか、わりと単純かもしれない(あくまでもストーリーそれ自体は)。そしてこれまでのジェイムズ作品のように、ヨーロッパVSアメリカという「状況」を孕みながら、ドロドロの人間関係を緻密な──これ以上ないくらい緻密な、緻密すぎる──心理描写で描いていく。
アシンガム夫人の仲介で、イタリアの貧乏貴族アメリーゴ公爵とアメリカの大富豪の娘マギー・ヴァーヴァーは結婚する。一方、マギーの父親アダム・ヴァーヴァーもマギーの友人シャーロットと結婚することになる。
しかしアメリーゴとシャーロットは実はかつて恋人同士であった。二人は貧しさのため、結婚をあきらめたのであった。
今やアメリーゴとシャーロット(のヨーロッパ)は(アメリカの)財産を手にいれた。この「財産」によって二人はまた「接近」することができた。立場は変わったが──義理の母シャーロットと義理の息子アメリーゴというふうに。二人はかつての恋人の「関係」を取り戻してゆく……。
ヘンリー・ジェイムズの『金色の盃』(黄金の盃)と言えば、
「<読めない本>のゲームをしようじゃないか」と彼は提案した。
「いいとも、おれからはじめるぞ──『ユリシーズ』」
「ラブレェ」
「『トリストラム・シャンデイ』」
「『黄金の大杯』(金色の盃)」
「ラセラス」
「いや、あれはぼくの愛読書だ」
「こいつはおどろいた。じゃ、『クラリサ』はどうだ」
「よし。──『タイタス』──」
エドマンド・クリスピン『消えた玩具店』(大久保康雄訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)
というふうにイギリス人も書いているし、夏目漱石も「ジェイムズは難しすぎる」と匙を投げたとか。それを(とりあえず)読めたのは訳者さんの丁寧な翻訳のおかげだと思う。多謝。
それとジェイズム・アイヴォリィの映画『金色の嘘』。この映画によって人間関係とだいたいのストーリー展開を掴んでおいたので、『金色の盃』をなんとか「攻略」できたのだと思う(実は映画を見る前にチャレンジしたのだが、そのときはあえなく玉砕してしまった)。ただこの映画で全くハマリ役だったユア・サーマン(シャーロット)とアンジェリカ・ヒューストン(アシンガム夫人)のイメージがどうしてもダブッてしまったが。
で、映画との比較。驚くべきことに小説と映画の間にストーリー上、大差はない。様々なエピソードもほとんどカットなし。約1000ページの長大な小説が大規模なカットもなしに見事に映像化されていた。
それはつまり、ストーリーそれ自体はそれこそ前述したように単純であるが、それを描写する単語の量がべらぼうなのだ。実際、一つの肉体的な動き、目配せ一つ、表情の微妙な変化一つに対して際限のない心理描写が底無しの繊細さでもって果てしなく続いてゆく。その「文体」は読み手に異様なまでの集中力を要求するが、しかしジェイムズならではの神業とも言える「芸術作品としての小説」を味わうことができる。この小説を読みながら、自分の感性と感受性のレベルを試されているような気さえした。
こういった作品なので、内容の理解度においては到底自信はない。その上でいくつか気がついたことをメモしておきたい。
「ハッピー・エンド」
この作品はジェイムズには珍しくハッピー・エンドに終わっていると思う。義理の母と息子という大胆な不倫関係はもちろん暴露される。しかし誰がどの程度それを「知って」いるのかは、わからない。シャーロットとアメリーゴにとっても彼らの「行動」がどれだけ「知られて」いるのかは、彼らにもわからない。いみじくも映画のタイトルのもなった「嘘」が──登場人物たちの「嘘」が──登場人物たちの間で行われているだけでなく、読者に対しても「嘘」が巧妙に仕掛けられている……ように思える。そしてこの「嘘」によって、彼らの「関係」が──特にマギーの努力によって──「修復」される。つまり極めて人工的、あるいは技巧的な「関係」において、彼らは「曖昧に」存在している。
