BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


大聖堂の殺人
Murder in the Catherdral (1935)

T.S.エリオット / T.S.Eliot
小津次郎 訳、筑摩世界文学体系71




トマス
    お前は誰だ?
誘惑者
    ご存じないのだから、わたしに名前はいりません、
    だが、あなたはご存じだ、だからわたしは来たのです。
    ご存じだが、わたしの顔をごらんになったことはない。
    いままでお目にかかる時も場所もなかったのです。

 ─ p.345
『荒地』で有名なモダニスト詩人エリオットのドラマ。舞台設定は中世イギリス、カンタベリー大聖堂内。ニ幕もので幕間にクリスマスを挟んだシンメトリーな構成。
題名がまるで「推理小説」なので読んでみた。

ストーリーは、王権と教会権がせめぎあう中、国王により追放されていた大司教トマス・ベケットがフランスから帰ってくるところから始まる。7年ぶりの帰郷、しかし民衆(コーラス)はトマスを歓迎していない、何か不吉なことが起こるのでは、と不安を<聴衆に>に抱かせる。
第一部ではトマスと「4人の誘惑者」との善悪をめぐる、いかにも宗教的な葛藤。そしてクリスマスの白々しい説教を挟んで、第二部では「4人の騎士」による大司教トマス殺害が実行される。推理小説というよりも、シェイクスピア(特に『マクベス』)やウェブスターあたりの禍禍しい復讐ドラマに近い。

……しかし突如として重厚な宗教ドラマがぶち壊される。トマス殺害後、4人の騎士たちが、まるで裁判の被告のように──あるいは弁護士のように、<聴衆>(この劇を見ている現代の聴衆)に対し、殺人の正統性を主張するのだ。陪審員はもちろん<聴衆>だ。ここで騎士たちは「フェア・プレー」や「英国精神」といった言葉を持ち出し、聴衆=陪審員を説得する。挙句の果て、「大司教殺人事件」は、トマスという精神病患者の自殺という「判決」が導かれる。

まあ1935年というと、どうしても当時の欧州状況に擬えてしまうが、シニカルなモダニスト詩人のことだからその解釈は一筋縄ではいかないだろう。以下のセリフなんてとても煽動的なんだけどね。
王が亡くなれば、別の王ができる。
王があらたまれば、別の世となる。
新しい王が位につけば、前の王は忘れられる。
しかし聖者と殉教者は墓場から支配します。
考えることだ、トマス、色を失った敵のことをお考えなさい。

 ─ p.346




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無政府主義者、密告者、ドルゆえに
An Anarchist, The Informer, Because of Dollars

ジョゼフ・コンラッド / Joseph Conrad
鏡味国彦、仁木勝治 訳 博文社




コンラッドの短編集。『無政府主義者』『密告者』『ドルゆえに』『青春』の四編が収録されている。『青春』は以前読んだことがあるので今回はパス。

『無政府主義者』と『密告者』は、『西欧の目の下に(西欧人の目で)』や『密偵』を彷彿させる政治がらみ、犯罪がらみのストーリーで、極限状態に陥った人間の様相を非情に描いている。コンラッドならではの迫力ある筆致だ。

『無政府主義者』は平凡な修理工が、陰気な考え(デ・ジデー・ノワール)に囚われ、自分を「無政府主義者」であると冗談で口走ったために、残酷な運命に弄ばれる。彼は逮捕され独房に入れられる。しかし出所してからも、「無政府主義者」のレッテルを貼られた彼には居場所はなかった。常に警察に監視され、就職は邪魔される。やがて彼は本当の犯罪者となり、囚人専用の島に送られる。が、その島の刑務所では囚人による脱獄及び看守狩りが計画されており、それが実行に移される。修理工=無政府主義者の男も島を脱出する。そして海上に浮かぶボートの中で「無政府主義者」は仲間の囚人を平然と撃ち殺す・・・・・・。