極論すれば、もしかするとこの作品も『ねじの回転』同様、マギーの「妄想」が生み出した「人騒がせなドラマ」であるとも解釈できる。確実なものは何一つない。
「ブリッジ・ゲーム」
シャーロットとアメリーゴの不倫関係が「発覚」(だれがどの程度知っているのかはわからない)した後、問題の二組の夫婦にアシンガム夫妻を交え、トランプ・ゲームが行われる。このときの彼らの心理描写の見事さにはまったく舌を巻いた。ゲームの進行と同時に、彼らの内に秘めた思惑、策略、無意識の敵愾心が精妙に巧妙に描かれる。これはヴァン・ダインの『カナリヤ殺人事件』やアガサ・クリスティの『ひらいたトランプ』にも影響を与えたのではないだろうか。
「ジェンダー」
ジェイムズの「新しさ」はこの時代において際立っている。例えばこんな文章
実を言えばみんなの心理状態は、相変わらず共同歩調を取りながら相変わらず対立しあっているランス夫人とラッチ姉妹が男性の征服を目的として短期間ヨーロッパに上陸したという話を聞いただけで、胸が期待にふくらむような、そういう状態に達したのである。
─下巻 p.274
かつてアメリカを蹂躙したヨーロッパの男たちは、アメリカの女性たちに「征服」される。ここではヨーロッパVSアメリカは男性VS女性のメタファーでもあるように思える。
それだけでなく、アシンガム夫人は「女だてらに」煙草をふかしているし、何より悪役のシャーロットをはじめ、「主導権」を握っているのはすべて女性だ。いくつかある解釈では、マギーは夫アメリーゴを取り戻し、夫婦関係を「修復」したが、しかしそのために、シャーロットはアダム・ヴァーヴァーの「財産」をすべて手に入れることになる。つまりシャーロットは当初「共犯」だったアメリーゴを出し抜いたことになる(もちろんアメリーゴは「財産」よりも「賢明な関係」を手にいれることができたが)。
その上で僕は、この作品を、『ある婦人の肖像』や『鳩の翼』のようにヨーロッパ側が詭計を張り巡らし、アメリカ側の「財産」を奪うというふうに読んでいったのだが、解説をみると一概にヨーロッパ=悪、アメリカ=善と決めつけられないことに気がついた。つまりヴァーヴァー父娘はヨーロッパで何をしていたのか。それは美術収集であり、悪く言えば金にものを言わせ、ヨーロッパの芸術を略奪しているのである。とすれば、まるで美術収集のように、美貌の(実際、美男子であることが何度も強調される)アメリーゴ公爵(=ヨーロッパの美術品、男性)を、(シャーロットに比べ「美しくない」)マギーが、結局最後には奪い返し(略奪し)、成金アメリカ人は貴族の称号も獲得する、という解釈も成り立つ。アダム・ヴァーヴァーにしても──これはマギーの妄想(過剰な想像力)に過ぎないが──シャーロットの首に絹の端綱を巻き、彼女の自由を奪っている(ようにマギーに「見えた」)シーンがあり、そこには「征服者」アメリカ人のイメージがダブる。
それにしてもジェイムズの作品では女性キャラクターが生き生きとしている。『ある婦人の肖像』では悪役のマダム・マールがヒロインに劣らず強烈であったし、『鳩の翼』でもケイト・クロイの悪辣ぶりが素晴らしかった。『カサマシマ侯爵夫人』でも主人公のハイアシンスよりも、ショーペンハウエルを読み、革命運動を影で支援している謎の貴族夫人カサマシマの存在が何よりも印象に残っている。そしてまだ未読であるが『ボストンの人々』では女権運動とレズビアニズムがテーマになっているという。
そういえば、以前セックス・フレンドとゲイの作家のフェミニン度(女性的)とマスキュラー度(男性的)について話し合ったことがあったが、そのときジェイムズが一番フェミニンな感じがするということで一致した(マスキュラー的なのはアンドレ・ジイド)。