だらだらと粗筋を書いてしまったが、些細なこと──「無政府主義者」であると口走ったこと──が人間一人を容易く破滅に導いてしまうシステムの恐ろしさは、不気味なくらいリアルだ。「無政府主義者」を「テロリスト」に置き換えれば、まるで昨今発表された小説のようにさえ思える。同様に、「無政府主義者」という犯罪者の烙印を押された人間が、結果、冷酷な殺人者になってしまうメカニズムも極めてリアルであり、説得力がある。パトリシア・ハイスミスの『ガラスの独房』を思わせる。

『密告者』は幾分喜劇的なところもあるが、題名のとおり、密告者という裏切り者=スパイを「狩る」ストーリーになっている。無政府主義者の組織の中にいる裏切り者=密告者を捜すため、偽の警察の手入れを行い、密告者を炙り出すというもの。サスペンスフルな展開であるが、しかしこの物語を読んで思い知らされるのは、ときに真摯な「信念」よりも単なる「ジェスチェー」の方が重要だという皮肉な側面だ。

『ドルゆえに』は『闇の奥』を思わすシチュエーション。文明の果つるアジアの島で、文明に脊を向けた西欧人は、グロテスクなまでに狂暴になる。なんといっても強烈なのは、両手を失った不具のフランス人が、その手の部分に鉄の分銅を付け、狂暴な殺人者として登場するところだろう。コンラッドは(書かれた時代を考えれば)容赦なく、その殺人場面を描写する。

それとこの三作(及び『闇の奥』)はすべて、誰かに物語を「話して聞かせる」という書き方になっている。しかもその語り手の話すことは、さらに別の人物からの伝聞だったりする。つまり語られる「出来事」は、本当にあったことなのかどうかというのは明確にはわからない──書き方をしている。そのため、夢を見ていたような不思議な後味をも残す。




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トラストDE
小説・ヨーロッパ撲滅史 (1923)

イリヤ・エレンブルグ
小笠原豊樹、三木卓 訳 海苑社




ほとんどイーブリン・ウォーを読んでいるような強烈なサタイヤーと怖いもんなしのブラック・ユーモア。これがソビエトの作家で、しかもユダヤ人のエレンブルグの作品だというのが、何より驚きだ。1891年生まれのこの作家の経歴を見ると、戦争、革命、内戦、亡命、ユダヤ人差別・虐殺(ポグロム)といった修羅場を経験しており、文字通り波乱万丈の生涯であった。
そのためだろうか、この作品で彼は、そんじょそこらの「はったり」とは訳の違う、徹底的な腰の強さでもって、ヨーロッパを全滅させている。その筆致には絶望を通り越して、哄笑さえ響いてくる。

主人公はモナコ王子の血をひくエンス・ボート。彼はヨーロッパを破壊するために「トラストDE」(ヨーロッパ撲滅トラスト)を結成し、有志を募り、見事にそれを実行する──この小説はその一部始終をヘロドトス風に記録している。ベルリンを破壊し、東ヨーロッパに疫病を撒き、フランスには性的不能にする麻薬を広まらせ、イギリスを餓死させ、そしてロシアも……。

しかしこういったストーリーを読んでも全然ウェットな感じはしない。重苦しくない。クールでマンガのようで、まるでゲーム感覚──だからいっそうグロテスクと言えるだろうか。

文章スタイルも独特だ。映画を見ているようなスピーディーかつリズミックな(翻訳)文体──こういう表現も最早バカバカしいまでに常套的だが──は言うまでもなく、やたらと統計的数字が頻出し、名刺や電文、ポスター等がそのままの形で掲載されている。ロシア・アヴァンギャルドの残滓とモダニズム的実験が──現在では──とても微笑ましい。

だが、エンス・ボートはなぜヨーロッパを撲滅させなかればならなかったのだろう。外形的には、この物語は、ギリシア神話のエウロペとゼウスの話に擬えられている。エウロペ(ヨーロッパ)に恋したゼウスの「愛」とそれに嫉妬したヘラの「憎しみ」。「愛」も「憎」も深ければ深いほど強烈なエネルギーを発する。
ロシア/ソビエトを生きたユダヤ人のインテリゲンチャ、エレンブルグが放つ言語的猛毒も、その只ならぬ愛憎のせいか、バカバカしいまでに強烈だ。そしてその愛憎のせいか、ラストシーンは無類に美しい。




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ヴァンサンに夢中
POU DE VINCENT (1989)

エルヴェ・ギベール/Herve Guibert
佐宗鈴夫 訳 集英社




あんまり赤裸々なんで、読んでるこっちが赤面してしまう。だって「してること」がいちいち「わかる」し、決してクールでもスマートでもない生々しい自分の性体験を思い出させるから(まあドラッグはやってないけどね)。
例えばこんなところ
暗がりのなかで、ぼくは飽きもせずに行為をつづけていた。「睾丸を舐められるのは好きかい?」と、ぼくがふっと囁く。「なんでも好きだよ」と、彼は答えた。そして、さっさと眠ってしまった。

 ─ p.23
「明かりをつけてフェラチオをされていると、禿げているのがわかるよ、頭のそこのところが」と、彼は言う。

 ─ p.24

この小説はギベールがエイズ感染を知った後に発表されたものだが、病気の暗い影はほとんどない。むしろ軽やかに愛する恋人ヴァンサンへの思いを綴っている。
しかし冒頭で読者が直面するのはヴァンサンの死だ。つまりこの小説ではヴァンサンとの最後の別れから始まり、ヴァンサンとの最初の出会いで終わる。現在から過去へと時間は逆流していく。

スタイルは日記風というか短い文章がメモのように記録されている。しかしその短い文章の中に作者独特の感性が宿り、露悪的なセックス描写さえも、ポルノグラフィー的というより、コメディ的な楽しさに満ちている。そんな中、詩的でこれ以上ないくらい印象的な表現が不意打ちを食らわせる。
きらきら光る魚のように、一晩中身体のまわりに光を発していた彼は、事が終わると、ぼくの愛撫を逃れて、光を消してしまう。ぼくはぽっかり穴のあいたその暗闇にむかって唇を突き出す。

 ─ p.56
この「きらきら光る魚のように……」っていう文章はさすがギベールだと思う。別に「美文」だからというわけではなくて、これほど男の射精前/射精後の「豹変」を的確に表現しているものはないと思うからだ。




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ポピー・Z・ブライト/Poppy Z. Brite

彼の口はニガヨモギの味がする(ミステリマガジン1994/8)
カルカッタ──生命の主(ミステリマガジン1995/8)
ニューヨークの歩き方(ミステリマガジン1999/8)

柿沼瑛子 訳



待望の問題作『絢爛たる屍』(文春文庫)が邦訳メニューに加わったので、それを食す前にアペリティフとして短編を。

『彼の口はニガヨモギの味がする』(His Mouth Will Taste of Wormwood)は、二人の大学生が、ドラッグやセックスでは満たされない欲望を悪魔的儀式/黒ミサ/ヴードゥー教に向け、そして……というもの。まずはこれでブライトの「味/テイスト」がわかる。二人の青年──同性愛的な関係、パンク・ロック、呪術的儀式、死体(屍)への嗜好、生と死の表裏一体、そして緻密で美しい文章。ホラーとしても申し分なく、彼女独特の得難い雰囲気を醸し出している。

『カルカッタ──生命の主』(Calcutta, Lord of Nerves)はラテン・アメリカの幻想小説のような腐臭と熱気を帯びた作品で、ブライトの想像力が炸裂する傑作。過去の因縁(血縁)がラストで見事な円環を形成する。ダン・シモンズも絶賛したという。
ストーリーはカルカッタという生者と死者(ゾンビ)がひしめき合っている猥雑な土地で主人公の少年が謎めいた女神に遭遇する。エキゾチックなスパイスが舌をジリジリと刺激するが、巧妙なのは、カルカッタという街自体が女性器/子宮のイメージに擬られており、それが「テーマ」とまさに歯車が噛み合うように結びつくことだ。
そしてカルカッタは世界の割れ目なのだと。世界が足を開いてしゃがむと、カルカッタはそこに露になってみえる湿った性器で、甘美であると同時に醜悪な、さまざまな匂でかぐわしく濡れているのだと。それはもっとも淫靡な快楽の源であり、思いつく限りのあらゆる病の発生の地でもあった。

p.140
またこの作品では、ゾンビの「生者を食らう」シーンがかなり生々しくグロテスクな描写になっているが、作者は嬉々としてやっているみたいだ。

『ニューヨークの歩き方』(How to Get Ahead in New York)はスーパーナチュラルな要素はなく、田舎からニューヨークに出てきた二人の青年が、次々と奇妙な体験をするというもの。そうはいっても、二人がホームレスの大群に襲われるところは、まるでゾンビに襲われているようであるし(ジョージ・A・ロ メオが言及される)、生首のホルムアルデヒト漬けなんていう悪趣味なヌーヴェル・クイジーンもサーブされ、ゾクゾクするような刺激に不足はない。しかし後味は決して悪くない。ちょっとした──ラブクラフト風味の──青春小説のようでもある。
二人の青年──スティーヴとゴーストは、長編『ロスト・ソウルズ』(角川ホラー文庫)にも登場する。



[ポピー・Z・ブライトのオフィシャルサイト]
http://www.poppyzbrite.com/




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黒い塔
The Black Tower (1975)

P・D・ジェイムズ/ P.D.James
小泉喜美子 訳 ハヤカワ・ミステリ




久しぶりに読んだP・D・ジェイムズ作品。これは面白かった。禍禍しい「黒い塔」の設定と身体障害者施設の複雑な人間関係。相変わらずの細密描写であるが、いつになく次から次へと殺人が起こり、意外に「エンターテイメント」している。暗鬱な古色蒼然とした雰囲気の中で、とびきり現代的な犯罪が露らかになるのも見事であるし(ただしアガサ・クリスティの『バートラム・ホテルにて』の設定を思い出した)、しかも最後には犯人とアダム・ダルグリッシュ警視との決死の対決もある。もちろん文学的な余韻も後々まで残る素晴らしい作品だ。

こういったジェイムズの重厚で文学的な作品は決して嫌いではないのだが、ある理由によってちょっとばかし彼女の作品を読むことを敬遠していた。

一つは『わが職業は死』や『策謀と欲望』のように、壮大な規模の設定を有し人間関係の奥底に潜む「ミステリー」を繊細に重ねあげていく大長編は、確かにそれ自体、読み応えはあるものの、それにしては犯人が──ドラマの荘重さに比して──小物であり、ラストもなんだかあっけないような、要するにミステリ的なカタルシスに欠けるような気がしていたこと。

もう一つは作品とは関係がないのだが、しかし個人的にはこちらの理由の方が重要で、それはP・D・ジェイムズが保守党の貴族院議員なったというニュースを聞いたからだ。イギリス保守党と言えば、サッチャー/メージャー時代に同性愛差別法案「セクション28」を制定し、伝統的に反同性愛の立場を取ってきた政党である。ジェフリー・アーチャーならいざ知らず、ジェイムズのような作家がそんな政策を取る保守党を支持しているのが残念でならなかった。作品と個人の政治思想は別とはいえ、例えば『女には向かない職業』はやはり反フェミニズム的な視点に立脚した作品だったのか、と勘ぐってしまう(一方、ジェイムズと良く比較されるルース・レンデルは、同性愛を公言している議員が何人もいる労働党の議員であり、レンデル自身もインタビューでゲイ・ライツ運動に参加していると応えていた)。

そんなわけでP・D・ジェイムズからしばらく遠ざかっていたのだが、昨年(2002年)、保守党の有力議員アラン・ダンカン氏が同性愛であることをカミング・アウトし、それ以降、保守党も伝統的な同性愛敵視政策を180度転回、同性愛を公認するに至った。そしてたまたまアンソニー・スレイド著による
『Gay and Lesbian Characters and Themes in Mystery Novels』という古今の推理小説に登場するゲイ&レズビアンを研究した本をパラパラめくっていたら、ジェイムズの頁で「『黒い塔』はこれまで書かれたミステリーの中で、最も美しいゲイのリレーションシップが描かれた作品だ」と書かれてあった。 その部分を引用すると、
ヘンリイは、自分がついに、そして嬉しいことに、愛というものを知ったその瞬間を決して忘れないであろうとわかっていた。 (中略)

そして、それから、彼のほうを振り返らぬままに、ピーターがその腕をのばして柔らかな内側の肌をヘンリイのそれと同じ部分に押しつけ、そして、あたかも動きの一つ一つが何か儀式的な、確証の意義があるとでもいうように、たがいの指と指とをからませ合い、二人のてのひらもまた、その肉と肉とをぴったりと重ね合わせたのだった。ヘンリイの神経と血液とはその瞬間をはっきりと記憶しており、そして、死ぬまでそれを忘れはしないだろう。恍惚のショック、突如として知ったよろこび、波立つ昂奮ゆえのまったく混じりけのない幸福な泉は、しかし、それでもまだ、逆説のようだが、義務の遂行と平和のうちに根ざしていたのだった。その瞬間には、人生でそれまでに起こったすべてのこと、彼の仕事、彼の病気、<レイントン・グレンジ>に来たということ、それらすべてがこの場所、この愛へと彼をつれて来てくれたもののように思われた。何もかも──成功も失敗も苦痛も抑圧も──すべてがここに至るためのものであって、そして、今、それが正当化されたのだ、というふうに。こんなにも他人の肉体を感じた経験はなかった。

 ─ p.98-99
『黒い塔』は、僕がP・D・ジェイムズに対して抱いていた二つの「懸念」を吹き飛ばしてくれた。



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体験のあと
After The Hole (1993)

ガイ・バート/ Guy Burt
矢野浩三郎 訳 集英社




あのときはだれも口にしなかったかもしれないけど、私たちに必要だったのは、古代ギリシア劇よく現われる、あの機械じかけの神(デウス・エクス・マキナ)だったのです。
(中略)
つまり私たちの頼みの綱は、あそこから救い出してくれる、ある種の神のような存在だったのです。それはマーティンではありません。彼は神ではなかった。たとえ私たちよりも一歩神に近い存在であったとしても。

 ─ p.134-135
カリスマ性のある「神のごとき」少年マーティン。彼の策略=ゲームに嵌った パブリック・スクールの生徒5人が学校の地下室に閉じ込められる。
学校はイースター休暇のため誰も来ない。やがて食料は尽き、水道は止められ、電気も消えて……。マーティンによる「人生の真実を知る実験」は完璧だった。

……という「ストーリー」なのであるが、問題は凝った叙述にある。閉じ込められた一人の少女による一人称の「手記」、事件=体験に加わった5人以外の少女によるテープレコーダーに吹き込んだ「告白」、そして神のごとき視点に立った「三人称」、さらにエピローグの「手紙」。これらの重層的なテクストが、ラストで衝撃を食らわせる。

そういう類の作品なので、あまり書くことが出来ないのだが、解説にもあるように、イアン・バンクス『蜂工場』、ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』、シャーリー・ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』あたりの小説に読後感が近い、と言えばわかるだろうか。「信頼できない語り手」を有す作品やナボコフあたりの小説が好きな人にも薦められる(それにしても作者ガイ・バートがこの小説を書いたのが、オックスフォード大学在学中の18歳のときだというのが驚きだ。また『穴』という題で映画化もされた)。

ちなみに僕がこの小説を手に取ったのは、中島美弥氏による挿画がとても印象的だったからだ。フランシス・ベイコンを思わす豪奢なオレンジ色の螺旋階段の中に陽炎のように佇んでいる少年。幻想的な雰囲気が素晴らしい。



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